第13話 顔中を口にして




 空間が波打つ。

 現実の反映の向こう側。

 どんなことがあっても越えられない境界を、濁りは越えてくる。

 影はだんたんと濃くなり、つぐみのパパにまとわりついた。

 最初は黒い影だと思っていた。でも違う。


 こちらの肌をなぞりながら広がって来たそれは、ぎゅっと濃くなり形を作る。

 おぞましい黒い腕が挟み込むように指を食い込ませ、

 ……掴んだものを引き摺り込んでいった。


 かちり。がちッ。


 あまりの光景に目がくらむ。

 私の感じる恐ろしさが、私の皮膚や精神をがりがりと削りとり骨だけにしていくのが脳裏に映った。すべてが細切れになってどこまでも落ちて行く。それを見下ろしているのは――


 もう音一つない。

 嫌な空気だけが身体を撫でているような気がするだけ。

 どうやら色々なことを信じて受け入れる他ない。

 目の前で、また人が消えたこと。JINプロの周りで人が相次いで行方不明になっていた意味。つぐみも未羽も、あの黒い腕がさらっていった事実を。


「ふふっ……あははははっ」


 私は笑っていた。

 説明のつかないもの。人がいなくなっていく理由。

 それを証明する存在が、向こうからわざわざ来てくれたんだから!


 私を私であるようにさせるものはもう失った実感がある。

 それでも残っている記憶が、このままでは済まされないと言っていた。


 松木さんに電話をかける。

 玄関には変わったところはないから、開けて外に出て周囲を見回す。

 不審な人はいない。

 私の笑い方が誰かから見て異常に見えるのなら、不審者は私ってことになる。


『どうした、ひな。話は済んだのか?』

「誰かこのドアから出入りとか、した?」


 駐車の関係で移動したようで、松木さんの車がどこにあるのかは分からない。


『今、お前が電話してるのが見えてる。……すまん。ずっとは見てない』

「そう。そこでしばらく監視していてください」

『おい? 待っ……』


 上着の胸ポケットに携帯をしまう。

 何か言い続けていたようだが、もう切ってあるし今は放っておく。

 本当に差し迫って変わったことがあれば、また電話が来るだろう。


 ドアから再びつぐみの家に入った。

 湯呑の割れた欠片。椅子の引いた傾き具合。


「誰かが来て、立ち上がって……最初は激しく怒ったような声で応対していた」


 インターホンは鳴っていない。

 いきなりドアが開いて誰かが入ってきた? なら怒鳴るのは分かる。が、その後普通の声の調子に戻って会話していたことを説明できない。見ず知らずの人間なら猶更だ。


「つぐみの父は、来訪者が知っている人物だと気づき、声の調子を落として無礼をとがめでもしたのか? だとしたらどんな話だ」


 その人間が、理由はともかく《印》を使って人一人消したとする。

 二階にいた私には、ドアの締まる音までは分からない。だが、この家を出たはずだ。一階にいないんだから。あの黒い腕の《かいぶつ》が訪問して来てそのまま消えて行ったっていうオチも無い。あれを人間とは認識できない。普通の人間なら絶叫して我を失うよ多分。だが、仮に《印》が移動や隠れる手段として使えたとしたらお手上げだ。


 ――窓が少し開いている。たしかさっきは……


「部屋の窓は開いていて、網戸だった。今は反対側が閉じ切ってない」


 割れた湯呑をまたぎ、窓をスライドさせてみる。窓枠の下、溝の部分にほんの少し土が付着していた。塀までの狭い庭を眺めて、それが同じ土だと分かる。サンダルが無いってことは、つぐみの父じゃない。訪問者はここに足を踏み入れて、ここから出て行った……?


 土足なら、床に痕跡が残るが、それがない。……ドアには向かってないんだ。

 それなら怒鳴った理由も、普通に話し続けたのも納得がいく。そしてなにより、侵入と逃走経路があるなら、ただの《人間を消すことが出来る人間》でしかない。捕まえることは可能だ。私がそいつに消されない限りは。


 ――どうする。追いかけるか?

 そもそも、なぜ玄関から来ない。窓から来て窓から出て行ったのは間違いない。訪問者にとってはここが開いていて助かったみたいだが。


「私達が、ここに来ていることを知ってた?」


 だとするとほぼ間違いなく劇団の誰か、ってことになる。もともと松木さんが大声で電話していて、そこから辿っていけば容易だ。《印》も、未羽とつぐみの行動を見るにJINプロが関係してると思うが、今は置いておく。


 松木さん、ということはまず考えられない。アポなんて取る必要がないし、私がここにいる必要もない。消すつもりなら、ただ消すだけだ。 

 考えなければいけないことは、こちらに来た為の結果なのか、もともとつぐみの父が消えることは想定してあったのか。……彼はマスコミに娘のことを伝えるか迷っていたからな。その線かどうか。


