第8話 ちらつく影

「……」


 嘘でしょ。

 放課後のレッスンが終わり、廊下へ出た直後。目の前の開いた窓のサッシに置かれた小さな花のブーケを見て、私の頭の中にその言葉がまず浮かんだ。


「どうしたの? 水野みずのさん」

「い、いえなんでもありません。先生さよなら」


 まだ練習室の中にいる時田ときた先生から声をかけられ、私はとっさに愛想笑いでごまかして挨拶する。そしてブーケを手をとり、その場から逃げだした。


 恐怖の放課後の翌日から、桃矢とうやはがるがる唸る大型犬の耳と尻尾がついたとしか言いようがなかった。そりゃ私はあの日、立て続けに恐怖体験をして怯えてたし、桃矢はなんだかんだ言って面倒見がいいから、私を放っておけないのは当然だと思う。中学のとき、私が一部の女子に妬まれてるのを知ったあともそうだったし。あれはあれでまた、女子の妬みを買ったんだけどね。


 でも、だからってねえ……。


 私を家へ送った次の日から、桃矢は私の周りをやたらとうろつくようになった。登校はこの歳になっても一緒なのは変わらないのだけど、私のクラスのあたりを意味もなく歩き回るし、お昼も気づけば私のところに来る。当然、友里ゆりたちに詮索されて事情を話すしかなくなった。恋愛もの少女漫画の愛読者な友里や時田先生が『斎内さいうち君は貴女のことが心配で仕方ないのよ』って目をきらきらさせてたのは、言うまでもない。

 放課後の連絡も、その一つ。帰りも一緒にするから、帰るときは連絡しろってうるさい。登校するときは一緒でも、帰りは違ってたのに。過保護すぎっていうか、どこのお嬢様よ私。


 でも…………実はちょっと、いやかなり嬉しかったりする。だって桃矢――――好きな人が私を守ろうとしてくれてるのだもの。女の子なら憧れるシチュエーションでしょう? あの放課後のことを考えたら、この状況はいいものじゃないっていうのはわかってるけどさ。でも、嬉しいって思っちゃうのは仕方ないよね。

 ともかくそんなわけで、毛を逆立てた番犬付き登下校の一週間はあっという間に過ぎたわけだけど……。


 廊下を歩きながら、私は持ってきてしまったブーケを見下ろした。

 小さな紫色の花々を白いカスミソウで囲んだ、可愛らしいブーケのはずだ。小さい頃に見た、ウェディングドレスを着たリスのぬいぐるみみたいに可愛いぬいぐるみに持たせたい。最初にブーケをもらってた頃から、私は能天気にそう考えてただろう。

 でもこの状況じゃ、もう可愛いなんて思えない。桃矢には言ってないけど、実はこの一週間、毎日ブーケが私のところに届けられてる。机の上だけじゃなく、こうしてどこかの部屋へ入ったり廊下へ出たりしたときにも、私の目につく場所に置かれてるのだ。ここまできたらもう、ストーカーの犯行としか考えられない。


 時田先生に騒がれたくなくて持ってきてしまったけど……これ、どうしよう。できるなら、今すぐこの場に捨ててしまいたい。でもこの辺りにゴミ箱はないんだよね。練習室にゴミ箱はないし、他の教室にしたって、開いてるのは人がいるからだし。

 あと、玄関周辺でゴミ箱があるのは事務室か食堂くらいか…………桃矢には、これを捨ててから連絡すればいいよね。というかそうしないと、あいつ、絶対またやばいことになる。


 ということで、私は管理棟にある食堂へ行くことにした。確か桃矢は今日、二階の音楽室で練習してるはずだし。ぱっと行ってこっちに戻ってくれば、きっとブーケのことはばれない。…………多分。

 桃矢の動向にびくびくしながら私が管理棟へ向かうあいだ、音楽科校舎や中庭からたくさんの音が聞こえてくる。トロンボーン、ヴァイオリン、チェロ、クラリネット、ティンパニ。その他たくさんの楽器の音。さらには様々な高さの鍛えられた声が、イタリア語の曲を合唱してる。

 あ、トランペットが音外した。やり直しは……うん、成功。トランペットは花形だし、本番で一音たりともしくじれないよね。


「――――水野?」


 声をかけられ、私は足を止めて振り返る。聞き覚えのある声はやっぱり、大木おおき君だ。鞄を持ってるってことは、これから帰りかな。


「大木君は、練習?」

「ああ。昨日はしてなかったからな」


 肩をすくめた大木君は、私が後ろに隠した腕に視線を向けた。


「それ……」

「あはは……」


 指摘され、私はつい空笑いしてしまう。大木君の視線は強く、到底ごまかせそうにない雰囲気を感じる。

 これ、隠しても無駄っぽいよねえ。諦めて、桃矢に言わないよう前置きしてから私はブーケを大木君に見せた。


「私が練習してた練習室の前の窓に置かれてたんだけど、あそこに置いたままにできないし、かといって桃矢に見られたら絶対機嫌悪くなるからさ……どうしようかな」

「……じゃあ、俺が片付けておくよ。斎内にばれるとまずいんならさ」

「片付けてくれるの? ありがとう大木君!」


 なんていい人! これで桃矢にばれずに済む!

