第14話 西原ちはやの苦悩1
入ってみて何か変わったか。
ちはやちゃんはこちらに眼を向けないまま優しく語りかけた。
正直予想もしていなかった質問に俺はすぐに言葉を返せなかった。
当たり前だ。急に問われたところで自分ですら分からない感情をどうやって言葉に出来ようか。
しかし、思うところが何もないわけではない。
確かに俺は何かの感情を抱いている。
たとえばなんだ、うるさいはずなのにうるさくないとか、居心地はさほど悪くないとか。感情は少しずつではあるが表に出てくる。
そしてようやく、ポツリポツリとだがそれを言葉にすることが出来た。
「...いや、よく分からないです。ただ、あそこにいること自体は全然苦でも何でもないんです。むしろあそこまで改造されてたら文句もないでしょう。」
「ははっ、責任者はいったい誰なんだろうなぁ。」
「あんたでしょ...。んで、雰囲気?なんてのは多分、言葉には出来ないです。さっきから言ってますけど、自分が一番分からないんですから。」
「それもそうだな...っと、青信号か。」
話の途中で信号が赤から青に変わる。それに伴い一台のスポーツカーはまた速度を上げていった。
しかし、会話は止まらない。いや、中途半端な以上、容易には止められない。
「んじゃあ、古市のほうについて聞こうか。なに、君のことだ。思うことはあるんだろ?」
「それは...そうですね。」
一瞬ばかりためらった。この前本人に感情についてどうしたいか聞いたこと、その真意を聞いたこと。
もちろん、簡単に言い出せなかったのは全て俺の心が臆病だからという訳ではない。
ここにはいない本人への配慮が、勝手に働いていたのだ。
...多分、そうなのだろう。
「俺は一番最初に、ち...先生に聞きました。あの古市が何でって。それで先生は言いましたね、感情が顔に出ないと、表情で表せないと。」
「ああ、言ったなそんなこと。」
「それで、この前土曜、町でばったり会ったときに聞いたんです、古市に。自分はどうしたいか、どうありたいか。」
するとちはやちゃんは左手をハンドルから離して頭に当て、がっくりうなだれた。
「...はぁ。やはり君を特監生にしてよかったと思うよ。」
それはどんな声音だっただろうか。喜びでもなく、怒りでもなく、ため息同様の呆れかと言えばそうでもない。
今の俺には、理解できない感情だ。
「君の心はあまりにも素直すぎる。...いや、素直というよりかは単純だ。安直だ。きっと君は、...いや、答えを教えてしまっては特監生の意味がないな。」
ふとバックミラーにちはやちゃんの顔が映った。
その顔は先ほどとは違い、どこか優しさ、憂いを感じた。
「なんですか、いろいろと言いかけて...。」
「いや、なんでもないんだ。ただね、これだけは言える。」
先生は強い意志を持って次の言葉を放った。
「君は思ったより大分重症なんだ。これはきっと、特監生の中でも指折りの逸材だな。」
「なんすかそれ、ほめ言葉?」
「自分で考えろ。」
投げやりな答えに俺は頭を悩ませた。
そして、こんがらがった情報を整理するために一度特監生の定義を確かめた。
...確か、理由、内容はどうあれ問題児を特別監視生徒にする。
だったはずだ。そして俺の問題は正義感による暴力沙汰...。
...あれ?
そう、気づいてしまった。
俺はいつから正義を名乗っていた?と。
しかもそれが、正義と呼べるものかすら分からないものなのに。
しかし、そこから先が何も浮かばない。
ただひたすらにこれまでの自分を振り返ってみても、答えは一つだった。
何も分からない。
そんな感情は次第に表情にも表れる。こんなことを考えているのに当然明るい顔が出来るわけでもない。きっと不細工と呼ぶに等しい顔だろう。
そんな風に悩んでいる俺に、ちはやちゃんは再び語りかけた。
「今、何が問題なのか悩んでるな?」
「...あ、そりゃあ...はい。」
ちはやちゃんはただ前だけ見すえて意気揚々と語り出す。
「それでいいんだよ。沢山悩んで、悩みまくって、結局皆答えを出すんだ。特監生ってのはそんなもんだからな。」
「それは...、何が根拠ですか?」
「長年のカンだよ。私はもうずいぶんと特監生を見てきたからね。どんな感じで問題があって、結局どこに行き着くのか、少しは知ってるつもりだよ。」
ちはやちゃんは一歩間違えば自分が歳をとっているアピールに等しい言葉を残した。
けれど今の俺にはそんな風に人の言葉をネタに解釈するほどの考えはなかった。
ただ今は、目の前の言葉の一つ一つが身にしみる。
「ま、とはいえノーヒントってのは難しい。だから君にヒントを与えよう。」
「はぁ。」
「問題児の行動は、その理念によって起こるものだ。かといって、自分の心を押し殺して過ごすなんてのは実質不正解だ。生きたいように生きろ。ただし、それは自分のまとまった思考が乗っかった上での話しだがね。」
「...自分の思考が捻じ曲がってしまっている場合は?」
「間違えば一つ選択肢をつぶして、また間違えたらつぶす。そうやって残ったものが答えなんじゃないのか?」
「...考えてみます。」
「急がなくてもいいからな。ゆっくりでいい。そのための特監生だからな。」
ちはやちゃんは優しく語りかける。
声音だけではない。そのセリフの一つ一つが柔かく、自分の中に入ってくる。
それが果たしてヒントになっていたのかは、俺は知らない。
けれど今の言葉だけは忘れまいと俺は目を閉じた。
---
車は走る。
走り続けて15分。
...あれ?この車どこ向かってんの?