 注意深く、庭と周囲を見る。さすがに足跡までは分からない。どこから来てどこへ向かったのかは私じゃ判別できないな。

 一度外に出て電話をしたりしていたから、もうこの場にはいないか――


 目の前の景色が、急に歪んだ。

 つぐみたちを消した時のように。音もなく。ただ空間が濁っていく。


「ぐっ!」


 距離を取ろうとすると同時に、耳障りな金属音がなった。

 吸い寄せられそうな感覚に逆らうように尻もちをつき、へたりこむ。


 一瞬目がくらんだが、すぐに視界がひらけた。

 視界がひらけたというのは、本当に言葉通りそのままで……

 とっさに閉めようとした網戸が、枠の一部ごとくり抜かれて無くなっていた。


「誰かいるな……。すぐそこに」 


 私を排除しようとする悪意を感じる。

 もし、ぐうぜん網戸に手をかけていなかったら。

 身を乗り出していた分だけ消失する、ホラーが起きるところだった。


 遅れて汗が噴き出してくる。 

 叫びそうになるのをギリギリのところで留めた。

 ぽっかりと空いた穴のことなんて、もう気にもならなかった。

 風通しのよくなった網戸の下、溝の部分。


 黒いもや、オーロラのようなものが、いくつかぐねぐねと動いている。


 幻想的なイメージよりも、生き物……

 理科の時間に顕微鏡でも覗いているような気分だ。

 あんまりいい気持ちにはならない。

 この世界という日常に取り残された、非日常のか弱さすら感じる。

 その身をくねらせながら、やがて煙を吐くように霧散した。

 かすかな輝きとともに空気中に混じり、もうどこにいたかも分からない。


 胸が痛む。手を添えてじっと耐える。

 なんでだろう? 身を切られるような悲しさでいっぱいになる。分からないが……もしこれが向こうの時間稼ぎのうちに入っているのなら、成功しているよ。現に動けないほど辛いからな。


 すぐそばの角に息をひそめて隠れてでもしていない限り、私を《印》で攻撃した奴は、もうこの場からは逃げおおせている。どちらに転んでも追跡を振り切れる算段はできていて、ものの見事にこっちはしてやられたってわけだ。


 でも、生きている。

 この日常にしがみつくように残った。

 私が疑いを持つ者を、一人ずつ順番に話を聞いて回る。

 どんな『嘘』も心を覗くことが出来るなら意味のない、有益な判断材料だ。

 私を消そうとした者も明らかにする。目指す手がかりは掴みとり離さない。


「消した人たちは返してもらう。必ず私がさせる」


 こんな魔法みたいなことは、犯罪として証明できっこない。

 ……未羽やつぐみ、陽菜がいれば私を止めるだろう。


 でも三人はもういない。







 *  *







「お待たせしました。マツキさん」

「……なんだったんだ? さっきの電話は」

「私の勘違いだったようです。すみませんでした」


 家に私がいた痕跡を可能な限り消した後、合流して車に乗り込んだ。

 警察に調べられるのは時間の無駄でしかないからな。

 網戸の大穴とかはそのままになっているし、

 人を消せる者たちには無駄な工作だろうけど。


「つぐみのパパから、色々な話を聞けました。……聞きたいですか?」

「ん、ああ頼む」


 つぐみの父が言っていたことを、包み隠さず話した。

 本人が消えたことは言っていないが、説明しても仕方ないので省略してある。


 ……日野陽菜のフリをして話すのは簡単だった。

 本人の身体や声、記憶を持っているし、どうやら演技に関しては並みの人間よりよほど陽菜は優れているらしい。書きなれた字を連ねるように淀みなく陽菜になり切れる。肝心の性格は向かないが、大した悪女になれる未来が……あったかもしれない。


 昨日、つぐみの父からの電話を取ったのは私だ。それを陽菜は憶えてはいまいが、意識が抜け落ちている時があったのは分かると思う。

 《印》の、そして呪いの進行。

いくつかの段階を経て私と陽菜はパズルのように入れ替わった。

 

 私は誰か?

 どこからこうなったのか、そこまで興味はない。

 この人格が陽菜由来の別人格でも、《印》からの何かでも構わない。

 未羽とつぐみを、この身体と再会させる。

 それだけは決めた。


「つぐみの変化は気になるが、部屋を散らかしてどっか行ってるんじゃな……」

「すみません。あまり役に立てず」

「いや、そんなことは無い。だいぶ色々と分かった。大収穫だよ」


『嘘はついていない』


 気を使っているわけでもなく、純粋に日野陽菜を心配しているのが分かる。

 そしてどうやら私たちと同じくらい、十年前に消えた仲間のことも気がかりのようだ。なぜ消えたのか、分かるのなら知りたいってことだろう。

 首を突っ込むのは結構だが、真相を深く知る前に消えないといいが。優先順位からは大分後回しだが、助けられる範囲で助けてやるとしよう。

 エサにするのはできる限り避けたいと思う。

 ……陽菜とつぐみのお気に入りだからなこいつは。


「それなら良かったです……また明日から、舞台で頑張りますね!」

「ああ。みんなのアドバイスを聞くといい。楽しみにしてる」







 *  *







 陽菜の部屋で、十年前の『第九』のDVDを流して観ている。

 テレビが要らない小型のプレーヤーが家にあると知っていたので都合が良い。


 松木アキラから借りた台本を、劇の流れと一緒にめくっていく。

 この台本は、書き込みがすごい。

 舞台の立ち位置、登退場の動きに始まって、誰かのダメ出しや曲のキッカケ、舞台上で気付いた事、表現の出し方、ありとあらゆるものが書いてある。ここまで加筆してあるものは、陽菜の記憶でも探せないほどだ。


 しかし、松木アキラのものではない。これは主役の台本だ。マーカーや書き込み方で分かる。……表紙が破られていて、団員の名前は見れない。

 十年前の映像では、主役の『芦田ひかり』がクライマックスに近い場面で熱演している。23時間前に代役が決まったとは思えない、堂々とした演技だ。ずっと演劇を続けていれば、松木アキラに並び立つとまでは言わないが、女優として活躍する未来もあったかもしれない。


「でも、違うな」


 この台本の持ち主が目指す表現と、芦田ひかりの表現にはズレがある。

 となると本来の主役が使っていた台本。……十年前、行方不明になった団員の。


 明日は小屋入りだ。参考になるものは多い方がいい。

 陽菜のかわりに未羽の代役を務める必要がある。誰でもない私が、この身体と記憶を使っている以上は役目を果たす。友だちと会うんだ。――私が誰であっても。




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