第26話 闇
「みう……」
「三日間会ってないだけなのに、久しぶりって気がしますね!」
松木アキラが面食らっていた。珍しく表情でそれと分かる。
そりゃそうだ。ここで会う想定なんてなかったんだから。
「戻っていいぞミツ。そっちの準備だけは念入りにしとけ」
「……ここまで来て手落ちは無いようにね」
「当然だ。俺たちでやる。お前はお前の役を全うしろ」
芦田光は私達をしばらく眺めていたが、
神谷さんの言葉に頷きもせず、ドアを閉めて出て行った。
普段の彼女からは考えられない反応だ。
足音も急いでいる様子はなく、ただ遠ざかっていく。
松木アキラの動揺はこの裏切りと呼べる行為も一因したらしい。
信じたくなかったといった類のものだが。
代わりに田邉未羽が机の方に歩いて行き、こちらを通り過ぎて向かい合った。
たしかに信じたくはないな。私としてもこの光景は見たくなかった。
本来なら……陽菜なら。
泣いて抱き合い再会に感謝し合うシーンになるはずだ。
でも田邉未羽はそれを拒否している。
前持った情報か、この部屋のやり取りを覗き見ていたのかは判断付かないが……
《私が日野陽菜ではない》ことはすでに知っているのだ。
そして私を一度も見ず、声も掛けない。いないものとして扱っている。
こちらもなんて言えばいいのか分からない。
今までの経緯、日野陽菜の事情。
この場面での状況が、それをさらに難しくしている。
「田辺みう。私は……」
「ああそうだ、マツキ先輩! つぐみちゃんのパパのこと、何か知ってます?」
「……いや、よくは知らない」
台詞を意図的にかぶせてきた。私と話をする気は無いという意志表示。
これが早川つぐみも参加した茶番なら、
何度かかぶせたあと陽菜の決めで笑いをさらう流れなのだが。
田邉未羽が《覗いている》
こちらではなく、松木アキラを。
「変なこと聞いちゃいました。忘れてください。……ほら、やっぱりつぐみちゃんですよ! 知っていないと、誰だって消せっこないんですから」
「つぐみは近くにいるのか? どうしてる?」
「すみません……。それはここでお話できないんです」
なぜ? なぜ今さら心を覗き込む?
松木アキラも私も偽りの気持ちを混じらせて対策してある。
何を読み取ったんだ……向こうには、こちらの知り得ない優位があるのか。
……そして、今までどこに行っていたのか知らないが。
なぜ、つぐみの父親の異常を、そして消えたことを知っている?
誰も知らないはずだ。人知れず行方不明になり、人知れず家に戻ったんだから。
つぐみの家で父親が消えた時、一つの懸念はあった。
劇団の中で、顔を知っているのは陽菜と未羽しかいない。
仮に未羽が父親を消しにきたのだとしたら、違和感がほとんど残らない。
つぐみの場合も考えたが、父親の会話……特に怒鳴り声をあげているところの説明が付かない。何かの理由でベランダから来ようが、単に泣いて喜ぶだけだ。
消した誰かから説明されたのか……お前が消したのか。どちらだ?
「みう。もう一つ……聞いていいか?」
「つぐみちゃんのパパは、あたしが消しちゃいました」
正確に深いところまで覗かれている――この言葉と思考の先回りは。
松木アキラが馬鹿正直に心を晒しているなんて訳もない。
……私の方か? 視線を外していても読めるのか?
「みう……誰かに、頼まれたんだな? 強要されて、そんなこと――」
「わかってますよ。そんなことは」
田邉未羽は笑った。少し困ったように眉をひそめて。
受け入れているもの、その重さを松木アキラに感じさせない笑顔を見せる。
「例えば……私が大変な目に遭っていて、ひなちゃんだったら、どこまで自分や周りを犠牲にして助けてくれようとするかって話に近いですね」
「? 何だそりゃ――」
「そしてもう一つ。その同じ話があたしとつぐみちゃんで、どちらかしか助けられないとしたら、どうするでしょう? ……きっと選択できる最後の最後まで二人とも助けられる方法を探すんですよ。マツキ先輩で例えるなら……いえ、失礼でした。すみません」
胸のどこかが、チリチリと痛みだした。思わずその辺りを手で抑える。
このセリフ。似たような言葉を聞いた、ような。あるいは言ったことが。
劇じゃない。陽菜の記憶にはない。
いつだ? いつ私は――
「山崩しって知ってますか? あの、砂場とかでよく子どもがやるヤツです」
「……それがどうした?」
「棒や枝を刺して、順番に山を手で崩していく。棒が倒れた人の負けで――」
「だからそれがどうしたってんだッ!」
