第28話 歌が聞こえる・一
紅葉が少しずつ色づいてるのが、教室や廊下から窓の外を見るだけでも明らかな十一月。今日も今日とて、私は放課後の練習室で練習に励んでいた。
だって、コンクールの全国大会までもう一ヶ月しかないもの。息抜きってことで遊びに行きもしたし。本気で練習していかないと。
というわけで、音楽プレイヤーをピアノの上に置いて、
あ、今のいい感じ。丁寧に、でも平坦にならないように――――
……ん?
視界の隅、練習室の扉の窓に人が見えた。がたいのいい身体の、見慣れすぎる顔。
思わず、歌いながらそちらに顔を向ける。……ちょっと、なんでそこで気まずそうな顔するのよ。しかも、入ってくるし。
「ちょっと桃矢、練習中なんだけど」
「邪魔はしねえよ。……
出ていけってつもりで言ったのに桃矢はまるで無視で、扉の近くの壁に背もたれて腰を下ろし、室内を見回す。ねえちょっと、居座る気満々?
睨んでみたけど、桃矢は部屋から出る気が全然ないみたい。ピアノ弾くつもりはないのに居座るって、どういうつもりよ。
「いないよ。今日も叔母さんのお見舞いだって。桃矢はなんでいるのよ。学校で練習するなら、他の部屋でしてよ」
「……お前に用事があったんだよ」
…………?
私は目を瞬かせ、眉をひそめた。
「どうしたのよ、桃矢。何かやらかしたの?」
「俺はなんもしてねえよ。なんで俺がやらかしたことになってるんだ」
「だって桃矢、私に何か言いたいんでしょ? 顔暗いし。だから、ここへ来たんじゃないの?」
「……」
ちょっとちょっと、顔逸らして黙んないでよ桃矢。図星なのはわかったけど、だったら私に話してよ。その微妙な空気、なんかいらっとする。
そういうことを言って、私は桃矢が話したがってることを話すよう促してみる。けど、桃矢はなんでもねえよの一点張り。話す気はないらしい。
こっちが心配してるっていうのに、無視ですか。しかも暗い空気は飛ばすなんて、鬱陶しすぎる。私はだんだん苛々してきた。
あっそう。じゃあ聞いてやるもんか。一人で勝手に悩んでいればいいよもう。知らないんだから。
「桃矢、暇ならちょっと歌聞いてくれない? ずっと一人でやってたから、誰かに聞いてほしかったの」
「いいけど、フランス語とかイタリア語とかだったら俺わかんねえぞ」
「ドイツ語だから、桃矢もわかるよ」
「……わかったよ」
仕方ないな、といった感じで桃矢は頷いた。けど、これはこれでなんか腹立つな……理不尽だとは思うけど。……やっぱり、真面目にドイツ語習ったほうがいいかな。桃矢に頼んで。
桃矢は私のほうへ来ると、私の鞄に視線を向けた。
「ピアノの譜面はないのか?」
「…………あ」
忘れてた!
桃矢に尋ねられ、私はようやく、桃矢がこの曲を知らないかもしれないことに気づいた。
そうだよ、何も考えずに頼んじゃったけど、桃矢はどんな曲も知ってるわけじゃないし、私はピアノの譜面持ってないんだよ。つまり、音楽プレイヤーで聞くしかないわけで。何重大なことを忘れてるの私!
