第3話「じゃあ、山紫」

 八時ちょうど。登校完了。

 俺は自分の席にカバンを乱雑に置き、そのまま着席をする。

 クラス内はまだまばらで空席が目立つ……というか、現在時刻を持って、席に着席している人間は俺一人だった。

 他の席には一応鞄はいくつか置いてあったものの、それでも持ち主はそこにいない。トイレかな。

 

 朝の余裕ある登校に慣れていないからか、目の前の光景が少しいつもと違って見える。

 しかし、しばらく周りを見ていれば、それがいつもとなんら変わらない光景であることが再確認できた。

 別に窓脇の花が朝顔のわけもないのだから、そんな変化を期待すること自体間違っていて、その感想は当然のことだ。

 一息。

 ため息に近いその息を吐いて、外を見る。

 

 俺と赤碕が住んでいる学生マンションはこの学園まで徒歩で十分ほどの立地。

 知る限り、俺はこの学校では二番目に近い距離に家を構えている生徒だ。

 つまりまあ。

 もう少しだらけつつ、グダリつつ、ゆっくりのんびり出立しても良かったのだけれど、しかし、あの肉厚たっぷりの唐揚げを食べた後、あのまま部屋に留まり続けていたとしたら、それは間違いなく意識を飛ばしていたことは想像に難くない。

 あんな幸せな満腹感と多幸感。

 どうにかなってしまうことは、火を見るよりも明らかだ。

 ということで。

 そそくさと玄関を開け、学校へ向かった俺な訳なのだった。


「——純也くん」


 後ろから声がかかる。

 高く澄んだ、透明感のある声。

 女子のものだ。

 こんな朝の時間。それもはっきりと俺を名前で呼ぶ女子なんて、そうはいない。

 加え……こんな凛と真面目ぶった声色の人間など、この学校どころか世界にだって二人以上いて欲しくない。


 そんな予想立てしながら、声の方向を振り返る。


「今日はどうしたのかしら? 随分と早いようだけれど」


「……唐揚げ」


「あらそ」

 

 なかなか会話として意味不明のわからない返答をしたつもりだったのだけれど、しかし目の前の女は一定の納得をしたようで。

 あまりにも興味なさげに話を切って、彼女はこちらに歩いてきた。

 どうやら……会話自体を切り上げたわけではないらしい。

 そのまま自分の席――つまり左の席に着席してこちらを向く。

 俺とは違って音も立てず、非常に高貴さが見え隠れする一連の動作で。

 彼女は丁寧にカバンを机の上に置く。


「じゃあゆっくりお話でもしましょうよ」


「嫌だ」


「暇なんでしょう?」


「…………」


 そういえば暇だった。

 反射的に断ってしまったけれど。

 

 彼女は全く気にした様子はなく言葉を並べる。


「私ね。いつもこの時間は退屈なの」


「じゃあ帰ればいいだろ。家近いんだし」


「そうはいかないのよ。バレるといろいろ困るじゃない」


 無表情にそう言いながら、彼女は近く。

 そのまま俺の腕時計に指を当てた。

 時計を見るのは本日二度目だったのだが、時計に自分以外誰かの指が触れるのは、初めてのことだった。

 そのまま、なぞるようにして文字盤に宛てた指をスライドさせていく。


「んー、そうね。このぐらいの時間なら大体ここにはいるかしら。早い時は……その三十分前とか」


 ゆっくりと、しかし、しっかりと。

 艶かしく指を俺の腕時計の上で動かす。

 その動きはとても綺麗で、彼女の長い指がまるで違う生き物のようにうねって見えた。


 ……なんだろう。

 別に実際に体を触れさせているわけでもなく、ただ時計を触られているだけだ。

 それだけのはずで。

 それだけなのだ。

 にも関わらず。

 なんというか……どうしようもなくエロいことをしている気分になってくるのはなぜだろう。

 エロいというか、いけないことをしている……みたいな、そんな感じ。


 まあ。

 こんな感覚など間違いなく気のせいであって、絶対に勘違いであって、加えて言うと、そんなことを彼女に気取られてしまったとしたら、何を言われるのかわかったものではないわけで。

 だから、そんな本心を悟られないように俺は無表情をキープしながら腕を引っ込めた。

 必然的。彼女の腕を支えら力はなくなり、それが机の上に落ちる。

 沈黙は少し。

 ゆっくりと彼女は顔を上げた。


「ねえ」


「…………」


「純也くん」


「……なんだ」


「もしかして」


「おう」


「いま」


「おう」


「エッチなこと考えた?」


「ははっ。そんなわけないじゃないですかお姉さん」


 なんでかな。

 一瞬でバレたんだけど。

 おっかしいなぁ。

 まあとっさにごまかせたので下手なことにはなっていないはず。

 少し焦ったように口調が乱れたことには乱れたが、それでも文面はまだ平静を保っているように見えるだろう。


「嘘ね」


 そして、どうやら文面すらも保ていなかったようで。

 結局彼女は薄く笑いながら「相変わらず面白いわね」と、妖艶に言葉を付け加えた。


 返す言葉もないし、またこういった場面で適切に吐くべき便利なセリフなんか持っているわけでもないので、だから黙る。

 彼女は少しだけ、ため息をついた。


「……まあ、別にいいけどね」

 あなたも一応男の子だし。

 

