第10話 暗がりの怒り・二
けれど私は何も反応できなかった。何かを考えようとしても、思考の線は考える端からばらばらになる。
何これ、わけわかんない。
「こんなやり方になってごめん。でも、最近あいつが帰りもあんたにはりついてて、連れ出す隙がなかったんだ。あんたは休みの日も、一人で歩いては外へ出たりしなかったし。今日しかチャンスがなかったんだ」
…………連れ、出す? 私を? どこへ?
それに、休みの日も…………?
状況を受け入れるだけだった思考が、わずかでも動いた。ひらめくようなそれは、信じられない答えを導き出す。
「あの、ブーケ、は……」
「ああ、俺が作ったんだ。最初のやつだけだけど、鞄につけてくれてたよな。すげえ嬉しかった」
「下駄箱の……」
「あれも俺だよ。毎回ブーケじゃひねりがないし、女ってああいう、漫画とかドラマみたいなのが好きなんだろ?」
ああでも、と大木君は小さな笑み含みの声に申し訳なさをにじませた。
「廊下で後を追いかけたのはごめんな? 声かけようかと思ったんだけど、ちょっと驚かせようと思って。あんなに怖がるとは思わなかったんだ」
ごめんな、と大木君は繰り返し、後ろから私の首筋に顔を埋めた。……生暖かいものが、私の首筋に触れる。
――――――――っ。
私の身体は震えた。思考が解けて、体温が下がる。指先が冷たくなる。
何これ。何これ何これ。大木君、何を言ってるの? 意味がわからない。
「
すぐ近くで、声が聞こえた。
「美伽!」
必死に、
―――――――――――――っ。
私のほとんど止まってた思考は、やっと動いた。
桃矢、と私は叫ぼうとした。でも、それを察知した大木君は私の口をまた塞ぐ。
「だから、騒いだら駄目だって言っただろ水野。あいつに見つかるじゃないか」
子供に言い聞かせるような、呆れ含みの小声で大木君は私をたしなめる。まるで、鬼ごっこで一緒に隠れてるみたいに。
けど、私にとって鬼は桃矢じゃない。大木君だ。
逃げなきゃ。今の大木君、完璧にやばい。話なんか絶対に通じない。そもそも話なんてしたくない……!
でも、どうやって? 私の力じゃ、大木君から逃げるのは無理だ。そもそも刃物を持ってるし。
だけど、桃矢の声が聞こえる。倉本君と一緒に私のこと、探してくれてる…………!
だから私は、腕を伸ばせるだけ横へ伸ばした。こんな薄暗がりの中なら、大木君には見えないはず。
……よし、壁がある。しかも指先じゃなく、充分手がつく。この冷たい感触は、きっとスチールだ。シャッターかな。
いける。希望を胸に、私は思いきり腕を振った。
派手な音が、静かな夜の街の片隅に響きわたった。さらにもう一度、シャッターに拳を叩きつける。
「おい、何やってんだ」
小声で大木君が慌て、もう一度シャッターを鳴らそうとした私の手を掴む。私は身をよじり、暴れた。
気持ち悪い気持ち悪い。怖い……!
「美伽? いるのか?」
一度は遠のいてた桃矢の声が聞こえた。足音も近づいてくる。その音声に応えようと、私はさらに抵抗した。
そしてシャッターが上げられ、人影が私の目の前に現れた。
空気が凍てついた。逆光で人影の顔はわからない。でも私は、桃矢だと確信した。
桃矢が震える声で、何か呟いたような気がした。
「――――っ!」
っ!
