第25話 悪意の終焉・一
家にいい傷薬を常備してたからか、神様が悪人にいじめられてる私を哀れんでくれたのか。私の怪我が完治ではなくても足を引きずらず歩ける程度に回復するのは、そんなに時間がかからなかった。とは言っても、あんまり長いあいだ歩いてるときつくなるけどね。
で、放課後。私の手の平に置かれたのは『会議室』のタグがつけられた銀色の鍵だった。
「いやー、悪いね。助かるよ」
いやいや、そんなことちっとも思ってないでしょ先生。ひらひらと手を振り去っていくバリトン専攻の二十代老け顔先生に、私は心の中でツッコミを入れた。
練習しに行こうとしてるところで担任の先生に会議室へと連行された私は、掃除を言い渡された。休みの明日に学校で色んな学校の先生たちが集まる会議があるそうで、綺麗にしておかないといけないらしい。他の教室も使うみたいだけど、そっちは別の生徒にやらせてるみたい。
だったら先生たちですればいいんじゃと思うんだけどね。足の怪我が治ったばかりの人間にさせることですか、これ。
私が鍵を見下ろして微妙な顔をしてると、途中で目をつけられてしまって私と一緒に連行された
「仕方ないよ。先生たちも忙しいんだろうし」
「それはわかってるんだけどね……でも私たちは練習しようとしてたとこだし、ああも嬉しそうな顔をされるとね……」
生徒に面倒な掃除を押しつけられて楽できるぞーって顔に書いてそうなところが、なんとなくいらっとするんだよね。生徒はタダでこき使える労働力じゃないんですけどね、先生。
とはいえ、押しつけられた以上はやるしかないよね…………あとでぐちぐち言われるのも嫌だし。
と、ないやる気の欠片を無理やり引きずり出して、私と真彩は会議室の掃除を始めた。
隅に置いてあるロッカーから道具を出して、二人で黙々と作業に取り組んでしばらく。埃まみれのテーブルの上を雑巾で拭いて綺麗にした私は、ひとまず雑巾とバケツの水を捨てるために、廊下の洗面台へ向かった。
家へ帰る生徒の流れがひと段落ついた管理棟の二階は、まだ下校時刻まで時間があるというのにとても静かだ。でも、生徒が屋外に出てるのか部屋の窓を開けてるのか、音楽科校舎のほうから楽器の音が聞こえてくる。特にトランペットやトロンボーン、ホルンははっきりと。さすが金管。
賑やかな気配が漂ってくる廊下の洗面台に汚れた水を流し、ブリキのバケツに新しい水を入れてると、自然と私の頭の中はここ最近のことが占めていくようになった。
毎日のように何かしらあった嫌がらせは、数日前からぱたりと止んでいる。ロッカーに変な紙が貼られることはないし、誰かに廊下で突き飛ばされることもない。
とはいえ、吉野さんってかなり痛い人っぽいだからなあ。逆恨みしてまた私や
はあ、こんな警戒、いつまでしなきゃいけないんだろう。皆に助けてもらってるし、明希が巻き込むこともあったし。前向きでいられてはいるけど、正直しんどい。桃矢にばれて釘を刺されてるんだから、吉野さんもいい加減諦めてほしい。
……はっ、ぼけっとしてるあいだに、水がかなり溜まっちゃったし。こんなに要らない。絶対重い。
慌てて蛇口の栓を捻って止め、水の量を調整して雑巾を濡らして絞る。はあ、雑巾のにおいが手についちゃったよ……これだから雑巾がけは嫌なんだよね。箒で掃くだけなら、まだ掃除は嫌いじゃないんだけどなあ。
やっぱり練習、今日はやめとこうかな。でも足の怪我のせいで練習があんまりできてないし、やらないとまずいよね…………。
――――?
足音がする。しかも近い――――?
突然、それまで一切聞こえてなかった足音が背後から聞こえてきた。私の後ろの階段は、もっと遠くにあるはずなのに。まるで私に存在を知らせるように、あるいは近くなりすぎて隠しきれなくなったのか。
背後から聞こえてくる足音に胸騒ぎを覚え、私は何気なく振り返る。
その瞬間。
――――――――
私の視界を何かが遮り、冷たいものが私に降りかかった。髪も顔も制服も、冷たい。
ばたばたと走る足音が、私の横を駆け抜け去っていく。私から逃げていく。
水をかけられたんだ。そして犯人は逃げてる。私の頭の冷静な部分がそう、状況を正しく分析する。
振り返った廊下を走る人は、女子だ。栗色の髪のロング。多分、そんなに背は高くない。
………………。
私の身体がかっと熱くなった。ごう、と風に煽られた炎みたいな熱が、心臓の部分から全身へと広がる。
つまり、私はキレた。
「――――っいい加減にしなさいよ!」
その場にバケツを叩きつけて、私は犯人を追いかけた。
人に水かけるとかありえない! 今までもさんざん嫌がらせして、次はこれ? ふざけんな!
絶対捕まえて謝らせてやる。その怒りだけで私は廊下を走った。
怒りに駆られた私の足が速いのか、犯人の足が遅いのか。差はあっという間に縮まっていった。廊下ってこんなに短かったのかな。もう階段が近い。
犯人まであと少し。あと――――そう、腕を伸ばせば――――――――
「……っ」
よし! もう逃がすもんか!
