第1話 プロローグ 光彩




「あの!」


 声を掛けられて、両足で立っていることに気付いた。

 妙な浮遊感が少しずつ抜けていく。額から汗が滲んでいたらしい。


「あのですね! 私、知ってるんです。緊張した気持ちの消し方を」


 スポットライトが当たってる訳でもないのに、視界に映るものが白い。

 見慣れているはずの顔も、距離感が掴めず別人のように思える。


「いいですか、行きますよ! まず手のひらに人という字を三回書くんです」


 人、人、人です! と手に書く指先。いやに真剣な眼差し。

 どこかおどけているような仕草に、ふっと肩の力が抜けた。

 周りのみんなも同じようで、張り詰めていた空気がゆっくりと緩んでいく。


 暑くはない。ちょうどいい暖かさ。強張っていた両手を軽く動かす。

 ――何人かは言われたままに人という字を書いたりしている。


「それを、こうペロッとなめるか、なめる真似をですね……人によっては息を優しく吹き掛けてあげる、なんて方法もあるそうです」


 地域とかによるかもですと言葉を結び、その舌で手のひらを薄くなぞった。

 舌から唇、指から腕、背景。舞台袖前の下手通路に、いつもの色が戻ってくる。

 コンクリートむき出しの通路に沿う長机。

 その壁に掛かる連絡版には、よく見れば先輩たちや舞台に携わる人たちからのアドバイスが、いくつも書き殴られている。


「そうすると……はい! す、すっかり緊張が解けて、いつもの演技ができます。おまじないってやつですが、これでみんなばっちり行けますよ完璧です!」


 誰よりも緊張してるのに、緊張していないとうそぶく拙い演技。

 みんなを和ませるための必要以上におどけた仕草。

 平常心をどうやって取り戻していたか全員が思い出しているときに、

 足先と語尾の震えを懸命に止めながら、この端役はあえて一芝居を打った。


 劇の配役は、全てが実力だけで決まる。少なくてもここではそうだ。

 そこには余計なものは混じらない。シビアで、ある意味分かりやすい世界。

 お互いに『役』と言う限られた席を競い、高め合う関係。

 仲が悪いわけじゃない。

 でも、みんなのために芝居を打つなんて発想は誰も思いつきもしなかった。


「えっと、あの、袖に行く前に誰かびしっと一言……」


 どこからも返事がない。

 それぞれが一歩踏み出し、個々に舞台袖へ向かっていく。

 誰かは戸惑う端役に短く言葉を交わし、誰かは頭をなでたかも知れない。

 一目見るだけの人もいたし、肩を軽くたたく人もいた。


 それから初舞台が終わるまでのことは、はっきりとは思い出せない。

 大人は誰も声をかけず見守っていたこと。

 青くて薄い袖明かり。開演前のベル。

 やがて床の蓄光テープも見えなくなる真っ暗闇の中。


 不安と期待で震える誰かが、小さく笑ったように感じた。




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