第26話 悪意の終焉・二

美伽みか、大丈夫か!?」


 とう――――?

 見慣れた顔が私を覗き込んできた。このあいだのお姫様抱っこ並みに近い距離だ。


 助かった――――――――


 生きてるんだって理解した途端、心臓が痛いくらいに私の胸を打ち出した。というか、最初から脈打ってたのかな。ともかく痛い。息をするのが苦しいくらいだ。


「……桃矢、大丈夫だよ。なんともない」


 悪い夢を見た直後みたいに深い息をついて、私は桃矢の腕に触って答えた。実際、夢の中にいるみたいに頭の中がふわふわしてる。

 私が答えて、桃矢はやっと表情を緩めた。でもそれはほんの数秒程度。すぐ眦を上げて階段の上へと顔を向ける。表情とまとう空気が一変する。

 そしてさらに、場の空気までもが変わった。


 ゆっくりと身を起こして階段の上を見ると、吉野よしのさんは私と桃矢を呆然とした顔で見てた。口元に手を当て、どうしたらいいのかわからないみたい。混乱しきったいるのが、一目でわかる。


「……女には手ぇ上げねえよう、これでもきつく親に躾けられたほうなんだけどよ。……お前は例外にしてほしいって思うよ、本気で」


 ……まずい。

 燃え盛る炎をどうにか閉じ込めた、薄いガラスの瓶みたいな声だった。何もしなければなんともないけど、ちょっとのことでガラスは割れて、炎が飛び出してきそうな。

 ――――あのコンサートの夜みたいになりそうな、そんな予感がする声。


「……っ」


 桃矢に睨まれ恐怖と混乱に染まっていた吉野さんの顔色が、さらにひどいものになった。でも吉野さんはまだ倒れない。何か呟き、よろよろと後ずさった。階段に遮られて、私の視界から姿が消える。ばたばたと廊下を駆ける足音が遠ざかっていく。


「あの女……!」

「桃矢、駄目!」


 桃矢が立ち上がって吉野さんを追いかけそうになったのを、私はとっさに桃矢の手を掴んで引き止めた。それはやばい、絶対に止めないと!


「桃矢、殴ったら駄目だよ。いくらあっちが全面的に悪くても、桃矢も悪者になっちゃうよ。桃矢も来日する講師のレッスン、受けたいんでしょう?」

「……っ」

「吉野さんたちが私に嫌がらせしてきた証拠はあるし、あとで先生に言えばいいじゃん。追いかけなくても大丈夫だよ。だから落ち着いて?」

「……」


 桃矢の手を握る力を強くして、私は言い聞かせた。

 音楽科校舎の掲示板に掲示されてたけど、近々、外国の有名なピアニストが特別講師として来るそうで、希望者はレッスンが受けられることになってる。でもそのレッスンはピアノ専攻の最上位クラスだけが対象で、先生たちの推薦がなければ受講できないみたい。当然、桃矢はレッスンを受けるつもりだし、先生たちも文句なしというか連名で書きそうな勢いで推薦してくれたって、桃矢は何日か前に食堂で言ってた。

 それでも、女子を殴ったりしたら絶対にまずい。普段の素行も受講の選考基準だっていうもの。内申にだって書かれるだろうし、噂になるし……やっちゃいけないよ、そんなの。


「……」


 私の説得が効いたのか、吉野さんの足音が遠くなっていくのを聞きながら、桃矢は横を向いて苛立たしそうに大きな息をついた。それをきっかけに、北極へ強制連行な空気が緩む。

 よかった……………………。


 そう安心したのが、よかったのか悪かったのか。色んな感覚が私に襲いかかってきた。まず、足が痛い……ってうわ、血がにじんでるし! あれだけ走ったんだから当然だけどさ。むしろ私、なんでこんなずきずき痛いのに気づいてなかったんだろう。


 自分の脛を見下ろし、じわりとにじむ赤色にぎょっとして、私は桃矢に気づかれないようさりげなく傷口と垂れる血を隠した。これは隠さないとやばい。桃矢に見つかったら、またお姫様だっこされかねない……!

