ある画家について

 ボモヨ・カペローニは若手の画家だった。

 幼い頃両親に連れられた美術館で見た絵画の、あの強烈な色彩と健全で淫靡な曲線が、ナポリの広告業の子として生まれたボモヨをこの道に引き摺り込んだ。

 ボモヨの作風は印象派とポップアートを足して宗教画で割った独自のもので、ボモヨは新カペローニ派と呼んでおり、ボモヨ以外からは「ガキの落書き」と呼ばれていた。

 ボモヨは十五歳より四年間、ナポリタン・アートスクールで絵画を学んだが、ここで学べる技法では、あの悩ましくも崇高な世界はとても表現できなかった。アートスクールを中退後はパリに渡り、独学で技術を磨いた。その後数々の公募展に出品するも落選、去年首都へ移住してからは、喫茶店の貸しギャラリーにて精力的に作品を発表している。

 新カペローニ派の絵画はあまりに前衛的だったためか、画壇には全く相手にされず、どんなに販売実績のあるギャラリーに展示しても一枚も売れず、その評判の悪さは書き手にまで及び、当然彼を支援するパトロンなど現れるはずもなかった。よって画材を買う金どころか、生活にも困窮する有様だった。

 その上ある陰気な夏の夜、自宅の寝室に恋人のマカロニと見知らぬ誰かの人影が見えた時、ボモヨはもう命を断つしかないとライターを片手に一番目出つ場所を探して街中を彷徨いた。その時、賑やかな街道沿いに一際目を引く虹色が見えた。なんと下劣な色彩だろうと思っていると、同じ紙を持った人々が続々と移動していく。どうにもこのチラシに書かれている場所へ向かっているらしかった。この不潔で最低な印刷物のために、こんなにも多くの人が自分の時間を割いている。僕の絵には見向きもしないのに!

 怒りに駆られたボモヨは、なんか有名だからという理由でしか絵を評価しないアホな連中の目の前で派手に灰になってやろうと決意し、集団の後をつけた。


 辿り着いた先はベッタラシーパークだった。ボモヨはこの場所には何度かスケッチに訪れたことがあったが、集団は見覚えのない白い布の前に集まっていた。

 催し物はもう始まっているようだった。布には画質の粗い、何やら変わった映像が映し出されていた。ハンバーガーが、神秘的な空間を漂っている、荒々しい筆遣いの絵だった。それは新カペローニ派の、ボモヨ・カペローニの絵に違いなかったが、その絵はまだ未完成で、来月初めて公募展に出そうと思っていた新作だったのだ。よく見ると、その絵は画面越しに映されたものだということが分かってきた。

 ボモヨの絵の右側に、臙脂色で五桁の整数が書かれている。整数は瞬く間に桁数を増やし、最終的に一億八千万に落ち着いたと思うと、文字色は灰色へと変わり、その下に大きく落札という文字と、二 X X X年八月十五日という日付が浮かび上がった。

 それは電子競売の映像だった。「聖戦」と名付けられたこの新カペローニ派の絵画には、一億八千万ドルの値がついたことを物語っていた。

 ボモヨには何がどうなっているのか分からなかった。激しい突風も、叩きつけるような雷鳴も、一切感じることなく、ただ浮遊するハンバーガーの、溢れんばかりのパテを見ていた。どれくらいそうしていたのか、いつの間にか映像は終わり、かつて幻燈会の会場だった広場には、人っ子一人いなくなっていた。

 ボモヨはテントを片付けている前歯の異常に長い男に、あれは一体なんだと怒鳴った。無断で新カペローニ派の贋作を作り、オークションに出すのは何事か、と。するとその前歯男はニヤニヤしながら答えた。

「君はボモヨ・カペローニか。これは未来の出来事を受信し、映像化して見せているんだよ。その手に持っているチラシを読まなかったのかね。つまりあれは後日君の絵が認められて高値がついたことを示しているのだ。だから誰かが君の画風を真似したのでもなければ、私のぺてんでもない」

「未来の出来事を映像にだって!ばかを言うな、そんな話信じられるわけがないだろう」

「嘘だと思うなら、今から説明してあげよう」

 ボモヨは未来商会員から、芸術性の欠片もない前歯に挟んだ、数々の数式が書かれた紙を見せられた。P.H.D氏は丁寧にこの数式はこれこれこういうことを証明していて、素粒子がどうの、重力場がどうのと解説をしてくれたが、義務教育を全て絵画に費やしてきたボモヨにはさっぱり分からなかった。しかし難しい数式や専門用語には、なんとなくそれが科学的に証明されているような気になる作用があって、実際ボモヨにも大変有効であった。

