第38話 言い訳しても遅い
いつものように電車に揺られて、下りて、最寄り駅から出て。コンビニの前で、私は大きな背中を見つけた。
「
私の声で、桃矢は振り返った。ぎく、とかそういう、きまりが悪そうな顔だ。悪戯がばれたのか心配する小さい子みたい。
「連絡したのに無視しないでよ。何回連絡したと思ってんのよ」
「は?」
桃矢は目を瞬かせると、スマホを取り出していじった。数秒で、眉を下げる。
「……わりぃ、気づいてなかった」
「やっぱり……まあ、ここで追いついたからいいけど」
むしろ、ここで会うほうが都合がいい。学校で二人きりのところを見られたりしたら、後で面倒なことになりかねないもの。妙な噂をたてられて、
…………。
桃矢は不意に、じいっと私の顔を見下ろした。
「お前、顔赤くないか?」
「……そりゃあんなにあったかい電車から出てすぐ、この寒い中走ってきたからね。あんた、歩くの速いし」
「でも、熱があるかも」
「いいから」
いや何やろうとしてるのよあんた。桃矢が手袋を素早くとって私の額に手を伸ばしてきたものだから、私は慌ててその手を掴んだ。冗談じゃない。桃矢と真彩が付き合う前ならともかく、今はそんなことされたくなんかない。
「それより、公園へ来て。話があるの」
「……わかった」
私がほとんど命令口調で言うと、桃矢は大人しく頷いて手を引っ込めた。ただし、不満が顔にありありと出てる。これは、少しでも隙を見せると手を伸ばしてくるかも。気をつけないと……。
公園へ強制連行してるあいだ、桃矢は何も話さなかった。まあ、私が怒ってるのもその理由も承知だろうし、当然だよね。私も余計なことは話したくなかったから、何も言わない。重苦しい空気のまま、私たちは公園へと向かう。
ようやく着いた公園は、予想どおり、誰もいなかった。囲碁や将棋どころか、遊具やボールで遊ぶ子すらいない。こんなに寒いんだから、当然だけど。私たちのために誰かが舞台を作ってくれたみたいに、話しあいに向いてる。
木の板とカラフルな塗装の金属で造られた遊具の辺りまで来て、私は桃矢を振り返った。桃矢も立ち止まると、表情を改める。
「……話は、真彩のことか」
「そ。わかってると思うけどね」
私は両腕を組んで、桃矢を睨みつけた。
「なんで、悩みを真彩に話してあげないわけ? 今日も真彩に聞かれて、はぐらかしたんでしょ。今まで何回も聞かれたのに」
「……」
「桃矢。ちゃんと答えて。何を悩んでるの? なんで真彩に、悩んでることを打ち明けないの? 見た目はか弱いけど、真彩はしっかりしてるよ。あんたの悩みをちゃんと聞くって言ってるんだから、真彩に話せばいいじゃない」
この期に及んでまだ観念しようとしない桃矢に苛立って、私の声は自然ときつくなった。
桃矢はしばらくのあいだ、黙ってた。この期に及んで、まだ話す気になれないの? いいよ、男らしくないけど、少しくらいは待つよ。今日こそ話してくれるならね。
……とは言っても、この寒空の下でカイロもあったかい飲み物もなしで待つの、結構きついんだけど。風も少し吹いてきたし。さっさと腹くくってよ。
寒くて苛々して、そろそろ催促しようかと思ったとき。私が口を開くより先に、桃矢は覚悟を決めて口を開いた。
「…………俺、留学する」
「……………………え?」
留学? 桃矢が?
思考が一瞬止まった。言葉を理解するのに、手間がかかる。
「……どこへ?」
「ベルリン」
「……!」
「冬休み明けに、来日中の講師の先生が声をかけてくれたんだ。自分が開校に関わった音楽学校に来てみないかって。一応、卒業は向こうですることになる。……もしかしたら、もっと向こうにいるかもしれねえ」
知らず震えた声の私の問いかけに、桃矢はそう、淡々と答えた。
だろうね。だってあの特別講師さんが何十年も前に開校したっていうベルリンの音楽学校は、名音楽家を何人も輩出した名門校だ。桃矢の伯父さんや私が憧れる
――――――――でも。
「それで、行くかどうか悩んでたわけ?」
「……まあな。でも、悩んだけど決めるのはそんなに遅くなかった。一週間くらいで決めたし」
「はあ? 待ってよ、じゃあ、真彩に話すかどうかで、あんたは二週間も一人でぐだぐだ悩んでたの?」
「……」
私の低い声の詰問に桃矢は答えない。気まずそうに私から視線を逸らす。
……っこの馬鹿!