桃矢の片足が消えたかと思った瞬間、硬い音がすると共に、私を包んでいた力と他人の体温が失せた。何か硬いものにぶつかる音のあと、どさ、と床に人が倒れる音がする。
「美伽! 無事か!?」
桃矢は呆然とする私の前に膝をついた。私の反応を待たず立ち上がらせると、街灯が頼りなく周囲を照らす路地へ手を引いて連れ出す。
「桃矢君! 美伽ちゃん!」
「
足音と共に、
「美伽を頼む」
「斎内!?」
桃矢は二人に答えず私の身体を押しつけると、暗がりのほうへ戻っていった。止める間もない。
「
倉本君は桃矢と私を見比べ、困惑しきった目で私を見下ろした。
当然だよね。私はこのとおりだし、桃矢は行っちゃったし……どう見てもおかしいもの。
私は躊躇ったあと、腕に添えられた真彩の手のぬくもりを頼りに、口を開いた。
「大木君が……私をあっちへ引きずり込んだの」
「
「ホントだよ。それに、ブーケを私の机に置いたのも、放課後に追いかけてきたのも、自分だって……」
「そんな……」
嘘でしょう。そんな声が、愕然とする倉本君の隣にいる真彩の口から見れた。
私だって、嘘だと思いたいよ。男子が調子に乗ってたまにする、度の過ぎた冗談だったって。大木君は友達だもん。一緒に食堂でお昼食べたりとかして……。
でも、さっきの大木君の声にふざけた色はすこしもなかった。嬉しそうにしたり、問いかけてきたり、私に言い聞かせたり。声も言葉も端々まで、本気でそう思ってるからのようにしか聞こえなかった。
『
…………っ。
大木君の声や喉に触れたものの感触が不意によみがえって、私は震える自分の身体を抱きしめた。
大木君に捕まったときの感触が、まだあちこちに残ってる。手のひら、唇――――――――刃物。
早く家に帰りたい。服を捨てて、身体を洗いたい。感触を忘れてしまいたいっ…………!
私がそう、腕の力を一層強くしたそのとき。
「…………っ」
怒鳴り声がするや、激しい音が聞こえた。私たちはびくりと体を竦ませ、一斉にそちらを見る。
何も見えないけど、今のって……。
「っ」
何も考えず、私は音がしたほうへ走った。その隣を、私より遅れて駆けだした倉本君が駆けていく。
「斎内、やめろ!」
私の隣を走り抜けた倉本君が、あの倉庫で声を荒げて何かに飛びかかった。でも逆に吹き飛ばされる。ブリキのバケツか何かが倒れる、派手な音がする。
私は血の気が引いた。
「桃矢!」
怒鳴って、私は倉庫に駆けこんだ。
桃矢は、大木君の胸倉を掴んでシャッターに押さえつけてた。明かりに照らされた大木君の頬は真っ赤だ。きっと桃矢に殴られたんだ。
やっぱりキレてる。しかもこれ、本気だ。ブチキレてる…………!
「桃矢、駄目!」
私はとっさに叫び、また大木君を殴ろうとする桃矢の腕に抱きついた。そんな私の頭上から、桃矢の声が降り注ぐ。
「でもこいつはお前を!」
「もういい! もういいよ桃矢……それ以上はやっちゃ駄目…………」
怒りに満ちた声で怒鳴る桃矢に、私は腕を放さず首を振ってみせた。放しちゃいけないと思った。
こんなに近いけれど暗がりの中だから、大木君の顔は外の明かりが当たってるところ以外見えない。腕はぶらりとしていて、意識があるのかないのかわからない。わかるのは、大木君はもう桃矢に抵抗することができないってことくらいだ。
でも、そんなことより桃矢が人を殴ってるのを見てられなかった。こんな怖い顔をして、友達を殴ってるなんて。そんなの――――――――
「……」
私を見下ろす桃矢から目をそらさず、祈るように見つめて数拍。桃矢は大木君を叩きつけるように床に下ろした。それてもやっぱり大木君は暴れなくて、床に伏せたままだ。倉本君が駆け寄って、大木君の身体を揺らす。
……気を失っただけだよね……?
そんなふうに、私が大木君の様子を確かめようとすることができたのは、ほんのわずかな間だけだった。
私の全身を、大きなものが包んだ。硬く熱を持ったそれは、私を強くきつく、締めつけるように抱きしめる。
「……こんなとこで焦らせんなよ」
吐息の合間から絞り出すように、震えた声で桃矢は私の頭を抱きかかえる。
でも、少しも怖くない。あったかい。
私の緊張の糸は、ふつりと切れた。
「っそんなの私のせいじゃないっ…………」
離れなくちゃ。心のどこかで誰かがそう警告してるのに、身体は動かない。代わりに、助けられた女の子らしくない、可愛くない言葉を唇は吐き出す。
その拍子に、涙がこぼれた。
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