第37話 不本意な役目
でも、数日後の放課後。私はそうやって凶器から逃げたっていうのに、わざわざ自分の傷をえぐりに練習室へ向かった。
トランペットやその他の楽器の音が上の階からも降ってくる廊下の中、ピアノの旋律が聞こえてくる。壮大な物語の欠片みたいな、優雅さ不気味さを兼ね備えた旋律だ。
……これ…………。
たくさんの音の中でも浮かび上がるようにはっきりと聞き取れる旋律に引き寄せられ、私はガラスの細長い窓があるクリーム色の扉を開いた。途端、ピアノの音は一気に大きくなり、柔らかくも大きな波みたいに私に押し寄せてくる。
数小節で主旋律の変奏は終わり、きりがいいからか真彩は手を止めた。
「ごめん、
「ううん、私も練習してたから気にしないで」
真彩は微笑み、私のほうを見る。うん、やっぱり可愛い。
練習室の中へ入った私はピアノに近づくと、ピアノの譜面台に置かれた、いかにも切り抜きを貼り合わせてコピーしたって感じの楽譜を見た。
「リストの『死の舞踏』……なんか真彩には似合わないの選んだね。真彩なら綺麗なのとか甘い感じなのがいいんじゃないの? それにこれ、難しいって聞いたけど」
「うん。でも
「うわー惚気ですか」
ああやっぱり、そういうことか。私は胸に湧いた不穏な気持ちを顔に出さないよう、まず注意を払った。
去年の秋に桃矢が弾いてたもんね、この曲。
きっと、桃矢に教えてもらったりしたんだろうな……どこかの練習室で、二人きりで。
……………………。
……やめよ。これ以上考えたくない。考えても嫌な気持ちになるだけ。私も真彩も傷つけるだけだよ。
だから私は強く首を振ると、鞄を床に置いてピアノにもたれた。
「それで真彩、相談って何?」
単刀直入に切り出すと、真彩の表情が一気に硬くなった。
そう、私が練習でもないのにここへ来たのは、相談したいことがあるって真彩にお願いされたからだ。何についてかは知らない。ただ相談があるとだけ、今日の昼休憩の終わりに真彩は伝えに来た。
正直、冗談じゃないって思ったよ。だって真彩は、私から桃矢をとった。桃矢が断ったのに、縋って。そうやって彼氏にした桃矢に相談すればいいじゃない。桃矢はピアノ馬鹿だけど、人の話は真面目に聞くもの。彼女の話なら尚更のはずだよ。
でも、友達の真彩にそんなこと言えるはずない。それに、頼みに来た真彩は真剣そのもので、かなり悩んだ末なのが一目でわかったんだもの。断れるわけがなかった。
ホント、自分でも馬鹿だと思う。好きな男の彼女になった友達の相談に乗るなんて。
けど仕方ない。これが私なんだから。
「あの……
「相談……? ……もしかして、桃矢は最近、悩んでるっぽいの?」
「……うん」
私が聞き返すと、真彩は目線を落として小さく頷いた。
「冬休みが終わってしばらくしてからずっと、そんな感じだったの。最近は特に、私と一緒にいても考え込んでることが多くなってて……聞いても、『何でもねえ』って言うばっかりで……」
「……」
「だから、美伽ちゃんなら何か聞いてないかなと思って。美伽ちゃんは桃矢君の幼馴染みだし」
何かって…………。
真彩は大きな瞳に必死さをにじませ、私にそう尋ねてくる。全身から緊張した空気が伝わってくる。
けど、どう答えろっていうのよ。頭の中で答えじゃない言葉があふれていて、私はすぐに答えてあげることができなかった。
桃矢が悩んでいることは、なんとなくわかってた。だって、倉本君に伴奏を頼んだあとで窓越しに桃矢を見たとき、桃矢はぼんやりした顔をしてたもの。腕に抱きつく真彩が何か話しかけて、ようやく真彩を見下ろして。だから私は何してんの、真彩が話しかけてるでしょって、心の中で苛々してた。
でも、私は二人に関わりたくなかった。私はただの幼馴染みだもの。桃矢と付き合ってるのは真彩。付き合ってるなら、まずは二人で解決するべきでしょ?