 ――――なのに。


「……美伽、傷口開いたのか」

「…………ウウンゼンゼン」

「…………」


 多分引きつってるだろう顔で私はごまかしてみる。だけど、すでに私の脛に視線を向けてる桃矢が騙されてくれるわけもない。私を凶悪な目で睨みつけた。


「お前、何やってんだよ。傷口開いてるじゃねえか。まだ全国大会残ってるんだろうが」

「わ、わかってるよ。でもちょっと傷口が開いただけで」


 両手を胸の前まで上げて私は言い訳を試みてみたけど、桃矢の怒りの気配に気圧され、それ以上言葉を続けられなかった。いやホント、怖いんだって。やめようその目!

 でも、正論だ。


「……心配かけて、ごめん」

「……わかればいい」


 私が素直に謝ると、桃矢は小さく息をついた。桃矢の再燃した怒りはたちまち失せ、ジェットコースター並みに乱降下する場の空気がやっと正常に戻りはじめる。


 うう、なんか肌寒いし上着が重い……頭に血が上ってて忘れてたけど、制服をずぶ濡れにされてるんだよね……やっぱり、一発くらいほっぺたはたいたほうがよかった……。

 靴下も最悪だし……冬服でよかったよ。上着はまだ着てないけど、白ベストは着てあるし。夏服だったら私、恥ずかしくてまた桃矢から逃げてたかも……。


「……ったく、なんでこんなところで修羅場してるんだよ、お前は」

「あの人のせいだよ、このとおり。先生に上の会議室の掃除させられてて、その途中で水かけられたから追いかけたんだよ」

「追いかけるなよ」


 ってこらそこ、呆れの長息つかない! 腹が立ったんだから仕方ないじゃない。

 私は桃矢に抗議の意味を込めてねめつける。でも桃矢はそんなのを軽く無視して立ち上がると、自分のジャケットを脱いで私に差し出した。


「とりあえず、自分のジャケット脱いでこれ羽織ってろよ」

「あ、ありがと……」


 私は頬の血の気が集まったのを自覚して、お礼を言うのもそこそこに顔を逸らした。どうか赤くなってるに違いない耳を髪が隠してくれてるように、と強く祈る。この仕草でばれてるかもしれないけどね。


 濡れていない袖口で顔や前髪を軽く拭いてから私は立ち上がると、自分のジャケットを脱ぎ、桃矢に背を向けて桃矢のジャケットを羽織った。私より頭一つ半分は背の高い桃矢のジャケットは大きく重く、ずしりと私の肩にのしかかる。

 私は、他人の体温が残るジャケットの前をかき合わせた。


 ……なんでこういうときに、こういうことするかな、桃矢は。友里や時田先生じゃなくてもこれ、見られたらまずいでしょ。ネックレスを私に渡すときは、帰りまで待ったくせに。なんで見られたら噂になるようなことを平然とするのよ。

 これは、本当にさっさとどこかへ逃げないと。だから私はとりあえず上の階へ戻ろうと、階段の手すりに手を置いたのだけど。


「美伽ちゃん?」


 真彩まや

 可愛い人形、もとい真彩の声が頭の上から降ってきて、私は階段を見上げた。あ、真彩と掃除のこと忘れてた……。

 上の階の廊下から姿を現した真彩は、ぎょっとした顔で階段を駆け下りてきた。


「美伽ちゃん、どうしたの? それ、斎内君のジャケットだよね?」

「あー、えと、これはちょっと色々あって」

「こいつ、さっき嫌がらせの主犯に水かけられた挙句、廊下から突き落とされたんだよ。俺が助けたから無事だったけど。ついでに、走って傷口開けやがった」

「ええ? 美伽ちゃん大丈夫?」


 ちょっ、桃矢ばらさないでよ! 私は桃矢を睨みつけるけど、もう遅い。桃矢は両腕を組んてどこ吹く風だ。

 心配を顔に浮かべる真彩を安心させるために、私はへらりと笑ってみせた。


「平気だよ。傷口開いたっていっても、血がにじんできただけだし。それに、嫌がらせは丸く収まりそうだよ。証拠はばっちりだし、自白も聞いたし。あとは先生に言いつけたら終わりだよ」

「んなこと言ってる場合じゃねえだろ。ともかく天崎あまさき、俺はこいつを保健室へ連れて行くから」

「え、別にいいよ保健室なんて。このくらいなら、鞄に絆創膏入れてあるからそれで」

「美伽」


 げ、桃矢の声が低くなった。これはまずい、また空気がやばいことに……!

