第一章 花束を君に

第1話 私の好きな人・一

 喉を広げ、腹に力を込めて。肺から吐き出す空気を音にして遠くまで飛ばす。飛ばす。そのことにただ意識を集中させる。

 そうして私の唇から放たれた音は、防音パネルが並ぶ部屋全体に響いて私の耳に帰ってくる。うん、うん、いいぞ私。上手くやれてる。

 自画自賛も、一瞬だけのこと。不安定にならないよう注意を払って声を震わせ、私は歌う。


 ――私を泣かせてください

 ――残酷な運命に泣かせてください

 ――失われた自由を想って泣かせてください


 イタリア歌劇の有名なアリア、『私を泣かせてください』。魔術を操るエルサレムの王に捕らえられ、言い寄られた十字軍の指揮官の娘が、恋人と離れ離れになった我が身を嘆く歌だ。

 だから、声を震わせる。不安、恐怖、心配、絶望。そうした私にはあまり馴染みのない感情を、聞く人に少しでも伝えられるように。聞きたくない言葉を聞かせられる可哀想な姫君になったつもりで、丁寧に歌いあげていく。

 そして、私の歌声に次いでピアノの伴奏も終わった。


「――――はい、はい。水野みずのさん、それでいいわ」


 ピアノで伴奏をしてくれた時田ときた先生はそう目元を和らげ、私を褒めた。丸い顔が一層丸くなって、まるでお餅みたい。言わないけどね。厚化粧のせいで余計それっぽいとか、男子みたいなことは絶対に言わないけどね。成績が惜しいから!

 ともかく、これでやっと合格だよ。ようやく得られた合格の言葉に、私は安堵の息をついた。


 ここは、私立大園おおぞの学園高等部。有名大学への進学率が高い普通科と、有名な音楽家を特別講師に招いた授業が魅力の音楽科で全国的に有名だ。

 その音楽科の専用校舎である練習棟の一室で放課後、私は時田先生のレッスンを受けていた。授業中のテストの成績が悪かったとか、そんなのじゃない。単にそういう日だからというだけだ。


 今日はここでレッスンは終わり。それから二人して、たわいもない話をしながら帰り支度を始めた。


「そういえば水野さん、バリトンの大木おおき君に告白されたんですって?」

「! 誰から聞いたんですかそんなこと」

横山よこやまさんよ。昼休憩に教えてくれたわ」


 友里ゆり……恋バナ好きのこの人に教えてどうすんのよ…………。

 恋バナの守秘義務ってこの世に存在しないのかな。うふ、とでも漫画なら書いてそうなにっこり笑顔をする時田先生に教えたっていうおしゃべりな友達に、私はため息をつきたくなった。


 昨日の昼休憩。私は男子からの告白というものを受けた。相手は大木涼輔りょうすけ君という、私や友里と同じクラス――――つまり声楽専攻の男子生徒だ。去年の春のオリエンテーリングで知り合って以来、それなりに話をしたり一緒にお昼を食べたりする、高校では比較的親しい男友達だった。


 だから、告白されたときはホントに思考停止した。放課後に人気のない学校の敷地の片隅に呼び出されたときも何の話かわからなかったのに、よりによって告白とか。ああいうの、青天の霹靂っていうんだっけ。大木君はたちの悪い罰ゲームをさせられてるんじゃないかとすら思ったよ。彼は本気なんだって、すぐわかったけど。


 友里は中途半端にしか話を教えてなかったのか、時田先生は興味津々とばかりに目を輝かせてた。


「で、付き合うことにしたの?」

「してませんよ。大木君のことはいい人だと思いますけど、付き合うとかそういうのは……」

「あら、もったいない。付き合ってみたら、もっといいところを見つけて好きになるかもしれないのに」

「はは、友里にも言われました」


 いい人だと思うんだけどね。遊び人ってわけでもないし、授業態度は真面目だし、それなりに大きな規模のコンクールで入賞してる。自慢になるけど、私に告白してくるくらい、私のことを好きでいてくれてるし。付き合ってみなよ、って言われるのはわからないでもない。

 でも、私は彼の想いに応えられない。だから、断るしかなかった。


「ああでもやっぱり若いっていいわねえ。そうやって恋愛と友情を比べるなんて、青春そのものだわ。勉強や音楽に励むのもいいけど、高校生活はこうでないとね」


 頬を手で包み、うっとりと時田先生は言う。色を付けたお餅みたい。

 これでも四十手前で、旦那さんも子供さんもいるはずなんだけど……。とりあえず、先生、現実に戻ってきてください。先生が練習室の鍵持ってるんですから。


 生徒の青春模様でトリップする先生を現実に連れ戻し、先に練習室を出ると、廊下から見える外は、青空が広がってた。

 とはいえ、建物の影は昼間と違うし、振り仰いでみれば空の一部分は沈んだ夕日に燃やされていて、橙色や黄金色で輝いてる。それにだるい。だから昼間じゃなくて黄昏時なのだと、時計を見なくてもわかる。


