第9話 暗がりの怒り・一
いやあ、ホントは桃矢と二人の予定だったんだけどね。けど校内に貼り出されてたコンサートのポスターを見た倉本君が、自分と大木君と真彩も連れていけって無理にねじ込んだらしい。私にそう話したときのそぶりからすると、桃矢は結構断ったっぽいけど……倉本君はなんと言って桃矢の首を縦に振らせたんだろう…………。
コンサートホールの職員さんや出演者たちはまだ仕事とか色々しなければならないことがあるのか、出てこない。通りから車やバイクがやってくることもなく、川を臨む裏口はとても静かだ。大通りの明かりは届いてこないけれど、街灯やコンサートホール内部の明かりが代わりにぽつりぽつりと暗がりを照らす。
壁に背もたれ、桃矢は長い息をついた。
「あー、また明日から学校か……」
「嫌そうだね桃矢、ピアノのレッスンを受けられるのに」
「先生たちのプレッシャーが鬱陶しいんだよ。君ならできるだの余裕かましてると痛い目遭うぞだの……んなこと言われなくても、真面目にやるっての」
頭をかきながら、桃矢はぼやく。ホントに憂鬱らしい。
それが可愛くて、私はくすくす笑った。
「それだけ期待されてるんだよ。あのコンクールに高校生で出場ってだけでも、すごいことなんだから。学校のいい宣伝になるし」
「予選選考の動画送っただけで、まだ本選出場が決まったわけじゃねえよ。大体、宣伝材料って……俺はPR大使じゃねえっての」
せっかく私が褒めてあげてるのに、桃矢ははあと息をつく。人に注目され期待されるのは慣れてるはずなのに……これは相当、先生たちに色々言われてるんだろうな。
でも、先生たちが期待するのは仕方ないよ。桃矢はすごいピアニストだもの。それに、桃矢がもし今度出場しようとしてる国際コンクールで上位入賞すれば、日本の高校生の快挙としてクラシックの雑誌で取り上げられるかもしれない。そんなコンクールに応募するんだから、先生たちが期待しないほうがおかしいよ。
なんかそういうの、嬉しい。桃矢がすごいってことは、私が誰よりも長くそばにいて、わかってるんだから。たまに、私の幼馴染みはすごいんだよって色んな人に言いたくなる。もっとたくさんの人に桃矢のピアノを聞いてほしいって思う。……そんなの恥ずかしいから、絶対に本人には言ってやらないけど。
雑談で時間を潰してると、倉本君がジャケットの上着を見下ろした。
「ごめん。僕、ちょっと電話に出てくるよ」
ポケットからスマホを取り出して相手を確認した倉本君は、そう言って裏口から離れた。背中が建物の影に隠れる。
そういや、私まだこれから帰るって家に電話してないな。でもまあいいかな、終わる時間はちゃんと言ってあるし、桃矢と一緒なのも伝えてあるし。というか、連絡するの面倒くさい。
それより、喉乾いたな。コンサートの前に缶一本分飲んだきりだったし。何か飲みたいかも…………。
私は、隣にいる桃矢をちらりと見た。
無理、だよねえ。ジュースを買いに、正面玄関近くの自販機まで一人で行くなんて。桃矢に言ったらきっと却下される。というか、何考えてるんだと怒るだろうなあ。桃矢だもん。
ほんの数十メートル、街灯がついた小道を歩くだけで明るい通りに出るのにわざわざ桃矢についてきてもらうのも、なんだかかっこ悪い。桃矢のことを無視してまでジュースが今すぐ欲しいかというと、そうじゃないし。ストーカー被害に遭った人の中には、ほんのわずかに見せてしまった隙のせいで刺されたり殺されたりしちゃった人がいるわけだしね……。
たかがジュース。されどジュース。私は通りを見つめたまま悩んだ。
――――と。私の背後で、桃矢が上着のポケットをあさる音がした。振り返ると、桃矢にも電話があったみたいだ。
「悪い、俺も電話に出る。お前はここにいろよ」