私の反応で、桃矢が気づかないはずもない。桃矢、そんな呆れた顔しないでよ。自分でも馬鹿だって反省してるから。
桃矢は私の楽譜を載せた譜面台を自分の前に持っていくと、音楽プレイヤーを手にとって私に見せた。
「どの曲を歌うんだ? 表示されてるやつでいいのか?」
「うん」
「じゃあイヤホン、片方借りるぞ」
言って、桃矢は音楽プレイヤーのイヤホンの片方を私に差し出す。私は腹をくくってそれを受けとった。
お互いベストとジャケットを着てるとはいえ、あるいはそのせいか、この距離じゃ体温を遮る役目なんかしてくれやしない。熱くも冷たくもない、中途半端な温度が伝わってくる。
さっきまでの苛々は、こんなぬるい温度でもあっという間に解けた。こそばゆい緊張が、私の身体と心臓を這う。
ポータブルスピーカーを持ってくるの忘れてよかったのかどうか、これじゃわからない。これって幸運なの? 倉本君なら、間違いなく幸せだろう? って笑いながら言うだろうけど。
せめて、顔を見ないで済むようにしよう……。
「んじゃ、曲かけるぞ」
桃矢に楽譜を渡してイヤホンを片方にだけつけて、体の向きを変えて。それから私が歌う体勢を整えると、桃矢はそう宣言した。
やがて片方の耳だけに、すっかり耳に馴染んだ情熱的な前奏が流れてきた。数拍置いて、私は高音で歌い上げていく。
私の調子を窺わない機械のピアノの伴奏に合わせて、ともかく高音と低音が不安定にならないよう、柔らかさを失わないようにと意識して歌いあげていく。
歌い終え、私はすぐイヤホンを外した。その頃にはもう桃矢はすっかり音楽家モードで、気づいた点を楽譜を使って指摘してくれる。震えた高音、柔らかな響き、その他色々。ピアノで実際に旋律を弾いてやり直してもみる。
「……まあ、さっきよりはいいんじゃね?」
一通りの指摘のあと、もう一度私の歌を聞いた桃矢はそう息をついた。
うん、自分でもましになったのがわかる。昔からそうだけど、桃矢は耳と勘もいいんだよね。私が声楽をやってるからか、たまに声楽について聞いてくることがあったし。
「ありがとう、助かったよ桃矢」
「どういたしまして。けど明日、ちゃんと先生に見てもらえよ?」
「わかってるよ。――私はそろそろ帰るけど、桃矢はどうする? 残るなら鍵渡すけど」
「そうだな……」
そこで桃矢は一度言葉を切ると、視線をさまよわせた。
……ちょっと、なんで私のほう見るのよ。しかもそんな、迷った顔で。耳を伏せた犬にどんどん見えてくるじゃない。
でも私が口を開く前に、桃矢は緩く首を振った。
「……やっぱ残っとく。悪いけどお前は先に帰っててくれ」
「……そう」
うわー、これはかなり悩みが深そう。桃矢がこんなに悩んでいるの、初めて見るかも。
桃矢は一体何をそんなに悩んでいるんだろ。勉強絡みで悩むとは思えないし、留学なら悩んでもこんな言いあぐねるなんてことはしないはずだよ。誰かにいじめられたなんて、それこそ犬の逆立ち並みにありえないことだし。
私に言いたくないことみたいだし、こういうときは無理に聞きだそうとしても無駄だよね。今までもそうだし。高校生だし、桃矢も自分で解決したいよね。
そう一人納得して、私は鞄を手にとった。
「じゃあ、鍵ここに置いとくから、ちゃんと鍵閉めてってよ」
「ああ。じゃあな」
そうして、椅子に座ったまま鍵盤を見下ろす桃矢はやっと私のほうに顔を向けた。
さっきよりましな……ううん、ましに見せようとして失敗した、いつもとは違う顔。
……………………。
ああもう、私の馬鹿。
耐えきれず、私は扉に向けた顔を桃矢のほうへ戻そうとした。仕方ないじゃない。あんな顔されて、気にならないわけがないよ。
でも、それより早く、桃矢は私の名前を呼んだ。
……だから、そんな声するならさっさと話せっての。
私が振り向くと、桃矢は悩んでいるのを隠しもしないで私を見ていた。垂れた犬の耳と尻尾が似合いそうな顔。けど、いつものねだるときのじゃない。困り果てて私に泣きついてきたんだって、感覚でわかる。
まったくもう、しょうがないなあ。
「桃矢、やっぱりなんか悩んでるんでしょ? やらかしたんじゃなくても、何かやばいもんでも見たんじゃないの?」
「……見たっつうか…………」
そこで桃矢は一度、私から顔を逸らした。それでも視線は忙しなく動いていて、頭の中がぐるぐるしてるのが一目でわかる。
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