 今日の晩御飯は何なのかな。チキンソテーだったらいいな、お腹空いたし。あとはポテトサラダと、トマトがあって――――


「美伽」


 ん? これは――――――――


 ああ、やっぱり。お母さんの美味しい手料理の味を想像しながら玄関まで来たところで声がかかり、私は振り返る。振り返った廊下にこっちへ走ってくる男子生徒を見つけて、心の中で息をついた。


 だって……大型犬、だよねえなんか。飼い主とか興味ある物を見つけてまっしぐらに走っていく黒いレトリバーとか。や、ちゃんと人間なんだけどさ。あの無邪気な可愛らしさなんて、これっぽちもないし。

 なのにこうして走ってくるとき、たまに犬みたいに見えて仕方ないんだよねえ。なんでだろ。すぐ寄ってくるから?


 この人懐こい大型犬もどきは、ピアノ専攻二年の斎内さいうち桃矢とうや。家がご近所であれば母親同士も仲がいいという、私の典型的な幼馴染みだ。幼稚園や小学校、中学はもちろんのこと、通ってた音楽教室も同じで、とうとう高校の学科まで一緒になってしまった。腐れ縁とはまさにこのこと。桃矢がすぐ私のところに寄ってくるのも多分、そういう兄弟みたいな気安さがあるからなんだと思う。

 桃矢は私の隣まで走ってくると、私の足に合わせて歩きだした。


美伽みか、お前も帰りか?」

「うん。珍しいね、こんな時間まで学校にいるなんて。今日は学校で練習してたの?」

「ああ。昨日から洋司ようじ伯父さんが家にいるからな。ピアノが占領されてるから、こっちで練習することにしたんだよ」

「あー、そういえば桃矢の家にいるんだっけ、伯父さん」


 今朝桃矢がぼやいてたことを、私は思い出した。


 桃矢の伯父さんは、クラシック界で人気のピアニストだ。京都を拠点にしてるんだけど、近々コンサートがあるからってことで、今は桃矢の家に滞在中なんだっけ。そりゃ、ピアノを明け渡すしかないよね。


「で、その伯父さんのコンサートに桃矢は行くの?」

「むしろ来いって命令された」


 肩をすくめて桃矢は言う。あー、言いそう。桃矢の伯父さんって、すごく大らかで自信家だもんねえ。専門雑誌とかでのインタビューでも、自分はすごいんだぞ! って思ってるのを全然隠してないし。自分と同じ道を歩む甥っ子に、私の演奏を参考にするがいい! みたいなこと言ってもおかしくない。


「お前も来るか? 来るなら伯父さんにチケット用意してもらうけど。なんか、ソプラノ歌手もゲスト出演するみたいだぞ」

「へ? 誰?」

大西おおにし晴香はるかって人」

「! 行く!」


 ゲストの名前を聞いた瞬間、私は何も考えずに即答した。

 だって大西晴香と言えば、国内外の音楽祭で引っ張りだこの人気ソプラノ歌手だ。CDだってほとんど揃えた。私の憧れの人。あの女王様の生の歌声が聞けるなんて、そんな贅沢、見逃せるわけないでしょ!


 桃矢は私の答えなんてわかりきってただろうに、それでも私の答え方がおかしかったのか小さく笑った。


「わかった。いい席のチケット、用意してもらう」

「うん。桃矢ありがとう!」


 いい席、ってことはS席とかかな。ますます期待が膨らんで、私は満面の笑みになるしかない。さすが人気ピアニストの親族。即完売のコンサートでもチケットを確保できるのは、親族の特権だよね。

 コンサートの日は何着ていこうかな。この間買ったワンピースもいいけど、お気に入りのコーディネートも捨てがたい。鞄もどうしよう。クローゼットの中に詰め込んだ服や小物が、私の頭の中をよぎっていく。


「伯父さんのことだから、公演の前と後に楽屋に入らせてくれると思う。そのとき、もしかしたら大西晴香に会えるかもな」

「うわ、楽しみ」


 プロの音楽家の楽屋なんて、普通は一般人が拝めるものじゃない。桃矢の伯父さんだけじゃなくて、大西晴香にも会えたりしないかな。会えて声をかけてもらえたりしたら、私、感激して言葉が出なくなるかも。ああもうホント、楽しみ。


 そんな願望でテンションが高くなったせいで、私は興奮のまま、桃矢より一歩前へ踏み出した。つい、鞄を振るってしまう。

 それでか、桃矢は私の鞄の変化に気づいたみたいだった。


「お前、今朝その鞄にそんなのつけてたっけ」


 と、桃矢は私の鞄の紐に括りつけられたものを指差した。

 一言で言うなら、ブーケだ。カスミソウを引き立て役に、ダリアだかデイジーだか知らないけど、小さい菊みたいな花が咲いてるのが可愛らしい。冴えた青は目に鮮やかで、小さいながらも存在を声高に主張してる。


 そういえば、今日は一緒に昼ご飯を食べなかったから桃矢にはまだ言ってなかったんだった。納得し、いやそれがさ、と説明することにした。

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