 と彼女は自分の胸に手を当てた。 


「私ね。昔から発育が良かったから。男子のエロい視線って結構慣れてるの」


「……俺は何も聞いてないからな」


「お尻より胸の方が発達早いのよね」


「俺は何も聞いてないからな」


「スポブラじゃすぐに合わなくなっちゃってさ。親にすぐ新しいのを買ってもらっちゃった」


「俺は何も聞いてないからな!」


 自然と引き寄せられるように向いてしまうこの視線はきっと本能のせいだろう。

 自分が男だということをこんなに恨むのもなかなかに珍しい。


 彼女はその手を下から支えるようにして、だらにその豊満な胸を強調する。

 「ほらっ、大きいでしょ」と無表情、無感情のまま訴えてくる。


 その問いへの答えとして、彼女が一体何を期待なさっているのか、何を思案なさっているのか、全くもって検討つかない。

 

 当然、俺は一般的な男子高校生であるわけで。

 もちろん女慣れをしているわけもないわけで。

 女子と手を繋いだことだって満足にないワケで。


 だからまあ。

 もちろんみっともなく動揺し、慌てふためき。

 それを隠すように再びみっともなく目線をそらして、言葉を出した。


「……慣れてるって言っても」


「……ん?」


「慣れてても、そういう目で見られるってのは、普通に嫌なもんなんじゃないのか?」


「いえ、別に。そんなに嫌じゃないわよ」


「……そうなのか」


「むしろ気にしたら負けかなって。私一応JKだし。今がいちばんの売り時だし」


「売り時って……」

 そんな、魚じゃねえんだから。

 

 自暴自棄とも取れるセリフまでを変わらない無表情で言うもんだから、一体それがボケなのかマジなのか、判断が大変難しいことこの上ない。

 そして——ようやく次の台詞で、俺は今日の彼女がなんのモードなのかが分かった。


「ピッチピチ、仕入れたばっかの新鮮素材。今が買い時、旬のJK。JKだよ。さてさて、お一ついかがかね?」


「…………」


 なんか……勝手に始め出した。


「いやいや、なんと旦那は運がいい。今なら超お買い得価格期間中でして、ほとんどプライスレスな値段でご提供させていただきますってお話ですよ。もちろん、ここでいうプライスレスは『掛け値無しの価値』って意味ではなく、『値段がレス』の方のプライスレスって意味でっせ」


 なんだろう。

 心持ち語尾に訛りがあるのは、これが彼女の想像する江戸っ子だからなのだろうか。


「なんとですねぇ旦那。このJK、いつもなら諭吉さん百枚は下らないところを――どうだい、今なら学食二回連れてけば、間違いなく進呈してあげようじゃないの」


「…………」


 学食二回、ですか。

 まあうちのは普通な安くて早くてまずい学食なので。

 だから二回分といってもだいたい、七百円ぐらいだろう。

 だったらまあ……確かに安いけども。


「思春期まっただ中の男子高校生を相手にするには、なかなかの良心価格設定だとは思いませんかい? 旦那」


「…………」


 ちなみにここまでのやりとりを全て真顔でやっているのが目の前の女だ。

 その視線が一切俺の目から離れないところを見ると……ダメだ。

 どうやらこれは買わないと終わらない流れらしい。


 仕方なし。俺はその真っ直ぐに向けられた視線を逸らしながら言った。


「……じゃあまあ、とりあえず買います」


「へい毎度!」


「じゃあ、山紫」


「なんですか、ご主人様」


「命令——笑えないから、もうこれやめろ」


「冗談だって」


 いきなり素に戻った彼女は、「ははっ」一つ笑い。

 笑えないという俺の発言自体は別に冗談でもないので、変わらずほとんど無感情に笑う彼女を、ただ流し目する。

 そして、しばらく笑った彼女はその後、再びまた、自分の体を見るように下を向いた。


「まあでも」


「ん?」


「私だってそりゃいい気はしないけどね」


「……何が?」


「男子の値踏みする視線」


「…………」


「やっぱり性的に見られるってのはいい気がしないものよ」


「……慣れたら平気なんじゃなかったのか?」

 じゃあ、さっきまでの身売りコントはなんだったんだ。

 お前、値踏みされるどころか、自ら身売りしてただろうが。

 

 そんな指摘はきっと聞こえていない。

 彼女は髪をいじいじと弄りつつ、ギリギリに聞こえるぐらいの声で言う。


「まあ、それは純也くんが相手だったってのもあるし」


「はぁ」


「話の中のネタみたいな感じだったし」


「……はぁ」


「とにかくよ」


 と、最終的にはこんな風に彼女はまとめた。


「男子にそういう風に見られるのが好きな女子なんていないって話」


 そして。

 そのまま次の言葉を出すわけでもなく、彼女は立ち上がって、教室から出て行ってしまった。



 結局のところ彼女——『山紫薫』がここで俺に何を言いたかったかはわからなかった。

 きっと何かを言いたかったわけじゃなくて、なんとなくの暇つぶしだったのだろう。


 ただ暇で、退屈していた時。

 そんな時に目の前にちょうどいいオモチャがあって、だからそれで遊んでいただけ。

 

 あいつはそういうやつで前からそういうやつだ。


 昔から——そういうやつだった。

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