まさか。
「...なあ、西原先生。買い出しに出るって言ったの、いつだっけ。」
「25分前だね。」
「この車に俺が乗ったのは...。」
「...15分前だね。」
「もうひとつ聞いていいか?...当初の目的どこ行った?」
「...君のようなカンのいいガキは嫌いだよ。」
ちはやちゃんはどうやら最初の俺のセリフでネタが分かったらしく、ノリノリで会話を続けていた。
というかやっぱりな!
絶対何かあると思ったんだよ。買い出しって言って何を買うのかも濁してたし、上からって言っても明確化されてなかったし。
「んで本当にこの車どこ向かってるんですか。てか、もう高校から5kmくらい離れてません?」
「そんなもんだな。まあ、ちゃんと目指してる場所はある。けど、君を連れ出したかったのが理由だからな。今回のドライブは。」
「はあ...、ありがとうございます?」
それは喜ぶべきことなのか...まあ、別にまんざらでもないので悪いことは言わないけど。
「それで、せっかくだ。私の昔の話でもしようか。」
「20年前ほどのですか?」
「...帰ったら脳天に穴あくと思え?」
「すんません。」
一瞬、ハンドルを持つ左手がびきびき言った気がした。やばい、握力どれくらいなんだろう。ゴリラかな?
「まあ、私が高校生だった時の話だよ。」
「先生は...皐ヶ丘だったんですか?」
「まぁな。そして、初代特監生でもある。」
「へー...。...へ?」
納得したように思えたが、実は出来ていなかった。
この人が、特監生だった...?
その事実は余りにも急すぎて俺は呆然とした。
ちはやちゃんは少し垂れ下がってきた右の髪をフッと払い除けて続けた。
「私も当時はだいぶ問題児だったらしいぞ?最も、あのころを知る先生がもう誰一人もいないがな。...今思えば結構懐かしいなぁ。」
1人でしみじみと思い出を懐かしみ、あの頃はよかったなぁ...と頬杖をつきながら車を回す先生は、本当に年齢を多く見積ってしまうくらい大人びていた。
「その頃から、部屋はあそこだったんですか?」
「おー、そうそう。校舎の建て代わりの時期でな、先にできた新しい部室棟に部活が移ったあたりで、さあどうしようかとなった所で特監生のシステムができたんだよ。そこに私というピースがハマった訳だ。」
「なるほど。...ところで、先生はどんな人だったんです?」
ちはやちゃんは「あー...」とだけ言って苦い顔を浮かべた。
「言えるわけないだろう。本当に、君と向洋と古市を足しても届くかどうか分からない、それくらい荒れてたからな。そんな高校生活、流石に口が裂けても言えないだろう?」
「そう言われるとますます気になるんですけどね。」
「...やめやめ!この話はなしだ!とりあえずあと2分程度でつくから寝とけ!」
俺は微笑して自分の願望を吐いた。が、やはり人には絶対的なラインがある。
残念ながらちはやちゃんは詳しく話すつもりはなくなったようだ。
俺はそれに内心がっかりして言われるがままに目をつぶる。
...あれ、一つ何か忘れてるな。
「...いや、マジでどこ行くんですか?」
---
結局のところ、連れて行かれたのは会員制の大型スーパーマーケットだった。
そこでまあ様々なものをあれもこれもと買い込むちはやちゃんの姿を見て、独身女性の姿が恐ろしいと思ったが、俺もああいう風になるのかなと考えると笑おうにも笑えなかった。
そして今は帰りの車内だ。
窓から差し込む西日はサンバイザーなんて余裕で通り越して目の中にしっかりと入り込む。俺はそのまぶしさに少し目を細めながら、一瞬で変わってしまう窓の外の景色をただ眺めていた。
「...やっぱり会話の相手いないと暇だなー。須波、付き合え。」
ちはやちゃんはフロントガラスの向こうの景色を眺めたままボソッとつぶやく。
...でもさ、名指しされてるならそれって独り言とは言えなくない?