――――――――
表情を作るのより、動揺を声に出さないよう気をつけて私は口を開いた。
「……私もそういう話は聞いてないよ。そもそも最近、桃矢とはたまに会うくらいで話してなかったし。あいつが何か悩んでること自体、初耳だよ」
「そう、なんだ…………私や美伽ちゃんに話してないなら、他の誰にもきっと話してないよね……」
真彩はそう、最後の望みが絶たれたみたいに顔をゆがめて背を丸める。俯いた拍子に流れた髪が、横顔を隠す。
私は、ぐっと両の拳を握った。
そんなの、わからないよ。桃矢は好きじゃない子と付き合う奴じゃないって私は思ってたのに、そうじゃなかった。今までだって言い寄ってくる可愛い子はいくらでもいて、でも私に相談もせず全部断って、ピアノを弾いてたのに。私のリクエストを聞いてくれてたのに。――――真彩だけは、私に相談してから付き合った。
「…………真彩、あいつが悩んでることの心当たりはないの? なんか、やたらとどこかへ行くようになったとか、変な物持ってたとか」
「……ううん、私も考えてみたんだけど、思い当たることは何も……」
「…………留学するかも、とかは?」
「……」
私の問いに対して、真彩は緩々と首を振った。
「だって、何度聞いても『何もない』だもん。『心配してありがとう』って言ってくれるけど、肝心の悩みは教えてくれない。すごく悩んでるのは、見ればわかるのに」
「……」
「でも付き合ってるんだから、一緒に悩んで解決するものでしょう? それが付き合ってるってことじゃないの? 一人で解決したいのかもしれないけど、私は一緒に悩んであげたいのに」
真彩の唇から、桃矢への不満がこぼれていく。でもそれは怒りからくるものじゃない。ううん、そうかもしれないけど、そう断定するには真彩の声はあまりにも弱々しく、震えてた。身体も、ただでさえ華奢だっていうのに今はもっと小さく、脆く見える。私が触るだけでも壊れてしまいそうだ。
「私は桃矢君の彼女なのに…………何も話してもらえないの…………」
「……」
「『いつか好きになってくれたらいい』って私は桃矢君に言ったけど、桃矢君はまだ私のこと、好きになるどころか信頼もできないのかな…………」
そして、真彩は背を丸めて俯いた。
横顔をカーテンみたいに隠す長い髪のあいだから、サッシに反射した陽の光が涙みたいに覗いて、真彩が泣いてるようにも見える。
真彩…………。
私は、頭をがつんと殴られたような気がした。
今まで私は、真彩の『好き』を他の女の子みたいなふわふわして軽いものだって思ってた。頼りになるかっこいい男の子だからって程度の、お姫様の可愛らしい憧れだって。私より桃矢のことを好きなはずないって、きっと心のどこかで思ってた。
そんなふうに決めつけてた、たった今までの自分の胸倉を掴んで怒鳴りつけたい。何己惚れてんのばっかじゃないって。
真彩は、本気で桃矢が好きなんだ。こんなふうに、悩みを話してもらえない、信用してもらえないってへこんで泣きたくなるくらいに。
こんなにまっすぐな気持ちをぶつけられて、だから桃矢は悩んで…………付き合うことにしたんだ。
―――――――――っ。
胸が痛い。喉も痛い。心臓になったみたいに耳の奥でどくどくいってる。うるさいうるさい、静かにしてよ。真彩に聞こえちゃうじゃない。
この動揺は、真彩に絶対に知られちゃ駄目だ。知られたくない。さっき以上に私は強く自分に言い聞かせた。
「真彩……そういうわけじゃないはずだよ。桃矢が何に悩んでるのかわかんないけど、何も言わないのは、真彩に背負わせたくないからなんだと思うよ。話したら真彩が苦しむことだから、苦しめたくないんだよ」
「うん……でも、私は話してほしいよ。私は彼女だもの」
私を見上げ、真彩は言った。ピアノの椅子に置いた手に力が籠る。
「美伽ちゃんなら、桃矢君と小さい頃からずっと一緒だったから、桃矢君が悩んでてもいつか話してもらえるって待ってられるかもしれない。桃矢君も、いつか話すつもりなのかもしれない。でも私は高校に入ってから会ったばかりで、付き合ってるって言ってもお互いを好きになってからじゃないもの。頼りにしても、信じてももらえてない」
「……」
「不安なの…………このまま好きになってもらえなくて、無理だったって、別れようって言われそうで…………」
そして真彩は肩を震わせ、自分の身体を抱きしめた。
でも、真彩は涙を一筋も流さなかった。唇を強く噛んでしきりに瞬きして、目に溜まった涙をこぼさないようにと気を張ってる。……まるで、ここで涙を流せばもう桃矢が離れてしまうみたいに。
私は、音が聞こえたような気がした。
でも、真彩の声や楽器の音じゃない。私だ。私自身の感情が――――心の奥底にある本音が、表面にいる私に訴えてきてる。『どうして』『私だって』『あんたが』。いくつもいくつも、声がする。
やめてよ。真彩も私自身も、もう何もしゃべらないで。静かにしてよ……!
「…………真彩。それなら尚更、桃矢に気持ちぶつけなきゃ駄目だよ」
平静を装ってはっきり私が言うと、でも、って真彩が瞳を揺らした。
「桃矢君は、何度言っても聞いてくれなかったんだよ?」
「うん。けど、桃矢は冬休み明けからずっと悩んでるみたいなんでしょ? それならそろそろ、悩むのにも飽きてきたかもしれないじゃない。桃矢ってピアノ馬鹿で、基本的にぐだぐだ考えるタイプじゃないし。一応人並みに悩んでみたけど、もう悩んでられっかーとか爆発してるかも」
「…………そうかな」
私がなんとか笑顔を作ってわざと茶化したふうに言うと、真彩はのろのろと俯き加減だった顔を上げた。何もかもが可愛らしい顔を彩る目は涙でいっぱいで、今にもこぼれそうだ。
「もう一回、桃矢に聞いてみなよ。いっそ、泣き落とし気味にするとかしてさ。それでも駄目なら、私に連絡して。桃矢に怒鳴りに行ってあげるから」
「…………うん。ありがとう、美伽ちゃん」
もう一度明るく、励ますために私が言葉を重ねると、やっと真彩は表情を緩めた。とうとうこぼれてしまった涙を、慌てて手で拭う。
私はそれを、何とも言えない気持ちで見てた。
ねえ、桃矢。見てよ。あんたは彼女にこんな顔させてるんだよ。彼氏失格じゃない。何やってるのよ。
真彩も、私を桃矢とのことに巻き込まないでよ。やたら人を守りたがるあいつからしたら、真彩みたいに可愛くて守ってあげたくなる子は、絶対好みのはずなんだから。もっと積極的にいって、桃矢を振り向かせてみせてよ。
私が馬鹿な夢を見ないように。桃矢を夢中にさせてよ、真彩。
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