私は犯人の腕を掴み、捕らえた。犯人である女子が暴れたけど、こっちは逃がすつもりなんてさらさらない。振り向きざまに殴りつけてきた拳を受け止めた。ふん、こんなの大して痛くないんだから!
犯人は私を睨みつけてくる。その女子の顔には、見覚えがあった。
「放しなさいよ! 痛いじゃない!」
「何が『痛い』よ! こっちはあんたに水かけられてるんだから!」
「っ」
怒鳴り声に怒鳴り返し、私は犯人――吉野さんを黙らせた。
「あんた馬鹿じゃないの? 人にさんざん嫌がらせして桃矢にばれて釘刺されてるのに、またこんなことするなんて。今までの嫌がらせもそうだったけどね。せっかく桃矢や
「っ貴女何言ってるの? 斎内君にも言ったけど、私はそんなこと」
「人にわけのわからない言いがかりつけてきたあんた以外、誰がいるっていうのよ!?」
「知らないわよ! 貴女への嫌がらせをしたのが誰だろうと、私には関係ないじゃない! どうせ、他の人に助けてもらってたんでしょう!? 大して怖い思いしてないくせに、被害者ぶらないでよ!」
「っ……!」
ただでさえ怒りで熱い身体の奥で、さらに熱いものが激しく燃え上がった。それは私の思考を焼いて真っ白にし、理性をも焦がす。
「……ふざけないでよ」
自然と出た声は、今まで出したことのない低さで、強い強い感情を混ぜ込んでいた。
「貴女が取り巻きを使って私に嫌がらせしてた証拠はあるよ。倉本君が貴女の共犯者の人たちに話を聞いたし……彼が生徒指導の先生に話したら聞き取り調査をするだろうし、問い詰められて、貴女の共犯者たちがいつまでも黙ってられるわけないもの。桃矢もそういうこと貴女に言って、警告したんじゃないの?」
「……っ」
「もし証拠にならなくても、桃矢が貴女に警告してから嫌がらせがぴったり収まったし……貴女が文化祭で私に言いがかりつけてきたことを私が噂にしたら、貴女が私に嫌がらせしたって皆疑うに決まってるよ。少なくても、ピアノ科の女子は信じるでしょうね」
「……っ」
私がたたみかけると、吉野さんは動揺からか瞳を揺らした。
その顔……ああやっぱり、吉野さんが犯人なんだ。
私にあんな怖い思いをさせて、明希を巻き込んだのは――――――――
この女のせいで――――――――――――
気づけば自分の手が吉野さんに向かって動くのを、私は妙に冷静な気持ちで眺めた。吉野さんの顔が恐怖で竦み、目を閉じるのも、いっそ気持ちがいい。せいせいする。
――――――――――でも。
『キレて大木をボコボコにしようとした俺を止めたのは、お前だろ。そのお前が女を殴ってどうすんだよ』
『……でも、やるな』
頭の中に、桃矢の声が響いた。懇願する桃矢の顔が、階段から私を見上げてくる顔と重なる。
吉野さんの頬を叩くところだった手が、ぴたりと止まった。
……そうだ、保健室で私、手を出さないって桃矢と約束したじゃない。私も一応は納得した。
でも、この人は真彩を階段から突き落とそうとしたのに…………っ!
桃矢の声で少しは冷静になれても、仕返ししたいって気持ちは少しも薄れない。むしろ、歯止めをかけられて悔しくて、もっと腸が煮えくり返ってるかもしれない。少し気を抜いたら、ひっぱたくどころか階段へ突き落としてしまいそう。
多分、今の私はとんでもない顔をしてる。でもそれを自覚し、吉野さんの顔を見たところで、彼女を許してやる気になんて到底なれない。
「……何よ」
私が怒りと悪意をどうにか抑えつけようとしてたそのとき。吉野さんはそう、ぽつりと呟いた。
吉野さんはさっきの動揺なんてなかったみたいに、ぎっと私を睨みつけた。
「何よ偉そうに! 二人に守ってもらえてお姫様気分だったなんて自慢、聞きたくないわ!」
「はあ? 私がいつそんなこと言ったってのよ。貴女、どこに耳ついてんの?」
「どう聞いてもそうじゃない! あの二人が、私や私の取り巻きが犯人だって突き止めたって……! 自慢ったらしいのよ!」
「どこが嫌味よ! 意味わかんないこと言わないでよ!」
この自己中女! 私は心の中で罵った。
でもそんな私の心の声がわかるはずもなく、吉野さんは怒りと妬みにまみれた顔を私に向けたままだった。
「なんで貴女なのよ!
「そんなの知らないわよ! ともかく、人に嫌がらせする暇があるなら練習なり自分磨きなりすれば!? 真彩にも言われたでしょうが!」
「……っ」
吉野さんの顔は怒りで真っ赤に染まった。まるでさっきの私みたいに、わなわなと身体を震わせる。
まずい、これは――――――――
私がそう思ったときには、もう遅かった。
「うるさい、うるさいわね!」
!
え、私、嘘――――――――
突き落とされた――――――――?
天井が、吉野さんが遠く――――――――――――
誰か―――――――――――――――――――――
そのとき。
私の全身に衝撃があった。でもそれは予想してた、硬くて痛いものじゃない。息は詰まったけど、あったかい。
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