仕方がないので俺はそのお話に付き合うことにした。てかこの人普段どんだけ寂しいんだよ。
「付き合えって言われても...今度は何を話せばいいんですか。もう何もないっすよ。」
「おいおい、大人社会は話したくない状況でも絶対に声を出さなきゃいけない状況だってあるんだぞ?」
「うわー...また知りたくもないことを...。」
高校生のうちから大人はこうだぞ、大人は辛いぞと聞かされて高校生が考えるのはだいたい2パターン。
大人になるのが鬱に感じるか、それでも大人になることに願望を持つかの二択である。まあ、俺の話をすれば前者であるが。
「まあ、今私が言わなかったら自分で身を持って痛感するだけだからな。むしろ今知れたことに感謝すべきだぞ?」
「それを知ったところでよっしゃ大人になろうと思う奴の気が知れませんね。」
「逃げても結局最後には大人になることも覚えとけ。」
「あぁ...そっすね。」
先の未来を考えてもあまり良いビジョンは見えない。ましてや俺の場合良い方面での特徴なんて一つもない。そう考えればまた未来は暗く、俺ははぁ、とため息をついて肩をすくめた。
そうして、そんな気分を変えようと俺は無理やり話をそらした。
「そういえば先生、今日結構色々なもの買いましたね。...主に酒、酒、つまみ、酒、それと食料ですか。」
「そりゃ、こんなところに行く機会はあまりないしな。休日も割りと時間がないわけだし。ま、当初学校から買ってきてほしいといわれてきたものは買ってるからな。あとは自分の時間に使ったって文句は言われないだろ。あと酒は常備水だからな?買わないと、飲まないと死んでしまうだろ?」
「完全にアル中だこの人...。」
いや、そうドヤ顔でグッドサイン作られても未成年からすればそれは反応に困るんだよ。飲ませたら一発で上に訴えようかな。
そうして絶句してる俺なんか気にせず、ちはやちゃんは話を続ける。
「...それにまあ、私は見ての通り独身女性だからな。こうやってずぼらな生活をしてても文句を言ってくるやつなんていないわけだ。...これ、完全に悪循環?」
はっとしてちはやちゃんは確認してくるが、それが悪循環じゃない理由がどこにあろうか。俺は呆れて今日何度目かのため息をつく。
「そりゃ、パートナーがいない、その代わりに自由な生活、それによってまたパートナーが遠くなっていくってどう考えても悪循環でしょう。...最も、たかが生活一つ変えたところで男性が振り向くかっていわれても怪しいんですけどね。」
「ははっ、そうだよな...。」
ちはやちゃんはがっくし項垂れる。あぁ、泣かないで...。
そういえばさっき女性の結婚論について陽太と話したな。その時何の話になったっけ?
確か...整理整頓、掃除の話だったか。
...そうだ、家事が出来るかどうかって重要じゃないかな。
「そうだ先生、先生って何か得意なことありますか?」
「...え?えーっと...七対一と一孟口...。」
「誰が麻雀の話って言いましたか。家事ですよ家事。」
だめだ、さっき自分で悪いポイント言っていながら自分で傷ついて心がどこか行ってる。あんたメンタル弱くない?
するとちはやちゃんは一段と肩を落とした。
あっ...地雷だわこれ。
「家事...家事かぁ...。掃除は出来ないだろ?料理もろくなのは作れないし私生活はこんなだし...。ははっ、殺してくれ。」
「...なんかすいません。」
ちはやちゃんは数秒落ち込んでいたが、ふとした瞬間バッと勢いよく顔を上げた。
「あっ!でもあれだぞ!手抜きで料理作るのは得意だ!というかこれ!本当に一人暮らしになると必要だからな!ほんとに!」
「あー...分かりました。」
いよいよこの人が残念に思える。
確かにそのスキルは強いんだよ。強いけど、パートナーが出来てしまえば使えないんだ。というか、本当に悪循環...。
「なんか言ったか?」
「何も言ってないですよ。それより、着きましたよ。」
「おぉ、そうみたいだな。」
雑談をしていれば意外と時間も速く過ぎるもので、気がつけば最初の駐車場についていた。
下校まではまだ30分。この時間ならまだ帰れないだろう。
俺は車から降りると真っ先に部屋に戻ろうとした。が、ちはやちゃんによってそれは止められた。
肩をガッとつかまれ、無言のまま酒が入ってるビニール袋を手渡される。
その行為が何を意味しているのかを知っている俺はこくりと一回頷くほかなかった。
しかも目には若干殺意がこもっている。多分これはいつか一本ずつ並べるいたずらをやったせいだろう。
やれやれと首を振って袋を受け取る。ずしりと重さが手から体へと伝わり微妙に心地悪い。
というか俺が酒持ってるの学校で見つかったらやばいよね、何考えてんの。
しかしそれでもお互いに言葉はない。俺はちはやちゃんに背を向けて今度こそ歩き出した。
今日は冷めた話が多かった気がする。それでも胸のどこかが温まってるのは、問題児である俺にも十分伝わった。
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