第四章 前へ進もう
第27話 聞きたい
ロッカーや下駄箱に何か貼られたり入れられることもなく、くだらない噂に後ろ指差されることもなく、つけ回されることもない。そんな当たり前の高校生の日々が、やっと私のところに戻ってきた。
私と
というわけで、私は桃矢と映画を見に行くことにした。何余裕かましてるのとか言わないでください。ろくでもない話は終わったし、全国大会まで少しは時間があるし、息抜きくらいいいでしょ?
そして。泣くってこんなに清々しい気持ちになれるものなんだ。思わずそう言っちゃって、呆れた桃矢の頭をはたいて私は映画館を出てきた。
人ごみの中、私の隣を歩きながら桃矢は不満そうだった。
「なんで俺が、頭を叩かれなきゃなんねえんだよ」
「桃矢が私をからかうからだよ。あんなに感動する話だったんだから、泣いて当然でしょ?」
「それは違うだろ」
黙らっしゃい。そんな感じで私が睨みつけると、桃矢は肩をすくめた。
だって、本当に素敵な話だったんだもの。近代日本によく似た架空の世界を舞台にした、ピアニストとお嬢様の切ない身分違いの恋物語――――ってまあ王道中の王道だったんだけど、どきどきする二人のシーンがあって、悪人たちの陰謀があって、脇役たちの複雑な思いが絡みあっていて……二人がどうなるのか、最後まで読めなくてはらはらわくわくの連続だった。
今度、
「お前、短調とかバッハとかグレゴリオ聖歌あたりが好きな割には、ああいう王道の恋愛ものも好きだよな。そこは女らしいっつうか」
「『そこは』って何よ。私は女の子だってば」
どこに目ついてんのよこの馬鹿犬男! そりゃ真彩みたいな可愛い女の子らしくなんて、私には無理だけどさ。それに、ラヴェルもショパンの甘い曲調のも好きだっての。
はあ、なんなのかな、このいつもと変わらないノリは。これでも真彩を見習って、ワンピースにカーディガンを合わせて、鞄と靴もよく選んで少しは女の子らしくしたのに。桃矢はこのとおり、普段のまま。家へ迎えに来たときは『馬子にも衣装』とか言うし。桃矢は女心が絶対わかってない。……まあそりゃ私だって、何を考えたのかワイルド路線できめてきた、桃矢の今日の着こなしを褒めたわけじゃないけどさ。
それより、と桃矢は目の前の広い通路を指差した。
「
ああ、そういや向こうに、学校の最寄り駅近くにある洋食屋さんのチェーン店があったんだっけ。でもこのあいだ、私がハンバーグをおごったっていうのに。次はステーキでも食べる気かな。
先行上映会の会場になったのは大きな商業施設の中にある映画館で、その前の広い通路の両側には、飲食店がずらりと並んでいる。うどん屋さんやお好み焼き屋さん、パスタ専門店にファストフード店。フードコートには、テイクアウトした人やスーパーのほうで何か買ってきた人たちがたくさんいた。
とりあえず行ってみようという話になって、『ごち屋』に着くと予想どおりと言うべきか、順番待ちの人たちで行列ができてた。店の中で待つスペースがないのか、店の前で十人くらいが並んでいる。その全員が私たちと同じか少し上くらいの、女子同士かカップルだ。
「並んでるけど、桃矢、どうする? 待つ? 待つなら、時間潰しにあっちの雑貨屋さんに行きたいんだけど」
「それは駄目だろ。お前、治りかけで傷口開いたんだから無駄に歩き回るのはアウトだろうが」
「う……」
そこを突かれると痛い。実のところ、学校の行き帰りでもちょっと痛むことがあるんだよね。今日の帰りも痛むだろうなあと思って念のため新しい大判の絆創膏を貼って、血がにじんでもごまかしが効きそうな、赤い長靴下にしてきたんだけど……。
ここは諦めたほうがいいかな……桃矢に食い下がるのも嫌だし…………。
…………ん?
諦めのため息をつこうと横を向いたところで、私の視界に人が映る。
「美伽? 何だよいきなり」
思わず私が桃矢の陰に隠れると、大型犬もどきはぎょっとした顔で私を見下ろした。まあ当然だよね。でも仕方ないんだよ。
「いやほら、あれ」
と、私はさっき目についたものを指差した。
多くの人たちが行き交う雑踏の合間に見える、私たちからそう離れていない、高い天井を支える太い柱の下。柱を取り囲むベンチに、両脇に荷物をいっぱい置いて一人座る男の子がいる。暇潰しの読書もスマホいじりもゲームもしないで、道行く人たちにぼんやりと視線を向けて人間観察の真っ最中だ。
――――その、芸能人並みの端正な面差し。間違いなく、
「倉本? なんであいつに見つかるからって隠れるんだよ」
「いや、倉本君にはいつもからかわれてるからね……」
やる、絶対に私をからかってくる。文化祭のときに倉本君、私をそそのかしたんだもの。私をからかい甲斐のある玩具と思ってるに違いないあの人が、私と桃矢のデート現場を見て何もしないわけがない。
…………?
説明してあげたのに桃矢が何故か不満そうな顔をするものだから、私は眉をひそめた。これのどこに説明不足なところがあるっていうのよ。倉本君がどんな人なのか、桃矢だってわかってるはずでしょ。
桃矢の不満顔が、やがて真面目な色に染まる。私は理由がまったくわからず、困惑した。
唐突に、桃矢が口を開いた。
「美伽……お前、倉本と付き合ってんのか?」
「…………はあ?」
私は一瞬、何を言われたのかわからなかった。
いや正確には、意味不明すぎて思考が停止したというか。
だって…………私と倉本君が? なんでそうなるの?