「わかってるよ、小さい子じゃあるまいし」
いらっとして、私は桃矢を睨みつけた。妹扱いするなっての。
桃矢も会話を聞かれたくないみたいで、私から離れたところへ移動しながら電話に出る。かすかに聞こえてきた彼の声は、さっさと話を終わらせたそうだ。言葉にはしないものの、うんざりしてるようでもある。だったら出なきゃいいのに。
他の三人もまだ戻ってこない。暇だ。早く戻ってこい、皆。
スマホをいじる気分にもなれず、私は壁にもたれて目を閉じた。涙さえ流れた、感動のコンサートのことを思い返す。
桃矢の伯父さんの演奏には、豪快な性格そのままの圧倒的な力が宿ってた。ピアニッシモの一音、甘やかな旋律にさえ人の心を惹きつけずにはおかない力があって、自分に聴衆の目と耳を釘付けにする。ショパンの有名すぎる練習曲『革命』を弾いてるときなんか、これから壮大な物語が始まるかのような、あるいは物語の続きを予告するかのような激しさに、何が起きるのかという期待をかきたてられ、胸が痛いくらいだった。
しかし声楽をやってる人間としては、
一流の歌手の歌声はまだ私の耳に残っていて、思い出すだけで感動がよみがえってくる。ああホント、あの芯が通った、長い長い高音。春の景色を歌い上げる優しさといったら! 自分がただの音楽学校の生徒でしかないこと、彼女がありったけの努力を注ぎ込んで才能を開花させたことを思い知らされる。
あんなふうに、ううん、あの人の十分の一でもいいから歌えるようになりたい。曲の素晴らしさを表現できるように、上手くなりたい。その思いが今またあふれ、音にならずとも唇が勝手に動き出す。
今よりもっと上手になれたら――――――――
――――――――――――――――え?
突然、視界が動いた。全身で空気の動きを感じる。熱も、腕の一部分にだけ。
コンサートで歌われてた歌の歌詞と記憶してる自分の歌声を辿ることに集中してた私は、反応も状況の理解もすぐにはできなかった。間をおいてから、誰かに後ろから小路へ引きずり込まれたのだと気づく。
何これ――――――――
私の全身を恐怖が襲った。反射的に叫ぼうとしたけど、口を塞がれてるから無理だ。暴れても、私を後ろから取り押さえる誰かの身体を突き飛ばすことはできない。
何これ何これ!?
「
いや待ってたから! 私はここだって!
遠くから桃矢の苛立つ声が聞こえて、私はまた暴れた。けど、やっぱり誰かは私を逃がさない。それどころか、さらに後ろへと私を引きずり込む。
そこは、街の明かりもろくに差し込まない暗がりだった。私の目の前はほぼ真っ暗。視界の隅に、かろうじて外の明かりが見えるだけだ。
私を捕らえる人は、私を拘束してた手を緩めた。けれど代わりに、冷たくて硬くて、一辺がすごく鋭そうなものが私の首に押し当てられる。……冷たくて、硬いもの。
…………刃物?
「悪い
――――――――――――――――え?
この声――――――――
暗がりに引きずり込まれたことと首に押し当てられた物でパニクってた私の思考は、このとき、動くことを拒否した。
この声は――――――――
私が暴れるのをやめたからか、男の人は押し当ててた何かを私の首から離した。けれど、私の喉は叫べない。頭の中は真っ白で、一つの言葉だけが占めてる。
私は男の腕の中でぎこちなく身体を捻った。真っ暗で相手の顔は見えない。でも、そこにあるのだろう顔は想像できる。
「おお……きくん……?」
「ああ」
私が震える小さな声で名を呼ぶと、男――
「水野ならわかってくれると思った。やっぱり水野が俺の天使なんだ」
と、大木君は嬉しそうに言って私を抱きしめた。さっきよりも強い力が私の身体を締めつける。
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