十三.わたしのかみさま

宿に入りしばらくしてから、窓の外の霧雨はその激しさを増した。

南の海に浮かぶこの島では珍しくない篠突く雨。

こりゃしばらくやまないね、と借りた部屋に水瓶を運んできてくれた宿屋の女将が窓辺の少女に声をかける。


両開きの窓の前に椅子を持ってきて、リィズはそこから外を眺めていた。

人の姿はない。

者皆雨を避けて建物の中へ避難している。

雨に唄い踊る蛙の亜人の一団が、宿の軒先を通り過ぎていった。

すぐ右手を見遣れば、寝台で横になるドリが居て、時折熱と痛みに喘ぐ。

そんな時は窓から跳ね下り、とたたと側に寄る。


滝のように流れる汗を綿の布で拭う。

血の滲む包帯を取り替える。

頭の下に敷いたテリ麦の殻を詰め込んだ枕を『冷やし直す』。

深く刻まれた眉間のしわをどうにか伸ばせないかとそろそろ撫でて、ほつれた前髪をかき上げる。

呼気が落ち着いてからビア樽の中の水を木匙ですくい、一滴(ひとしずく)、二滴(ふたしずく)、唇の境目に垂らしてやる。

彼は目を閉じたままリィズに比べて大きな舌でそれをべろりと舐め取ると、ふううと大きく息をついて、ま

た気を失う。


既に五度目の繰り返し。

少しの間ドリの様子を見てから、包帯や布を小さな水瓶で洗って、うーんと絞って、部屋の中に張られたロープにかけて干す。

それからまた、とたた、と窓辺に戻る。


丘の上から見た、街の空で交差する布は、よくよく見れば規則性があった。

海に近い高い屋根から低い場所へと

伝うそれは中央に折り目が作ってあり、そこへ流れ込んだ雨が、街のどこかへ集められ、まとまって降り注ぐようになっているらしい。

街の入り口に程近い宿から見上げるリィズにはその終着点がどこだかは分からないが、雨が集まり、大きな雫を作り、つるつると屋根や布を伝って滑っていく様は、退屈だから外に出ようという気にもならない彼女の心を慰めた。


あの高い高い尖ったお屋根の建物は一体何かしらんなどと窓の縁に頬杖をついてとりとめもないことを考える。

神様にお祈りをする所があるという。

街の職人が話し合う所があるという。

海の漁師が魚や海の魔物を売り捌く市場があるという。

旅人が情報を交換したりする場所があるという。

商人が物の価格を調べたりお金の貸し借りをする場所があるという。

そのいずれかなのかも知れないし、そうではないのかも知れないし、見当もつかなかった。


降り続ける雨の音、ない交ぜの不安、知らない街、知らない人、知らない窓辺。

まんじりともせず時を過ごす。




彼女が“オヤジ”に引き取られたのは、両親が死んだからだ。

父親は大日のような煌めく金色の髪をした朗らかな人だった。

母親はリィズと同じ栗色が緩やかに波打つ長い髪で、柔和な笑みを絶やさなかった。

彼女の記憶にはそのように残されている。


無関係のはずが、ユグの抗争に巻き込まれて死んだ。

オヤジと親しくしていたせいで勘違いされたから死んだ。

そう、リィズは聞いている。

物心つくかつかないかという頃の話だ。

それが五年ほど前になる。


実の親と過ごした時間よりもずっと長く、オヤジとドリと一緒に居た。

オヤジを憎いと思ったことはない。

元々知った仲で、よく遊んでくれる両親の友達という位置付けだった。

はじめは新たな居候に馴染もうともしなかった少年のドリだったが、ある時から、手を繋いでくれるようになった。

それがこんな雨の日だったかどうかを彼女は覚えていないが、とにかく、自分が熱を出して倒れたときからだった筈だと少女は記憶している。


オヤジやドリがこんな風に倒れたことは今まで一度もなかった。

世話を焼かれるのはいつだってリィズの方で、それは自分が子供だから仕方がないと思っていた。

けれどもう、オヤジはいない。

オヤジがいなくなって、ドリは一人でもユグで生きていけた筈なのに、足手まといのリィズを伴い、守り、手を繋いでくれている。

だから自分もそうするのだと彼女は思い定めていた。

例えドリが自分を見捨てるときが来たとしてもきっとそうしようと、子供ながらに固く誓った。




(ドリ)


心の中で名を囁く。

ぶっきらぼうで乱暴で大雑把なドリ。

大人も裸足で逃げ出すような怖い顔のドリ。

そのくせとても優しいから、小さな小さな囁き声も拾い上げて、辛い身体を起こしてしまうかもしれない。

汗ばんで力無い手を握る。

骨ばって筋ばって傷だらけのドリの手の触り心地はいい筈もなかったが、リィズは、オヤジのものより肉の薄いその手が、いつからか好きだった。

苦しそうなドリを見るのは嫌だけど、小さな自分でも彼を助けられるのは、とても嬉しくて誇らしいことだった。


(はやく、元気になあれ。)


大きな手を、太く節くれ立った指を、小さな手が痛くないように挟み込み、きゅうっと握る。

神にではなく、青年に祈る。

雨は相変わらず屋根や地面を叩き、川を膨れさせ、大海に流れ出している。

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