Lv.1 セール前夜
にこにこマート新田店は32年続いた息の長い店だった。沢渡が42歳で店長になり早10年が経つ。これまでたくさんの人が働いてきた。アルバイトの大学生やパートスタッフの主婦、正社員も何人かいるし、店を支えてきたのはそうした人たちだった。店長の自分に出来るのは店が上手く回るよう影からの気配り。これは以前の店長から学んだこと。彼が退職して長い年月が過ぎたがその心持ちは今も沢渡の人生の指針となっている。
小さな鏡の前でネクタイを締め直す。ジャンパーを羽織り、ずいぶん薄くなった髪型を気にする。「よっし」と気合を入れるとロッカーを閉めた。
今日は明日からのセールの準備がある。それだけに気合もひとしおだ。身支度を終え、朝礼にみんな集まる。
「今日は明日からのセールに備え閉店後セール準備を行います。準備するものが多くて大変かと思いますが、みんなで手分けしておこたりなく行いましょう」
こうして店長として朝礼するのもあとわずか。
にこにこマート新田店は1週間後、閉店する。
◇
その日の客は少なかった。天気が大荒れで客足が遠のいていた。雷も鳴り、雨足は強い。ただ、セール準備をするにはうってつけでみんな黙々と準備を進めた。
バックヤードでかご売りの準備をひたすら進めるスタッフ、通常業務の品出し、レジ、接客などに従事するスタッフ、店では工場の生産ラインのように色んな作業が同時進行している。沢渡はというと事務所でPOPのチェックをしている。POPの準備も極めて重要でPOPとチラシの価格が相互しているか、準備し忘れのPOPはないか、沢渡は太い油性マジックでチラシに印をつけながら抜かりなくチェックしていく。特に他店との協賛ではなく、新田店のみのセールなので独自のPOPも多く、気を使った作業になる。
『沢渡店長、沢渡店長、至急サービスカウンターまでお越しください』
店内放送で呼ばれて事務所を駆けだす。バックヤードで走り、店内に入って歩調を緩めてキビキビと歩く。
サービスカウンターには小太りの中年女性がいてスタッフともめていた。
「お待たせいたしました。店長の沢渡です。どうかなさいましたか」
女性は立腹している様子でまくしたてるように話し出した。
「来た時小降りで傘を車に置いてきたけど、今雨降ってるから余ってる傘を貸して頂戴って言ったの! なのにこの店員、傘は店で売ってるからっていうの。客が困ってるのに傘を売ろうなんてどういうことよ」
「余ってる傘と言いますと」
「客の忘れ物の傘があるでしょう。それを1つ貸してくれって言ったのよ」
「申し訳ありません、お客様。お忘れ物の傘は私共も無断でお貸しすることが出来ないのです。販売している傘がございますのでそちらをお求めください」
「あんたまでそういうこと言うの! 頭きちゃう!」
女性はドンッと激しくカウンターを叩いた後、買い物袋を提げて店を後にし、客用の傘立てからビニル傘をとっていくのが見えた。
対応していた若い女性スタッフが意気消沈していたので沢渡はポンッと肩を叩く。
「ああいう、勝手なお客さんもいるからね。対応は間違っていないよ。私でも同じように対応するから」
女性スタッフの表情が和らいだので、引き続きカウンター業務を任せて、事務所に引っ込もうとしたら入社して3カ月の新入社員、高橋に声をかけられた。
「9番来てるっすよ」
9番、万引き客だ。事務所に引っ込むのを止めて、9番のいる菓子売り場に直行する。最近来始めた幼い子供連れの若い母親で発注担当者が商品の減りが激しいことに気づき監視カメラで万引きが発覚した。
沢渡はエンド(商品棚の端)から様子をうかがう。駄菓子の前をうろうろ、うろうろ。高橋も発注するふりをして近くで見張っている。万引き出来ないと悟ったのか売り場を変えて総菜売り場に行く。沢渡と高橋もそれについていく。
一見すると惣菜を選んでいるようにしか見えない。けれど退屈そうにする幼子のそばで女性は万引きする品を探している。それもバッグに入れやすそうな小さな惣菜を。惣菜をいくつか手に取り、かごに入れる。再び売り場を変えて今度は魚売り場。その時高橋が気付く。
「店長、ポテトサラダがなくなってるっす」
その言葉で万引きしたことを確信した。さらにイカの刺身をかごに入れ、それも再び駄菓子売り場に戻った時には無くなっていた。
駄菓子売り場をうろつく女性を見て逡巡した。捕まえるべきなのだろう。でも、警察に突き出せば子供はどう思う。自身の母親が万引きで捕まったことを知ると一生の傷になる。もしかすると止むに止まれぬ事情でしていることかもしれない。迷っている間に小さなガムをまた、かばんに入れた。沢渡は心を決めた。
「お客様」
女性がおびえた顔で振り向く。
「何かお探しですか?」
沢渡は優しく微笑む。
「あ、あの……」
目をそらさずじっと視線を合わせ、笑顔を絶やさない。女性は戸惑いをあらわにする。
「何かお手伝い出来ることはないですか」
「あの」
女性の声が揺れる。次第に涙が溢れ、「すみません、すみません」と泣き出した。
女性はその場で生活が苦しいことを告白し、カバンの中の物をかごに出した。子どもは母が泣いているのを不安そうに見ている。
「ママ」
沢渡は子供の頭にポンッと手を置くと「大丈夫だよ」と言った。本当は代わりに払ってやりたい気持ちはあったが客を特別扱いすることは沢渡のポリシーに反した。店を出たところで捕まえればよかったのだろうが、これがせめてもの情け。大丈夫、彼女は次も来てくれる、店が1週間後閉店する事情など忘れてそんなことを思った。
POPのチェックを終えて品出しをし、蛍の光で閉店時間になったことを知る。最後の客が帰ると電気を半分落とし、店内が薄暗くなる。これからが大仕事。バックヤードにスタンバイさせた特売商品などをいっせいに店内に運び込む。しなびた店がみるみる活気を帯びていく。明日からいよいよ最後のセールが始まるのだという未知の物に期待する気持ちと、もう2度とセール準備はしないのだという一抹の寂しさが押し寄せる。POPを配り手分けして値札を付け替える。
今日のシフトはセール準備に慣れた人たちばかりを揃えたので心配はしていない。みんな迅速に作業に取り組んでくれている。頼もしいスタッフに囲まれてこんな幸せなことはない。
素直な気持ちだった。
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