第六章 それぞれの決意

第39話 ガラス越しの冬

 お母さん、恨むよホント。


 二月も下旬になった、ある日の休日。家のご近所を歩きながら、私は何度目か知れない棒読みの恨み言を心の中で呟いた。

 だって、寒いもの。雪は降ってないけど肌が痛いくらいに寒くて、むき出しの頬を隠すものが欲しくなる。それも当然で、雪がろくに降らない地域だっていうのに、この辺りの今日の予想最高気温はマイナスなのだ。今年は暖冬らしいけど、嘘なんじゃないだろうか。

 耳覆い付きの帽子を買っておいてよかった。こんな寒いときに耳なんて出してられないよ。


 ただでさえ住宅地で日中の人通りなんてろくにないのにこの極悪な寒さだから、もちろん、昼間だというのに道を歩く人は誰もいない。皆家に籠ってるか外へ出てるかで、テレビの音さえも聞こえてこなくて、まるで夜みたいに静かだ。私の足音や鞄が揺れる音しか聞こえない。

 雪が積もってたり、どこかの家の人が小さい子か犬を散歩させていれば、もう少しだけでも賑やかになるだろうに。あるいは、子供同士で遊んでいたりとか。その気配すらちっともない。これだと、公園にすら誰もいないだろう。


 そんなこの冬一番の寒さの中、私は一人で静寂に満ちた道を歩く。てくてく、てくてく。何もかもがお日様の光の下にさらされた、車の音さえ聞こえてこない住宅地の静けさを堪能する。

 考えることをやめて、無心に歩き続けてしばらく。やがて、目的地が見えてきた。


 三人で暮らすにはちょっと大きすぎるような気がしてならない、渋い茶色の塀に囲まれた家だ。塀からはまだ立派とは言えない太さの桜の木と、青鈍色の瓦が連なる和風の屋根が見える。

 塀越しの外見からして、どう見てもお金持ちの家としか思えない。実際、大手貿易会社の社長さんの家だから当然なんだけどね。平凡極まりない中古の我が家とは、いつ見ても全然違う。

 深緑色の鉄製の重い扉を開いて、勝手知ったる他人の家のインターホンを押した。一度押して、しばらく時間が経ってからぶつ、とインターフォンから音がする。


『はい、斎内さいうちですが』


 ……………………。

 インターフォンから返ってきたのは、低い声だった。短く、なんの感情も込められていない応答なのに、力強い響きがある。――――この十七年と半年近くで、星の数ほど聞いた声。

 私は、躊躇わなかった。


「……うちのお母さんがみかんをたくさんをもらったから、みかんとジュースとパイを持っていけって言われたの。うちだけじゃ食べきれないから」


 名乗らず説明する私の声は、自分で思ってたよりも平坦だった。力みはなく、感情もなく、ただ音を連ねただけ。歌なら確実に時田先生にため息をつかれて落第点だ。


 そう、こんな誰もが外へ出たくないと思うような気温の中、私が配達員の真似事をしてるのは、鞄の中にあるもの――――たくさんのみかんとそれを使った料理を、斎内家にお裾分けするためだ。早い話が、もらいものの体のいい処分法。桃矢とうやを含め斎内家の人たちは、果物が結構好きだからね。これなら迷惑にはならないでしょうから、ってお母さんは考えたみたい。――――当たり前のことだけど、お母さんは私と桃矢の絶交のことを知らないから。


 桃矢とどうしようもない別れから、無意識のうちに教会へ逃げたあと。私は丸三日、高熱で意識がなかったらしい。あとで真奈美まなみさんから聞いた話によると、教会の戸締りをしようと中へ入って、教会のど真ん中で倒れてる私を見つけたとか。しかも私がとんでもない高熱にうなされてるものだから慌てて病院と親に連絡したって、真奈美さんは呆れ混じりに話してくれた。


 それから何日か家で療養して、私は学校へまた通えるようになったんだけど…………私の学校生活はもう、前とは全然違ってた。

 絶交ってこういうことを言うんだなって思うくらい、桃矢の私に対する拒絶は徹底的だった。話しかけてこないのはもちろんのこと、廊下で見かければ視線を逸らし、あるいは回れ右してすれ違おうとすらしない。食堂で食べなくなったのも、私を避けるためだと思う。桃矢は私をひたすら否定し、自分の日常から消そうとしていた。


 それがわかってからかな。私の感覚に、透明で分厚い、水族館の水槽みたいなガラスが張り巡らされるようになったのは。どんなに友達と一緒にいても、笑っても、歌っても、今の私には何もかもが遠い。自然と感情が沸いたからじゃなく、条件反射で反応してるだけだ。