怒りのあまり、ただでさえ熱くなってる私の身体はさらに燃えた。
「なんでそんな大事なこと、さっさと真彩に話さないのよ! 付き合ってるんでしょ!? まずは真彩に話さないと駄目じゃない!」
「……ああ、わかってる」
「わかってる? どこがよ! 真彩は昨日、『信用もしてもらえない』って私に相談しに来たんだよ? ほとんど泣きそうになって、私は彼女なのにって不安なことぶちまけて……さっきだって……!」
「だから話せなかったんだよ!」
私の非難に耐えられなくなったとばかり、とうとう桃矢は声を荒げた。
「あの学校へ行けば、今よりもっと腕を磨ける。親父と母さんも許してくれたし、伯父さんも絶対ためになるって言ってる。今じゃなくてもいいなんて言ってられねえ。チャンスなんだ」
「……」
「でも、そしたらあいつのことだから、一人で待ってるとか言いかねねえ。最低でも、卒業までだ。遠距離で一年半以上もとか……可哀想だろ」
「っだからさっさと話せばよかったって言ってるんでしょ!」
人の話聞いてたのこの馬鹿犬男!
心の中で思いきり罵って、私は桃矢のコートの胸倉を掴んだ。
「留学したければしなよ。桃矢の人生なんだし、桃矢は才能あるんだから。でもそれは、真彩にちゃんと話してからでしょ。桃矢が話さないだけ、真彩は桃矢が向こうに行ってからのこと考えて、受け入れる時間がなくなっていくんだよ? それが、彼氏が彼女にすること?」
「……」
「あんたが真彩のこと好きかどうか知らないけど、それでも真彩の彼氏なんでしょうが。真彩に一番誠実でないといけない人でしょ。なんで私が真彩より先に、あんたの留学を聞かされなきゃいけないのよ」
たかが順番なのかもしれない。でも、彼女は幼馴染みよりも優先順位が上のはずでしょう? 私よりも、真彩が先に留学のことを知らされるべきじゃないの? 彼女なんだから。
「今すぐ真彩に留学のこと、話してあげて。それが、桃矢がしなきゃいけないことだよ」
言いたいことを全部言って、私はようやく桃矢のコートから手を放した。桃矢が行動に移すのを私は待つ。
でも、待っても桃矢は何も言わない。無言のまま、私を見下ろす。
……………………なんで、なんで『わかった』って言わないのよ。なんで私を見るの? 私はもう関係ないでしょ。私に背を向けて、真彩に連絡すればいいじゃない。
……いい、帰ろう。言わなきゃいけないことは全部言ったんだもの。あとは全部、桃矢が自分で決めてするべき。私が見届けなくてもいいよね。真彩に愛想尽かされても、それは全部桃矢のせいなんだから。
――――――――なのに。
踵を返した私の手首に何かが絡みついた。手袋と上着のあいだに覗く素肌に、人肌の感触と熱が伝わってくる。……こんなときにも素直に反応する自分の身体が嫌になるよ、ホント。
私が振り返ると、桃矢は怖いほど真剣な目で私で見下ろしてた。
「……お前は、何も言わないのかよ」
――――――え?
「今のは、真彩のための説教だろ。お前自身は、俺の留学を聞いて何もないのかよ」
そうして私を見つめる目に、感情がにじむ。まっすぐに、私を射抜くように。けれど強くは感じられない。むしろ、縋ったりお願いしてるみたいに見える。――――私におねだりするときの、あの大型犬みたいな目。
私は息を飲み、繋がれていないほうの手をぎゅっと握った。
そんなの、あるに決まってる。桃矢は私の幼馴染みで、まだ好きな人で、誰よりも信頼できる一番の男友達だもの。桃矢なしに今の私はいない。色んな意味で特別な人が外国へ行っちゃうっていうのに、何の感想もないわけがない。
でも、桃矢がプロのピアニストを目指してること、私は知ってるもの。真彩が桃矢とのことで悩んでることも。なのに『行かないで』とか『待ってる』とか、桃矢に言えるわけないじゃない。それは絶対言っちゃいけない言葉だってことくらい、わかる。
私は桃矢のただの幼馴染み。他の誰でもない、私と桃矢がそう決めたんだ。
だから、お願いを聞いてあげたくなるこの目に負けちゃいけない。『行かないで』も、『待ってる』も……『好き』も。絶対に言っちゃいけない。
「……さっきも言ったでしょ。桃矢はまず、自分のことと真彩のこと考えなよ。才能も彼女も、大切にしなきゃいけないでしょ。私がどう思うかなんて、どうだっていいじゃない」
「……!」
私が言い放った途端。桃矢の目が一層強い感情を帯びた。唇を噛み締め震わせ、強く激しく輝いて私を射抜く。
…………………………あ。
うるさく存在を主張してた心臓が、一際強く私の胸を揺らした。
まるでそのせいみたいに、手足がすっと冷たくなっていく。合わせてまた、あの感触――――生暖かなものと冷たく硬いものの感触が首筋に浮かぶ。
身体が震えた。
後ろから、声が聞こえる。
『
――――――――………………っ。
あ………………。
気づいたときにはもう遅かった。私は桃矢の手を振り払って、一歩後ずさってた。冷たい風は私の手首にすべりこんで、桃矢が私にくれてた熱を持っていこうとする。
嘘、なんでっ……!
