第9話 他が為の感情


どこか平たい調子で、でもしっかりと芯の通っている声に俺は思わず足を止めた。

どくんっ、と心臓が一回強く鼓動を打つ。

特に改まった話をされるはずでもないと分かっていながら、どうも心が落ち着かない。ほんと嫌になってしまうくらいだ。

しかし、動揺ならさっき十分なほどした。うぶなのはもういいだろう。


だから、俺はいつもの調子というのだけ意識して、振り向かないままなんとなくなぜとめられたのかを聞き返した。

「おう、どした?」

「...あれ、なんで私止めたんだろう。特に何も話すこと、考えてなかったのに。」


しかし、その答えは当の本人が一番分からなかったようで、古市はどうしたものかとうーんと首をかしげた。

その様子に俺は呆れを含んだ微笑を浮かべた。

そして思う。やっぱりな、と。


けれど、おかげで心のどこかでつっかえになっていた緊張が解けた気がした。

最も今はもう、お互い帰ろうとしてる寸前なのだが。


「...お前らしいや。まあ、話すことがないならそれで...。」

それで...


そこで俺は言葉を止めた。そしてそのまま次の言葉に悩む。

とりあえず当てのないままどうしようもなく古市のほうを振り向く。

古市ははてなめいた顔をただひたすらにこちらに向けるだけだ。俺の視線はそんな古市の視線とぶつかった。


今の俺の表情はどうだろう。冴えない顔をしていないだろうか。

そう思える理由は簡単。もう一度機会が与えられたからだ。


それは、その感情はなぜ、表に表れないのか、という先ほど聞くことのできなかった質問をもう一度聞くことができるかもしれない機会。


それに、こう目があってしまうと、じゃあな、なんてもう一度は切り出せない。

できたてほやほやのカップルにも今の俺たちのような現象が起こるのではないだろうか?

そろそろ帰らなきゃいけないはずなのに、雰囲気がそれを許さない、みたいな。


...よくある展開だよほんと。だからこそ、そんなありきたりに少し苛立つ。

しかし、そんな現状は変えることはできない。どちらかが何か動き出さなければもう数分はこのままなんだろう。


だから、こんどこそ俺は聞くのだ。


そこに足を踏み入れるという確かな覚悟を持って。

「...なぁ、古市。こっちも話したいこと、あったんだ。」

「何。」


傍から見れば無愛想な顔、内面には何かを必ず秘めてあるであろう顔、その顔はずっと俺を見つめ続けて離れなかった。その分、俺も言葉に詰まりかける。


「あ、えと...。失礼なことになるかもしれないけど、聞いていいか?」

今度は言葉の一つもなく、ただ一度首を縦に振った。

そのGOサインを見逃さなかった俺はついに本題を尋ねた。



「お前...感情が顔に出ないのか?」



古市は驚いていた。もちろん表情が変わったわけではない。だが確かに驚いていると確証をもって言える。

なぜならその艶めいた唇は少し震えていたから。


さて、切り裂いた静寂は言葉が消えてしまうとすぐにふさがってしまうというのを俺は知っている。だから、次の言葉は考える前よりもう口に出ていた。


「こんなこと聞くの失礼だって、分かってる。けどさ、どうしても聞きたかった。なんでそんなに表情が変わらないのか。自分でそう意識してるのか、それともできないのか、知りたかったんだ。」