 梅雨の事件のあともしばらくは似たような感じだったけど、ここまでひどくはなかった。そもそも自分に心があって、あんなにも心からの感情に振り回されながら毎日を過ごしてたのが、今じゃ不思議。自分の感情が動く実感も、いずれそうなる予感も、今の私には欠片さえ感じられない。かろうじて、この寒い中桃矢の家まで行かされるのは面倒だって思うくらいだ。


 私の言葉に紛れて息を飲んだ声の主は、何も答えなかった。ぶつ、と音がしてインターフォンの通信は切れる。

 ……あいつ、こういうときくらいは答えろっての。玄関を開ける気があるのかないのか、わからないでしょうが。


 待つのは面倒だし、ここに置いていこうかな。まあ、私が嫌いでもうちのお母さんが作ったみかんのパイとジュースを要らないなんて言うとは思えないから、来るだろうけど。


 その予想は正しくて、ほどなくして、扉が開く音がした。見た目は和そのものでも、リモコンで動く扉だ。このあたりも、家主の金持ちぶりがうかがえる。

 扉が開く重々しい音を先導に斎内家の敷地へ入ると、どこの旅館だって言いたくなる見事な前庭が私を迎え入れてくれた。竹や細く背の低い木々、竹垣や石、苔で飾られ、右手の壁には桜の花びらが透けて見える白い障子紙の丸窓があって、室内に明かりを採り入れてる。訪問者を玄関へと導くのは、丸みのある石畳だ。前の私は、素敵だって思ってたんだよね。


 私が冬の風情の前庭を見回してると、がらり、と玄関の扉が開かれる音がした。同時に、明らかに人間のものではない、走る足音が近づいてくる。

 この足音は――――


 うわ、わっ……。

 頭をぶつけんばかりの勢いで、ゴールデンレトリバーが私の腰に跳びついてきた。私はどうにかそれを抱きとめ、尻もちをつきそうになるのを堪える。


「久しぶり、美音みね。今日も元気だね」


 私は頬を緩ませ、無垢な目で見上げてくる黒い目の犬に挨拶をした。

 美音。桃矢のお母さんが二年前に保健所から引き取った、この家のペットだ。引き取られたときは人見知りする可哀想な雌の子犬だったけど、大きくなった今はこのとおり、人間に体当たりしてくるくらい人懐こいお転婆さんになった。私もこの家へ来たときや散歩中に会ったときによく構っていて、色んな曲を歌ってあげたりもしたからか、懐いてくれてる。


 私が頭を撫でてあげると、美音は嬉しそうにぱたぱた尻尾を振ってくれる。よしよし。美音はいつでも可愛いね。

 そのとき、軽い足音がした。

 ……? 軽い……?


美伽みかちゃん……?」


 ………………

 美音に構ってやりながら疑問に思った次の瞬間、驚いた声が私の名を呼んだ。

 顔を上げると、白いニットのダッフルコートを羽織った真彩まやが玄関のほうからやってきてた。

 私は目を瞬かせた。


「真彩? どうして……」

「今やってる曲のことで、ちょっと教わりに来たの。それで、桃矢君に荷物を受け取ってくれって頼まれて……」

「……」


 喜ぶわけでもなく、どうしてと混乱した顔のまま真彩は答えてくれる。桃矢から何も聞いてなかったのだろう。でなきゃ、こんな答え方をしない。

 なるほど。玄関にいたくせに、客に荷物の受け取りを頼んだんだ、あの男は。来たのは私だって言わないで、真彩が疑問を持つ前に逃げて。

 そんなに、私と会いたくないんだ。


「……これ、桃矢に渡しておいて」


 言って、私はみかんが入った袋やパイを入れた箱、そしてみかんジュースを詰めた瓶を真彩に押しつけた。戸惑ったまま、真彩はそれを受け取ってくれる。

 これで私の用は済んだ。あとは帰るだけだ。


「じゃあ真彩、私帰るから」

「え、あ、美伽ちゃん!」


 私は踵を返すと、真彩が呼び止めてくる。でも私はそれを無視して、斎内家を出た。


 ――――――――けど。

 来た道を引き返す私の後ろから、さっき聞いたばかりの足音が聞こえてきた。

 あれ? これ、犬の足音?