大きく声を荒げる。
未羽に対して、こんな風に言うなんて普段ではありえない。
苛立ちよりも底知れない未知への恐怖が滲んでいた。
「もう倒れそうですよ。今にも。松木さんの心を支えてるもの」
「……」
「この場合、棒や枝は精神の支えで……《呪い》はその周りの部品を削っていく。えっと、その、例えですよ例え。大丈夫ですか? 三日前よりだいぶ削れてます。いくら記憶や心を無くしても、自分らしく振舞ったり、ごまかして取り繕う演技は出来ます。松木さんもよく知ってますよね? でも自分の中心まで無くしちゃったら、考えることも、身体も動かせなくなりますよ? そんなこと――」
「わかってるよ。そんなことは」
苦し気に、絞り出すように言った。
諦める彼なんて、絶対に見たくない。
いつだって真剣で目的に向かっていて……自分とみんなを面白おかしくさせて気楽にいこうとする、
一度だって希望をなくしたりしなかった彼を。
心拍数が上がっている。汗をかくほどじゃないといいが。
自分の精神の周りが、ゆっくりと崩されていっているみたいな感覚もある。
「俺は、俺の目的のためにそうしてるし、そうなっていく瞬間をすべて見殺しにしてきたんだ」
松木アキラは笑った。情けない乾いた笑いだ。
歪んだ表情には、様々な思いが揺れ動いている。
疑問。葛藤。後悔。しかしすべてを受け入れ、のみ込もうとしている。
《七瀬あやねと日野陽菜のことを考えているようだ》
「余計な話はいい。言わなくてもすでに済んでるんだからな」
「そうですか? あたしはアリだと思いますよ? そもそも今回だって、もっとちゃんと話が通じる時に出会っていれば、こんな場面にはなってない……違いますか?」
田邉未羽の口調に遠慮がない。普段では考えられない気安ささえ感じる。
年齢も性別も立場も違う二人。今は劇団の長と団員の関係ではない。
それよりも非日常的で、ぞっとするような別の関係。
「違わねえよ。だが、こと此処に至ってはなァ」
「確かに、もうここで言うことは無いのか。うーん、残念です」
「すまんな。ココまで来ていくつか的が外れた。みうも消えてしまったとばかり」
「それは……私は構わないが」
《ここから逃げろ!》
思惑が錯綜する中、なぜか三人が三人とも、私の心に同じ言葉を届かせてきた。
どんな意図かまでは分からなくとも、強い意志だけは読み取れる。
アキラはともかく、紙谷リョウジも田邉未羽もそう思っている――
何かが、引っかかった。
この瞬間は、思考を介する余地などないさし迫った場面だったのかもしれない。
事実その通りの行動を起こそうとすれば出来た。
けれど私の反応には大きくブレーキが掛かり、一歩後ろに下がるだけだった。
髪の毛が揺れる。
目の前に空間の歪みが、大きな口を開けたように出現していた。
すぐ近くをバスか電車が横切ったみたいな、ぞわっとした圧迫感が通り過ぎる。
「ああっ!」
思わず声が出た。
松木アキラの身体が揺らぎ、磔にされたように押さえつけられていた。
「逃げろ! あいつが、バケモンがお前を! クソッ。あやねっ! あや――」
向こうからは見えていないのか、視線は誰とも合うことは無かった。
何かをもう少し伝えようとしていたが、すぐにそれも遠くなっていく。
揺らぎは彼を連れ去って収まり、空気が透明な隙間を塞ぐようにすごい勢いで流れ込むと、あとの痕跡は影も残らず消えていた。
――同じだ。何度繰り返す気だ私は。この繰り返しはどこで終わる?
深呼吸を一つする。次に二つ。そして三つ。
ようやく紙谷リョウジの手が見えていたことに気付く。
《しるし》を左腕に刻み込み、向こうの世界を開いていたらしい。
こちらをまとめて消してしまうつもりだったのだろうか?
必然か偶然か、未だ私はここにいる。
「あ、じゃあ今度はあたしがやりますね」
「いや、いい。俺がやる」
どうしようもなく涙が溢れてきた。
中身は違えど、日野陽菜の顔をした私を、始末する算段をしているのだ。
陽菜のよく知る二人が。
松木アキラのこともあって、涙を我慢できず止められない。
このまま泣いてしまっている時ではないのに。
行動を起こさなきゃ、何も起きないまま、消されるだけなのに。
視界が滲み、鼻の奥が少し痛くなる。
堪えようとしても、悲しさと怖さが込み上げて来て抑えられない。
情けない顔をしていると思う。でも声だけは漏らさなかった。
ああ、涙が熱い。ふと頭の中によぎった言葉。
手が冷たい人は心が温かく流れる泪も熱い――
「……あ、あ?」
心が、温かい?