「すると、本当に僕の絵が…」

「本当だとも。これはデモンストレーションとして今適当に拾った映像だから、具体的な君の絵が高騰した経緯は分からないがね。追加料金を払えば調べてやることもできるが」

「いや、結構。そんなもの見てる暇があったら、早く作品を完成させなくちゃあ。それに生憎持ち合わせもないしね。どうもありがとう」

 やはり自分には才能があったのだ。これまでは真当なギャラリーの目に触れる機会がなかっただけだ。ようやく新カペローニ派を世に知らしめるときがきたのだ。ボモヨはあの慎ましいアトリエへ一目散に駆け出した。


 ボモヨは生まれて初めて、科学の力は偉大だと実感していた。

 あの幻燈会の後、ボモヨは睡眠時間を削り、一週間かけて作品を完成させた。そしてその翌日、ボモヨは大手自動車メーカーであるヒンダ自動車を訪問した。

 ヒンダ自動車社長は、大の芸術好きで知られていた。社長は芸術愛護家として、芸術の発展のために尽力を惜しまなかった。名品を次世代に伝えるため、社長が収集した絵画コレクション「ヒンダコレクション」を所蔵し、自社所有の美術館で公開していた。しかし、ただ収集するだけでは、コレクションは十分ではなかった。芸術の振興と会社のイメージアップのためには、芸術家の育成も重要だと考えていた。芸術家の育成によって作品を優先的に買うことができるし、自らの芸術愛好家としてのセンスを知らしめることができた。社長も先人たちに倣って可能性のある芸術家を一人選び、資金援助をしようと考えていた。ボモヨが訪ねてきたのは、ちょうどそのような頃だった。

 自分は歴史に残る画家になるから、今この無名のうちに自分の作品を買っておいた方がいい。画才を見出した先見の明のあるコレクターとして名を馳せることができるし、企業のイメージも上がる。さる画家の描いたトランザムの油絵がでかでかと飾られた社長室で、ボモヨは絵を見せながら、社長に金をせびった。

「君は何を言っとるんだ」

 当然ながら社長は眉を潜めた。

「わしは昔っから絵が好きでね、しかし自分で描くのはからっきしだ。だから画家という人種には敬意を払っとるつもりだし、画家であれば誰であれ会ってみることにしている。しかしだよ、君は何を意図してこれを描いたとか、そういう絵の話でなく君自身の話しかしとらんじゃないか。わしはそんなつまらん自分語りに付き合っとる暇はないんだ。だいたいね、歴史に残る画家になるったってね、何を根拠にしとるんだね」

「根拠だったらありますよ。昨日未来幻燈会なんてものがあったのをご存じですか。あれが教えてくれたんです。八月十五日、僕の絵に高値がつく、と」

「ああ、そんな催しがあったみたいだね。地元の新聞には、ベッタラシーパークにアホ現るなんて書かれているようだけれども」

「社長ともあろう方が、新聞記事なんて信じてらっしゃるんですか。あんな虚構のクリエイター軍団より、実際にこの目で見た僕の方が信憑性は高いですよ。それに、ちゃあんと科学的根拠があるんですからね」

「科学的根拠とはなんだね」

「ええ。これには素粒子を利用するんです。ご存知でしょう、素粒子」

 社長はこの件については全くご存知なかったが、こんな若造が知っていることを知らないと公言するのは立場上まずいと思ったので、「ええ、ああ、うん」と答えた。

「その素粒子をですね…まあ詳しくはこちらをお読みいただいて」

 ボモヨが社長に手渡した紙は、P.H.D氏の物理学講座をメモしたものだった。非常に早口だったため断片的にしか書き留められておらず、見るものが見れば何も証明できていない代物だったが、ヒンダ自動車社長には効果は抜群だった。


 このように、ボモヨは美術品のコレクションを行なっている、あらゆる企業や財界人に金を無心に行った。

 ボモヨがとりあえず素粒子と口にすると、初めは半信半疑だった金持ちたちも、例の作用によって理解した気分になったのか、理解していないことを知られないためなのか、彼の過去作品を競うように買い取った。