 歩きながら振り返ると予想したとおり、美音が私のところへ走ってきていた。自慢の足であっという間に私に追いついてくると、そのまま私の隣にぴったりついてくる。

 お転婆とはいえ、普段は飼い主に従順で、勝手に家を出て困らせるようなことはしない子だ。それでも私についてきてくれたなんて、珍しい。みかんって犬が好きな匂いなのかな。そんなわけないと思うけど。


「美音、どうしたの? 今日は散歩してもらってないの?」


 私は歩きながら美音を見下ろした。


「でも駄目だよ、貴女にリードをつけてないから。おまわりさんに見つかったら、怒られちゃうかもしれないよ?」

「……」


 まあその場合怒られるのは、美音じゃなくて私なのだけど。もしかしたら大丈夫かもしれないけど、自治体によってはリードなしで散歩してたら条例違反だって聞いたことある。

 ……あ、でも私は飼い主じゃないし、この場合は斎内家に請求がいくんだよね。首輪にIDタグがついてあるから、それを見たら一発で飼い主が誰かわかるし。


 私が立ち止まると、美音もその場に腰を下ろした。私の指示を待ってるのか、じいっと私を見上げてくる。

 どうしよう、これ。

 私は美音を見下ろしたまま、困った。


 どうやら美音は私についてくるつもりみたいだけど、私は飼い主じゃないし、桃矢が連れ戻しにくるかもしれない。それで険悪な空気をぶつけられるのは、感情が麻痺していてもあんまり気分がいいものじゃない。できれば遠慮したい。

 けど、だからといって美音をここに置き去りにするのもなあ…………。

 美音を置き去りにするか、斎内家へ連れていくべきか。私は真面目に悩んだ。


 …………?

 考え込む私の手に、温かいものが手袋越しに触れた。続けて、ざらつくものがコートからわずかに覗く手首の上を這う。


「……」


 さらに美音は私の手に頬を寄せ、ぱたぱた尻尾を振りながら私の足に寄り添い、私をじっと見上げてくる。黒のレギンス越しに、じわりと生き物の熱が伝わってくる。


 …………美音は、私がおかしくなってることをわかってるのかもしれない。頬が異様に痩せてるってわけじゃないし、顔が暗いって友里たちに言われるようになってからは化粧でごまかすようにしてるのだけど、犬は弱った個体を見抜く能力がすごいっていうもの。見抜いてても不思議じゃない。

 私はその場にしゃがみ込み、美音に目の高さを合わせた。


「美音は賢くて優しいねえ……貴女のご主人様は、ぜんっぜん気づいてくれないっていうのにね……」


 美音の首を抱きしめると、そんな言葉が唇からこぼれてしまった芋づる式に、公園で桃矢から拒絶された夜の入り口のことを思い出す。


 けど、仕方ないじゃない。相手が何を考えてるのかなんて、誰にもわからないもの。そう言ったの、私でしょ? 去年の秋に、学校の玄関で倉本君にさ。他人に偉そうに言っといて自分は言わなくてもわかってほしいなんて、何甘えてるのって話だよ。

 だから大木君は私に、真彩は桃矢に告白したのだから。


 ……………………。

 私は少しだけ美音の首に回した腕の力を強くして、それから緩めた。


「……ありがとう美音。ついてきてくれて。でも、もう帰らないと駄目だよ。貴女のご主人様は桃矢だし、桃矢に黙って家を出てきちゃったんでしょう?」


 私が諭すと、美音はくうん、と鼻を鳴らした。その顔がどこか悲しそうに見えるのは、気のせいかな。


 ……?

 美音に話しかけてたそのとき、美音が歩いてきた道へと首を巡らせた。つられて私もそっちを見る。

 私たちが向けた視線の先には、人影が近づいてきてた。歩みは遅くて、なかなかこっちへ来ない。そのせいもあって、割と視力がいい私の目でもまだ人影の顔はわからないままだ。

 けれど、大柄であることはわかる。美音が強く関心を持つ人であることも。


「……ほら、美音。迎えが来たんだから帰りなよ。私はちゃんと家へ帰れるから」


 私は立ち上がると、美音にそう再び促した。行きなよって示すつもりで、美音の頭を撫でてあげる。

 顔がわからなくても、人影が桃矢なのは確信できた。どうしてだろう。


 それでも、私の心は動かない。さっきインターフォン越しに声を聞いたときだって、少し胸が痛いような気がしただけ。私の心はまだ、氷の塊のままだ。

 あの日まで、小さなことに浮かれるくらい桃矢のことが好きだったのに――――――――


 美音はまだ動かない。私と人影を交互に見つめ、それから私を見上げてくる。どうしよう、って私に指示してもらいたいみたいに。

 ……本当にいい子だね、美音。でも悪い子だよ。貴女は桃矢の家の子なんだもの。ご主人様が迎えに来てるんだから、帰らなきゃ駄目。


「じゃあね、美音。――――大丈夫。多分また会えるよ」


 せめて安心させたくて、私は美音に微笑みかける。そして踵を返し、今度こそまっすぐ家へと向かった。


 そう、きっと会えるはずだ。

 でもそれは、しばらくしてからに決まってる。桃矢が留学してから。私と桃矢の縁が完全に消えてから。

 その頃なら、きっと――――――――…………。

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