全ての思惑が暴かれ、絶望し。変わり果てた親友に悲しみを抱き。
自分じゃない、誰か大切な人を失った時、流す泪。
これ初めてじゃないぞ。
あ、あ。そうだ。自分は――
かちり。がちっッ。
「紙谷さん。たった今ですが、ある程度繋がりました。良くないです。すでに辿られたなら気付いているかもです。こちらから動きましょうか?」
「よせ。もう探らなくていい。変更もない。向こうの出方を待て」
「ですが……」
「やめろ近付くな!」
不意に未羽の近くにある机が、奇妙な形にえぐれた。
数十のドリルが同時に穴を掘り抜けたみたいな跡。
「紙谷さん。様子見を続けますか? 手があれば打ちます」
「離れろ。そこからでも、ごっそり喰われるぞ……くそ、何度見てもムカつきやがる。そのにやけ面、人に憑りつくしか能のない寄生虫がよォ!」
何らかのやり取りをしている二人には《恐怖がちらついている》
よく分からないが、突然机が破壊された。
術の暴発か? 私にぶつけようとでもしたのか。
今なら逃げられる。
《しるし》を前もって描いていようが、水分を持って術を成功させようが。
揺らぎの発現に少なくとも数秒は掛かる。
《呪い持ち》が二人。
この場でやりあってもいいが……少しだけ身を引いて、不意打ちの方が簡単か。
あいつも、逃げろと言っていた。
顔を立てるわけじゃないが、今回はそれに従うか。
完全なる感覚を取り戻すまでに時間が要ることだしな。
二人が行動を起こす前に、ドアへ走る。
扉が開いた隙間に身体を滑らせることは簡単……そう考えていた。
「おっと」
指が滑って、ドアノブを回し損ねる。
動揺はなかったはずだが。もう一度手を……あれ。
ドアノブが潰れてねじれ曲がり、今にも落ちそうにぶら下がっている。
その周りは細かく削れた穴と傷が無数に飛び散っていた。
それに……この手の形は?
夜空のような黒いもやがへばりつき、形がはっきりしない。
ゆらめいていて、うすっぺらで。滑らかなカーテンのようだ。
それがびっしりと陽菜の手に群がり、覆い尽くしている。
まるで、かいぶつの――
黒い手が、指先からボロボロと崩れ落ちた。
ひしゃげたドアノブの一点に吸い込まれてく。
そこには《しるし》が現れて、弱く滲んで輝いている。
「タッチしました。このまま引き剥がしますよ?」
「ああ。頼む」
なんだ? この手は。
……こいつらの術の影響とも考えたが、何となく違うような気がする。
前もってドアノブに《しるし》を描いていたんだな。あるいはこちらが視線を外していたどこかで用意をしてた。この部屋を出ようとすれば、ここに触るしかない。さっき逃げろと強く思っていたのは、この罠にかかることを望んだからか。簡単に誘いこまれてしまった。吸い込まれれば、戻ることは出来ないだろう。
クソッ。終わりか。もう少しで、全てを。大切なものを……取り戻せたのに。
「叶えたいと願っていた夢。すぐに思い出せるようになりますよ。それまでは、もとの場所にいてくださいね。きっと少しの間だけですから」
田邉未羽の声が、すぐ近くで聞こえた気がした。
もう距離感は掴めないし何も見えない。身体がどこにあるか認識もできない。
「あなたたちの願いは、一つだって叶えさせない。あたしがすぐにまた引きずりだして、バラバラにしてやるから」
少しの価値も、関心もないといった声。わずかにあるとすれば、哀れみの類。
こちらに感情を向けることすら無意味とでも言うような。
しかしそれはどうでもいいことだ。
問題は、あの黒いもやが残らず剥がれ、吸い込まれていったかどうか。
あれと混じりたくはない。いくら苦し紛れの足掻き――抵抗だとしても。
これから永遠にあれと一緒って運命だけは、蹴っ飛ばしておきたい。
「ア、ア……!」
まともに声が出ない。
この手は使えるのか。やるだけやってみる。
滲む模様。鈍いかがやき。
なんどくりかえしてもいどのそこはまっくらでいやだな
人 人 人 井 井 人 人 人
しるしよ なげいれろ
かちり。かちり。
* *
「なんとか、なるにはなった……」
「いまの剥がれ方、おかしかったですよね? 途中で何かされました?」
「向こうも予め《しるし》を用意していたらしい。対抗策として考えてたんだな。……つまりこちらが《しるし》で接触をするってな」
「えっとどうしましょう? マズっちゃいました?」
「いや、これでさらに分かれたんだ。楽になったと言える。ひとかたまりの方が厄介だった。こんな狭い場所で下手を打てば、俺達じゃ良くて相打ちなうえ、奴は向こうに居座り続ける。想定より一日早かったことで、場所は選べなかったかわりに状態と段取りの差が出たな」
とおいところで、だれかのこえがする。
よくしっているこえ。
「そうですか。ならあとは大詰めの段取り、ということですね」
「ああ。先に送る。しかしアレだな……さんざん保留かけておいて、先に送るは無いよなァ」
「お互いに言いっこなしですよ。慎重になるしかなかったんです。打てる手を尽くしたと考えましょう。そうでないと、やりきれませんよ」
このてをつないでいる、だれかのこえがする。
いつもいっしょにいてくれた、よくしっているてだ。
「ひな。お前は、もう少しだけ周りの人間を無価値なものとして扱えたなら、どんな女優になれたか俺にも想像がつかない。その可能性が潰えたのは……本当に残念に思っている」
ひかりがとじる。
かわりになにもない、よぞらがくる。
わたしをつつみにくる。
《しるし》へなげおとすために。
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