 私は思わず顔をほころばせて大木君にブーケを渡した。あんまり私がはしゃぐものだからか、大木君はちょっと呆気にとられた感じだ。ごめん、でも喜ばずにいられないんだよ、桃矢に不機嫌になられるのは嫌だもの。


 大木君が鞄にブーケをしまうのを見届けてから、私はなんとなく練習棟のほうを向いた。

 あ……。

 練習棟へ視線を向けたそのとき、見慣れた二つの横顔が練習室前の廊下を歩いてるのを見つけて、私は見入った。


 まっすぐ伸ばした背筋、ふわふわした髪、白い肌。小さく甘い顔立ちに華奢な手足。人形みたいな愛らしさは、制服でも隠されることがない。ううん、むしろより際立ってるかもしれない。

 可愛らしい真彩まや。中学のときは読者モデルをやってて、今でも男子の注目を集める近くの学校でも評判の美少女。

 その真彩が、隣の桃矢に笑いかけてる。桃矢は呆れ顔になって、何かを返す。それに真彩がころころ笑う。


「斎内と天崎あまさきだな。天崎が斎内に曲を見てくれるよう頼んだのかな」

「……じゃないかな」

「余裕だよな。あいつ、どこぞの国際コンクールに出るんじゃなかったっけ」

「うん。一次予選の応募したところだよ。だから余裕があるといえば、あるんだよ。真彩も、夏休み中にコンクール出るつもりみたいだし」


 桃矢が出ようとしてるのは、若手ピアニスト向けの国際コンクールだ。桃矢の伯父さんをはじめとする有名なピアニストを何人も輩出していて、若手ピアニストの登竜門と呼ばれる国際コンクールの中でも特にクラシック業界で注目を集めてる。日本国内の高校生向けコンクールは軒並み優勝済みの桃矢が出場しようとするのは、わからないでもない。ぶっちゃけ無謀でしょ、とは思うけどね。

 その一次予選は自分が課題曲を演奏してる映像を送らなきゃいけなくて、数日前に桃矢は送ったばかり。だから今のところ、一応は暇なんだよね。本人は相変わらず、ピアノの練習を欠かしてないけど。


 桃矢と真彩は私たちに気づかず、廊下を歩いてる。この時間だから、桃矢はこれから自分の練習をしに行くのかな。真彩の練習を見ることもその後に自分の練習もするなんて聞いてないけど、急に決まって私に連絡してないだけかもしれないし。ピアノ馬鹿だもの。

 真彩が桃矢を頼るのも当たり前だ。だって桃矢と真彩は友達だもの。同じクラスで、ピアノ専攻で、ましてや桃矢はクラシック業界期待のピアニストの卵だし。他の人みたいに真彩が桃矢を頼りにしても不思議じゃない。

 そう、当然のこと――――――――


「……水野? 大丈夫か?」

「へ? ……ああ、うん。ごめん、ぼうっとしてた」


 心配そうに声をかけられ、私は慌てて首を振った。

 やばいやばい、ぼけっとしてる場合じゃない。大木君がいるんだから。……それに、考えても仕方ないことなんだし。

 私は、鞄の持ち手をぎゅっと握った。

 桃矢に連絡しなきゃ。ブーケのことで悩んでたせいで、今日はまだ桃矢にレッスン終わったって言ってない。このまま一人で帰ったら、絶対怒る。


「じゃあ大木君、またね」

「あ、おい」


 呼び止める声がしたけど、私はそれを聞かなかったことにして音楽科校舎のほうへ走った。

 音楽科校舎から渡り廊下を走って、練習棟へ入るところで、私は桃矢たちと鉢合わせた。私の顔を見るなり、桃矢は目を吊り上げる。


美伽みか、なんでそっちから来るんだよ。お前、一人で帰るつもりだったのか?」

「そんなわけないでしょ、あんたがそんなにうるさいのに。向こうに大木君見かけたから、ちょっと声をかけに行っただけだよ」


 まさかブーケを捨てに行こうとしていたなんて言えるはずもなく、私はごまかす。もちろん顔もちゃんと普通にしたつもりだ。ぎくりなんてするわけがない。

 でも桃矢はへえ、とか、ほおお、とか心の中で言ってそうな、不信感たっぷりの目で私を見下ろす。両腕を組んでるし、苛々してるのが伝わってくる。

 うわあ、間違いなく、私を疑ってるよねこれ……。

 ああもう、だから桃矢には向こうへ行ったことも知られたくなかったんだよ。桃矢は私の嘘に敏感だもの。私が平静を装ってもすぐ勘づいて、無言か詰問で吐かせようとする。鬱陶しいことこの上ない。


 けど、ここには私と桃矢しかいないわけじゃない。真彩がいる。

 まあまあ、と苦笑して真彩は私と桃矢を交互に見た。


「斎内君、美伽ちゃんがこう言ってるんだから、信じてあげようよ。大木君は美伽ちゃんの友達なんだから、話に行くのは当然なんだし」

「……」


 宥めるように真彩は言う。でもまだ桃矢は私を疑ったままだ。じっと見る。

 そ、そろそろまずいかも……ねえもうやめようよ桃矢。私は人間なんだよ、大型犬との睨みあいなんて続けられっこないって。


「ともかく帰ろう桃矢。私、レッスン終わったから。桃矢も練習終わったんでしょう?」

「……わかったよ」


 私が強引に話を打ち切って促すと、桃矢は長い息をついてひとまず諦めてくれる。よし、あとは、帰りにまた聞かれてもしらを切ればいいだけだ。これまでの経験からすると、そのときには桃矢はさっきみたいな圧力をかけてこないだろうから、ごまかしきれるはず。ありがとう真彩。

 そうして三人で玄関へ行って、靴箱に余計なものが入っていないのを桃矢と一緒に確認して、三人で駅まで行った。そこで真彩とは別れて、桃矢と二人になって。真彩と一緒にいたのは、コンクールに出場予定の真彩にやってる曲を教えてほしいって言われたからだって聞いた。

 私はやっと、心の中でほっと息をつく。そして、そんな自分が少し嫌になった。

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