 ボモヨはこの臨時収入で購入した豪邸の一角に設えたアトリエで、ぬくぬくと絵を描いた。カペローニ邸は海辺を望む丘の上にあって、窓を開ければ気持ちのよい潮風がボモヨの鼻腔をくすぐった。執拗な隙間風に悩まされる、あの貧相なアパートとは大違いだった。寝台のマットレスは硬くないし、共用でない風呂とトイレなど、生まれてこの方見るのは初めてだった。余計なことに悩まされず、製作に集中できるのは素晴らしかった。

 新しい家に移り住んでからすぐの頃、マカロニが頭を下げてもう一度やり直したいと申し出たが、ボモヨは扉を開けることすら許さず、すぐに追い返した。未来への可能性を秘めた画家には、マカロニよりも素晴らしい、新しい恋人が三十人もいるのだ。


 来たる八月十五日、ボモヨは電子競売にいよいよ「聖戦」を出品した。

 ボモヨは、「聖戦」の情報を登録し終えてもなお、一昔前の端末に映された電子競売の画面を見続けていた。「聖戦」に値がつく瞬間を見逃さないためだった。臙脂色の整数は一向に変わらない。ボモヨは楽観的だった、すぐに反応が来るとは思っていないし、八月十五日はまだ十八時間も残っている。しかし、一時間が経ち、二時間経ち、三時間と二十七分経ったところで、臙脂色の整数はいつまで経っても五桁のままだった。ボモヨは焦った、震える指で電子競売のページを開いたり閉じたりした。ずっと監視しているのが却ってよくないのではないかと思い、食事をとったり、新作の下書きを始めたりして時間を潰した。再び「聖戦」の価格を見たが、登録時の状態と何一つ変わっていなかった。時計を見ると十六時、残り八時間であった。心臓がばくんばくんと強く打ち始めた。このまま一銭も上がらないのではないだろうか。そんなはずはなかった、何といっても、現代科学が、素粒子が証明しているのだ。一眠りすれば、その間に少しは反応があるかもしれない。ボモヨは寝台に潜り込んだ。柔らかな枕が今は息苦しかった。寝付けずに一時間に五度画面を確認したが変化はなく、ついに八月十六日になった。「聖戦」は最初に設定した金額と何も変わらなかった。電話が鳴った。ヒンダ自動車の社長だった。

「これはどういうことだね。出品した作品が高騰するんじゃなかったのかね」

「いやあの、そのはずなんですがなんとも、もっと時間が経ってからかもしれませんが」

「君が自分の作品にそれなりの自信があるから絶対売れるなんて言ったのだと思うが…随分宣伝したそうじゃないか。下手すれば信用問題に発展しかねんぞ。これからどうするんだね」

 社長がそう言い終わらないうちに、ボモヨは電話を切っていた。すぐにまた電話が鳴り始めた。どうするも何も、何も分からなかった。社会的信用を失った時世間一般ではどのような応対をすればよいのかなど、誰にも教わったことなどなかった、教わっていたとしても、絵に打ち込んでいたからまともに聞いていなかったのかもしれなかった。電話は絶えず鳴り響き、脳はどんどん血が引き中心部が空洞になったかのようだった。ドアを激しく叩く音、電話のベル、動悸、怒号、謝罪の言葉、責任の所在、目に入ったライターはボモヨにとって光明であった、暗い室内は明るく照らされ、タンパク質がぶすぶす焼ける匂いがした。


 実は、あの日ボモヨが見たオークションは、ボモヨが炎に身を投じてから数日後のことだった。ボモヨが創作者の苦しみから解放された後、事件の凄惨さが話題になっているのを機に、マカロニが電子競売に作品を出品したのだ。大衆にとって、新カペローニ派の技法や構図などどうでも良かった。ただ、落ちぶれて業火に消えた男の精神状態が知りたかっただけだった。愛したのは異常者が生前描いた絵を、自宅の寝室に飾っている自分だった。海辺のアトリエで恋人たちに囲まれて暮らすただの画家など、なんの面白味もなかったのだ。


 あれから数年が経った。ボモヨ・カペローニは世界でもっとも優れた画家の一人として美術史にその名を刻むこととなった。そしてあの海の見える豪邸で、富豪になったマカロニが、五十人の恋人と微笑みあっていた。

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