自分がやったことが信じられない。けど桃矢も、私の行動に愕然とした顔だった。何故、どうして、嘘だろ。信じられないって全身で叫んでいる。桃矢の心の声が、聞こえてくる。
「と、桃矢、こ、これは…………」
桃矢を拒絶したわけじゃないの。大木君のこと、また思い出しちゃったんだよ。そしたら勝手に身体が動いて…………。
そう言いたいのに、どういうわけか言葉が唇から出てきてくれない。しゃべらなきゃって思うほどに、頭や喉から言葉が消えていく。
なんでっ……なんで言葉が出てこないのよ……! きっと桃矢、誤解した。桃矢のことを拒絶したわけじゃないって、ちゃんと言わなきゃ…………!
自分を叱りつけて、私は喉を震わせる。釈明はできなくても、せめて『違う』って、それだけは伝えなきゃ。そのくらい、私はできるでしょう?
でももう、遅かった。
「……お前がそんな、薄情な奴だと思わなかった」
「……!」
私が伸ばした手を振り払って、桃矢は低く小さな、震えた声でそう言った。――――――――怒りすらない、失望の目。
――――――――――――――――
頭の中が真っ白になった。風のせいじゃないもので頭の端や指先がじんと痺れ、そこから冷たいものが全身に広がっていく。まるで凍っていくみたいに。
わた、し……………………。
「もういい。お前に期待した俺が馬鹿だった」
「…………!」
言葉で私を撃ち抜いて、桃矢は踵を返した。珍しい模様だからって眺めてたけど興味を失くして地面に捨てた石ころみたいに、振り返りもしない。
桃矢の大きな背中が見えなくなるあいだ、空っぽの私の頭の中を、色々な記憶が流れていった。
同時に、足元ががらがらと崩れ落ち、底なしの真っ暗な中へ落ちていくような気がした。
――――――――――――――――っ。
それから私はどうしたのか。気づけば、教会の中に私はいた。
白い壁、何本もの柱、パイプオルガン、キリスト像、二枚の絵画、その足元の壁に飾られた大きな金の十字架。出入口からは見えない位置にある、箱のような小部屋。
いつ見てもヨーロッパかアメリカへ来たんじゃないかと勘違いしそうな、本格的な教会建築だ。子供の頃から何度も見てきた、馴染んだ場所。
何か用事があったのか、神父さんは席を外してた。真奈美さんや他の信者さんもいない。石造りの教会の中に、私の荒い息遣いと足音だけが響く。
視界の中央に鎮座する十字架に吸い寄せられるように、私の足は勝手にそっちを目指した。でも途中で膝の力が抜けて、そのまま床に膝をついてしまう。鞄が落ちる音がする。
身体が、燃えるように熱い。
「どうすればよかったのよ……………………」
全身の力ごと、言葉がこぼれた。
涙腺もとうとう力が失せた。何に遮られることもなく、とめどなく涙が私の頬を流れ落ちていく。
――――愛せる限りに愛せ、望む限りに愛せ。いずれ、墓の前で嘆き悲しむ日が来るのだから
――――心せよ、その心が赤く燃え、愛を育み携えようとしてる限り。誰かがお前の心を慕い、愛を注ぐ限り
――――お前に心を開く者がいるなら尽くせ。喜ばせることはあっても、悲しませてはならない
歌が聞こえる。CDが紡ぐドイツ語の歌声を真似した、幼くたどたどしい、小さい頃の私の声。
男も女もなく、ただの幼馴染みだった頃の――――――――
「もう嫌………………疲れた………………」
考えることにも、想うことにも。――――――――私自身にも。
もう、うんざりだ。
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