「...それは。」


古市は細々と口を開いた。


ああ、失礼だ。本当に最低だ。そこまでかかわって数日も経たないような人に、なぜ俺は心を深く抉るようなことを聞いたのか。

しかし、世界は結果論。過去に戻ることができない以上、俺はもうあとには引き戻せない。


そんな葛藤のさ中、古市はさっきの言葉の続きをはっきりと言った。

「それは...なんのため?」


そう言った瞳の焦点ははっきりと定まっていた。ただ真っ直ぐ、気を抜けば心臓を貫かれるかもしれないくらいの視線が俺に刺さる。

しかし、そこに怒りは感じなかった。それと、他の感情も。


なんのため、と聞かれたら正直返答に困る。

少なくとも誰かに頼まれていたわけじゃない。言えば陽太には変に関わらないほうがいいと言われているまである。

でも、そうまで言われてなぜ俺は聞いたのか。


そんな難しい答えなんてない。

結局はただの自己満足だ。

多分今の俺はエゴにまみれているだろう。なんせ、自分の欲望のために他人に傷をつけている訳だから。

それでどうなるか想像もしてなかったくせに。


「...さぁな。聞いてしまった上で言うのもなんだがおそらくただの自己満足だろう...。ただな、もう一つ言えることもある。」


そう、少なくとも俺とこいつの間には、もう関係が出来上がってしまっている。

同じ境遇のメンバーとして、もしそれに困っているってんなら、助けたいと思って何が悪いのだろうか。


だから俺は聞いたんだ。そうだ。きっとそうだ。

そうであると信じなければ、俺は最低の人間に成り下がってしまう、そう感じてしまったら。

だから。


「もしお前がそれで困ってるってんなら、同じ場所にいるものとして助けたいと思ってしまうんだよ。もう、赤の他人じゃねーんだ。だから...」

「...うん、なるほど。」


俺の不器用すぎる説明を聞いた古市は二度ほどうんうんと頷いた。

それにはどんな意図があったかは知らない。けれど、その行為を見た瞬間今まで以上に足を踏み入れてしまったことへの後悔が心の奥底から沸いてきた。


しかしそれはなぜ聞いたのか、という事への後悔ではない。

もう後に引けないという結果を生んでしまったことへの後悔。


今回聞いたことで古市は俺に対しての見方を変えるだろう。

そしてそれは必ず好印象、というわけではない。むしろ今回の案件ではマイナスに傾く可能性のほうが高いのではないだろうか?

加えて、もうひとつ懸念すべきところがある。


それは紛れもない、俺に事前に忠告をくれた陽太についてだ。

あいつはきっと気にすんなといって明るくスルーするだろう。

けれど、内心から綺麗さっぱり忘れれる人間なんてどこにもいない。

そして、そんな感情が心の中に残っている限り、人間は自分の意識しないどこかでだんだんと付き合い方を変えていくのだ。


あいつの場合それが起こる確率は常人に比べて低いだろうが、何をやってもよく思われるなんてことはない。流石にあいつも人間だ。


そんな後悔がずっと体の中でぐるぐる回っていた俺は次第に動揺というよりかは極度の不安に駆られていた。


どうしようか?今ならまだ引き返せる?

「やっぱなんでもない」と言ったところで何か変わる?

俺は何をすればいい?


考えれば考えるだけ負の思考が頭の中を過ぎる。それにいらいらして頭を掻いてみるがやっぱり意味はない。


そんなことをしてれば時間も過ぎるわけで、一瞬遠くで目に入った自転車の通行人はとっくに俺の横を通り過ぎていた。


そんなに時間があれば、向こうも意見が固まる。

一度そらした瞳をもう一度向けたときにはもう迷いのない瞳だった。

そんな瞳のまま、古市はぽつりぽつりと語り始めた。

「...自分で感情を隠そう、なんて思ったことは、一度も、ない。昔の話は、あまりしたくない、けど、昔のせいで今こうなってるのは、伝える。」


だんだんと弱くなっていく声を聞いて俺はやっぱり傷に触れてしまったんだなとどこかで再確認した。

けれど、古市が俺にその真意を教えてくれたことには感謝せずにはいられなかった。


俺は少しだけ余裕を取り戻す。この感じだとどうやら会話もできそうなのでやってみることにする。

「つまりそうなったのは過去のせい、...ってことか。あるよな、そういうこと。これまで生きてきた人生の中で起こったことが今の自分を作る、ってのは俺だってそうだから。お前の言いたいことはちゃんと理解できる。」