 でも私だって、桃矢に保健室まで付き添われるのはあの一回きりで充分だよ。このあいだみたいに、自分で処置し終えるまでそばにいる気だろうし。ここは踏ん張らないと。

 ――――なのに。


「美伽ちゃん、保健室へ行こう? 帰りにまた歩くんだし、ちゃんと手当したほうがいいよ」

「…………」


 細い眉を寄せ心からの心配を目に浮かべ、真彩は私をたしなめる。真彩、味方だと思ってたのに……!

 真彩にまで促されて、私が太刀打ちできるはずもない。結局、私は桃矢のジャケットを着て、桃矢をお供に、足を引きずりながら保健室へ行くことになってしまった。

 ああもう、真彩には申し訳ないよ。掃除を一人でさせることになっちゃった。心配かけただけじゃなくてさぼりとか、私最悪じゃん。確かに桃矢の言うとおり、あの人を追いかけなきゃよかったよ…………。


 あんなに私たちが派手に騒いだっていうのに、どういうわけか生徒どころか先生すら廊下に出てこなくて、誰ともすれ違わない。遠くから楽器の音が聞こえてきて、私と桃矢の足音が響くだけの廊下だ。

 私は桃矢を見上げた。


「ところで桃矢。なんでこっちへ来たの? 桃矢も先生に掃除頼まれてたの?」

「いや、俺は担任に書類整理を手伝わされてた。それが終わって帰ろうとしたら、お前の怒鳴り声が聞こえてきたものだから、まずいと思って来てみたんだよ。……正解だったな」

「確かに。桃矢がいなかったら、私があの人突き落としてたかも」

「だから、お前に首突っ込むなって言ったんだよ……」


 まったくお前はよ。桃矢は頭に手を当てて、ため息をつく。ちょっと桃矢、あれは不可抗力だよ。あれはキレて当然でしょ。


「なんにせよ、これで一件落着だね。あとで、先生たちに言いに行かないといけないけど。証拠の紙は、倉本くらもと君が保管してくれてるんだよね?」

「ああ。そいつを見せて、倉本や天崎の証言も聞いたら、先生たちも動くしかねえだろうよ」

「大口寄付してくれるありがたーい保護者の娘だもんねー」


 誰がどれだけ学校に寄付したかなんて普通はわからないし興味もないものだけど、それでも口の軽い先生や職員さんがいれば、噂になる。真彩の告発を聞いた先生たちの、慌てふためく様子が目に浮かぶよ。


「倉本君には感謝だね。証拠集めで地味に大活躍だったわけだし」

「おい、あんまりあいつに感謝してるとか言うなよ。絶対何か要求されるぞ」

「でも、お世話になったのは確かだもん。お昼を一回おごるくらいはしないと……まあ、それ以上はちょっと勘弁だけど」

「だったら俺にもおごれよ。俺だって色々したんだからな」


 何故かふくれ面で、桃矢は報酬を要求してくる。ああ、なんか犬の耳と尻尾の幻覚が見えてきたよ……ボールをとってきたときの美音みねそっくりだ。


 とはいえ、桃矢にもお世話になったのは間違いない。というか、さっきは命を助けてもらったって言っていいし。……一緒にいる理由になるし。断る理由はこれっぽちもないよね。

 もちろんそんな下心なんて出しませんよ、ええ。私は、ねだられて仕方なくって顔をした。


「はいはい、わかってるわよ。お昼おごるってば。とりあえず、お昼一週間分でいい?」

「……と、『ごち屋』のハンバーグ」


 私の提案に、桃矢はぼそりと付け足す。やっぱり肉か、この大型犬め。私のお小遣いをがりがり食べるつもりときた。まあ別にいいけどね。安上りなデート代だと思っておこう。


 ともかく、全部終わったんだ。もう下駄箱やロッカーの中を気にしなくていい。変な中傷の噂も、きっとそのうち消える。私も明希あきも、怖い思いをすることはない。――――当たり前の、遠ざかってた日々がやっと確かなものになるんだ。

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