「付き合ってるわけないじゃん。どうしたのよ桃矢、いきなり変なこと言いだして」
「普通、友達を見つけたからって、隠れようとするわけないだろ。さっき隠れたのは、倉本と付き合ってるからじゃねえのか?」
「そんなわけないって。倉本君はただのいい友達だよ。さっきも言ったでしょ、最近からかわれることが多いから、からかわれないよう隠れただけだよ」
私はへらっと笑って否定する。そんなのありえないんだもの。よりによって桃矢に聞かれるんだし。笑うしかないでしょ、これ。
「じゃあ、いじめられたりは」
「ないって。大体、吉野さんのことで倉本君はわたしのこと助けてくれてるし。それは桃矢も知ってるでしょ?」
「…………だったらいいけど」
私がきっぱり否定してもまだ疑ったふうの桃矢だったけど、ひとまずはそれで話を終わらせることにしたみたい。ここで話すことじゃない。
それにしても……。私は桃矢を横目でちらりと見た。
私が倉本君から隠れたってだけで、なんで私が倉本君と付き合ってるって考えつくのよ。私と倉本君が、いつそんな甘ったるい空気だったっていうの。いじめられてないかどうかっていうのも、意味不明な発想だし。
私と倉本君の関係をそんなに気にするなんて。
そんなの、まるで――――――――…………。
心の中に言葉がふっと浮かんで、私はそのありえなさに、もう少しで言葉にしてしまいそうになった。
――――でも。
そう反論する声が、私のどころから聞こえてくる。知ってるはずでしょ、知らないふりするなって、心臓が強く跳ねて私を叱る。
馬鹿みたい。桃矢の目が一瞬、私に告白してきたときの大木君みたいに見えたなんて。……桃矢が倉本君に嫉妬したなんて、妄想もいいとこでしょ。するわけがない。私と桃矢は、ただの幼馴染みでしかないんだから。
そうしているうちに、明るい栗色の緩く波打つ髪と真っ赤な唇が目を引く、それこそ大輪の花を背負ってるみたいな美人さんが倉本君のところへやってきた。両手にいくつも紙袋を持ってるのを見れば、衣料品売り場のほうで狩り、もとい買い物をしてきたのが丸わかりだ。
倉本君に戦果の紙袋を自慢そうに見せつけた美人さんは、その紙袋を倉本君に押しつけ、さっさと飲食店が軒を連ねる通りの奥へと向かっていく。そのあとを追う倉本君は、どこからどう見ても、年上彼女に振り回される年下彼氏そのものだ。うんあれ、他の解釈は不可能でしょう、ぱっと見には。
――――でも。
「あの人、倉本君のお姉さんだよね……」
「だな。……なんでそんなに残念そうなんだよ」
「だって、倉本君にはいつもからかわれてるんだもん。何か恥ずかしい物買ってたとか、からかい返すネタがあるなら掴まないと」
いつも私がからかわれているだけなのはどうにも不公平だし、癪だもの。たまには私がからかいたい。そう思うのは自然なはず。
でも桃矢は全然共感してくれなくて、呆れ顔だった。
「仮にそういうネタがあったところで、返り討ちにされるのがオチだろ。あいつの腹黒さは半端ねえし」
「……桃矢、それ、なんか実感籠ってない? 返り討ちに遭ったことあるの?」
私が質問すると、桃矢はへの字に曲げて目を逸らす。あ、あるんだ。だよねえ、一応紳士の倉本君だから真彩や明希はからかわないだろうけど、桃矢にはそんな遠慮する必要ないもの。
結局、雑貨店で暇を潰したりしないで私たちは『ごち屋』の行列に並んで、そろそろお腹が鳴りそうになったところでやっとお店の中に入ることができた。お腹がぐうぐう鳴ってるから、迷わずチキンカツとポテトを頼んだよ。桃矢はビーフステーキとエビフライとポテサラだ。大食らいめ。
学校の近くの本店と変わらない美味しい料理で満腹になったあと。私たちはそのまま家へ帰ることにした。こそっと雑貨店を覗くつもりだったんだけどね。でもやっぱり桃矢が許してくれなかったんだよね。練習に響いちゃいけないのは事実だし。
最寄り駅へ向かう電車に乗って少しすると、近くの席が空いて私と桃矢はそこに座った。腕が触れあわない距離で、お互い別の方向を見ながら電車に揺られる。
向かい側の窓を眺める視界の端に、桃矢の肩や胸の辺りが映った。
子供の頃はひょろひょろで、私と大して変わらなかった身体つきはいつの頃からか、今じゃそんな頃なんてなかったみたいにがっしりするようになった。長い腕、大きな手。力があるからピアノを弾いたとき、音の細かな強弱もつけやすい。ピアノを弾くために都合のいい身体をしてると、いつも思う。
でも私は『ごち屋』を出てからずっと、今までとまったく同じだとは感じられなかった。
こんなにも大きな桃矢が、小さい子供みたいに見えたから。そう、お気に入りの飛行機の模型を私にとられて、おばさんにたしなめられて口をへの字に曲げてたときみたいに。
……ねえ桃矢。あの目はなんだったの? この手も、その背中も。一番近くにいる幼馴染みが自分のそばを離れそうな気がしたから、思わず引き止めようとしてるの?
それとも――――――――…………。
頭の中に、また妄想が浮かぶ。そうであってほしいと願ってやまない、私の願望。
私はぎゅっと目を瞑ると、桃矢が座席の上に置いた手の上に自分の手を重ねた。
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