本当に理解しているかなんて俺は知らない。

ひょっとしたら今の発言が地雷だったかもしれないが、俺という存在はかまわず前へと前進した。


「...悪いな、こんなこと聞いて。それでも、お前がそうやって生きてることが息苦しくないか聞きたかったんだ。心の傷を上から攻撃したなら悪い。ただ、最後にもう一つ聞いておきたいことがある。...いいか?」


古市はさっき同様首を縦に振った。けれど、その振りようはさっきよりも少し力強かった。

「お前は、感情が表情に表れないまま生きるのが、苦じゃないか?表情に出てほしいか?」


古市は無言のまま下を向いた。そのしぐさからは今の俺ではもう何も考えれない。

だからゆっくり答えを待つ。

そう思うとやはり余裕もかなり大きく、俺は心のそこから一つ息をついた。


言いたい事は言った。


ただの自己満足に過ぎない行為だが、何もできないまま終わる前に行動を起こせたことを考えると、幾ばくかの満足感を得ることができた。


そして、長いこと下を向いていた古市もようやく顔を上げた。

「息苦しいことは、ない。けれど、表情豊か...まで行かなくても、ちゃんと笑ってること、怒ってることを相手には伝えたい。」

「それが心境か。...ありがとう、ちゃんと最後まで聞いてくれて。」

「ううん。私もずっと、思ってたから、こうやって誰かに悩みを打ち明けたかったから。だから、ありがとう。呼び止めてくれたこと。」

古市は軽くぺこりと頭を下げた。


とんでもない、感謝なんて。俺はただ...。


...いや、言わないでおこう。どうせこれも、中途半端な正義感の成れの果てなんだから。


少しだけ脳裏に浮かんだ正義感という言葉をぶんぶんと首を横に振ってどこかあるであろう無へ返す。

そして、先ほど古市が付け加え損ねていたであろう言葉を俺は補填する。

「ただ、何かしてくれとは思ってない、そうだろ?」

「...うん。今のままで十分だから。」

「そうか。そうならもう聞くことは何もねえな。...悪い。呼び止めて。じゃあ俺帰るわ。」


返事を待たずに俺はクルッと後ろへ向きなおし、駅の方面へと歩き出した。

返事を待ってしまえば、またずるずると引きずってしまうだろうから。

だから話を切るにはここしかなかった。


それがどんなにかっこ悪くても、これが最善の手なんだ。




---



人混みでかえっている商店街を歩いていく。

振り返り、古市の姿が見えなくなったところで俺は足を止め、脇のほうへ移動した。

そして心から一つ大きなため息をつく。


それは自分の行為へ呆れたわけでも、何かの重圧から開放されたわけでもない。

ただ何かたまっていたものがなくなった、そんな感じだ。

吹いてくる風は春の昼間だというのに少し肌寒いと感じれた。きっとそれは俺だけかもしれないが。

そうしてさっきの自分を振り返る。



本当に首を突っ込んでしまった。

そして、答えは想像通りだった。

それこそ、聞いた後でいかに陽太が周りを見ることに優れているのかが分かった。

あいつは自然にさせれば良いと言った。


その通りだった。


事前にあいつから聞いていた古市の人物像は本当にそのままで、だからこそ聞く意味なんてなかったのに。

俺は信じられなかった。そうまではいかなくても、ちゃんと本人の口から真意を聞くことで安心したかったのだろう。

しかし、それは信を裏切ることになることには今更になって気づいた。


さっき懸念したことは、必ず起こる。


ただでさえ友人が少ないってのに、これ以上失敗を重ねてどうするんだろうな...。

こんな弱気で、何を正義に生きていけるんだろう。



そうしてまたため息をつく。

しかしそんなことをしても再びできてしまったつっかえは取れない。結局は変われないのだから。


しかたない。帰って小説でも読もう。土日はやっぱりそうでないと始まらない。

そう思って俺は人ごみの中へと再び足を踏み入れる。


が、しかし。










「せんぱーい!遊びましょー!」

「は...?ぶはぁ!!?」

そんな俺の身体は小柄な少女による後ろからの猛烈なタックルで前に吹っ飛んでしまった。






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