十二.火照りと雨

ぽつ。ぽつ。ぽつ。

右手で外套の首元を引き寄せながら空を見上げた少女の額に、雫が落ちる。


「つめたい!」


高い声を上げる。

朝日が差し込んでいた筈の空は薄暗く、大日も小日も、黒雲の向こうに隠れてしまっていた。


手を繋いだ左隣。

所々の傷も癒えぬままに歩き続ける男は、何も言わなかった。

返事の代わりに速める足取り。

ついていくのが精一杯の幼子。

安心して雨をしのげるような場所は見当たらない。

街道沿いに生えた木の下から木の下へとジグザグの縫い目を作る者。

羽織ったマントをひっくり返して駆け出す者。

言葉も交わさぬ揃わぬ歩調の影二つ。


緩い丘を登りきり、立ち止まった。

果たしてなだらかな坂道を下りた向こうに、いくつもの屋根と船、交差しはためく布。

そして、


「わあっ……!」


大きな大きな海が広がっていたのだった。

ナヴァ海峡と、本国との海路を繋ぐ街・ナヴェド。

後はあそこ目掛けて駆け下りればいいだけだ。

リィズはわくわくとドリの手を握り直した。

変に熱い。

震えている。

左隣を見上げる。

外套の下、はあっ、と大きく息をついたドリの顔は不愉快そうで、青白い。

リィズはぎょっとして、


「ドリ、急ご」

「……ああ」


吐息混じりに返事があった。

小さな手が大きな手を引く。

息遣いは荒く、足取りは緩慢で、いつもの彼ではないと子供のリィズでもすぐに分かった。

頭や胸上の傷が熱を出して、悪い働きをしているのかもしれない。

彼女の小さな体躯ではドリを引きずっていくことすら出来ない。

とにかく街に入って屋根のある所へ。

彼女はしっかりと相棒の手を握り締めた。


黒い瞳が、ぼわ、と少女の姿を捉えている。

北の港町・ナヴェドにはしっかりとした石積の門があり、町民持ち回りの門番がおり、その門番達が使う小屋の軒先をリィズが貸してもらったのだ。

血の滲む傷がある上に身体の具合が悪そうな大男を引っ張ってきた少女に二つ返事で場所を貸したひげ面の男は、最寄りの宿への行き方も教えてくれた。


いくつも水滴を落としたようにぼやけた景色を、小さな手に引かれるままに通り過ぎていく。

身体にさあさあと細い雨が浴びせかけられるが、ドリにはどうでもよかった。

寒い。

傷が疼いて熱い。

痛い。


街道は抜けて街に入ったらしい、と働かない頭で思い浮かべているうちに、また屋根の下だ。

目についた筆記具を手に、名の頭文字を記した。

見知らぬ部屋に入った。

外套も服も脱いだ。

リィズにそうしろと言われたからそうした。


視界に入った寝台には、自ら倒れ込んだ。

視界が暗くなった。

身体を締め付けるものがなくなる。

唇に甘い湿り気。

垂らされた飲み水。

何度も舐め取る内に、訪れた眠気。

青年は抗わず、意識を手放した。




誰かが何か言っている。

ドリの知らない声だ。

男の声だ。

リィズは。


「テメごぶえっ」


目をかっ開き飛び起きて、目の前に居た口髭の男の胸ぐらを掴んで引き寄せたドリの右頬にリィズの拳が入る。

何のダメージにもならない筈のそれを受けた身体は、湯につかりふやけたように力が入らない。


「……ンだ、こりゃ」

「病人は横になあれ」


両肩を押される。

ひゅるひゅると寝台に吸い込まれていく背中。

どう、と仰向けに倒れ込む。

じっとりとかいた汗が不快だった。

ドリはそれでも、少しするとまた眠りに就いた。

男は規則正しく上下し始めた胸板を見て、


「いや、はや。殴られるかと思ったよ」


頭突きをかまそうとしたのだろうとリィズは思ったが、口には出さなかった。

その男はユグのすぐ北の街道をノコノコと歩いていた水袋の男だった。

医者ではなく商人だが、旅の間に得た知見で役立てるかも、と、宿泊する宿に現れた少女に手を貸すことにしたのだ。

大きな弟さんだねえ、とにこにこしながら話しても、ドリはもう飛び掛かっては来なかった。

人が良いだけではなく懲りない性質らしい。


むき出しの傷に悪いものがついて、それが熱を出して、膿を作っている。

というのが商人の男の所見だった。

指示を受けて、まずは清潔な布と水で傷を拭い、それから、火酒を塗った。

細く長く切った布を傷の上に巻いた。

右目がどうにか隠れないように仕上げられたリィズは、ふうと息をついた。


「お金払わなきゃ……」


物資の提供はすべてこの男からだ。

ここまでしてもらってありがとうだけで済む筈がないとリィズは思っていたのでそう口にしたのだが、男は首を振った。


「新しく買った水袋の分だけ代金をもらえれば構わないよ」

「それじゃあ、損にしかならないよ」

「徳を積んだと思えば大変な利益さ」

「とく?」

「神様は善い行いも悪い行いも見て下さっているから、人を助けたり善い行いをして徳というものを積めば、悪いようにはなさらないっていうことだよ」

「徳」

「こういうときには、ありがとうって言うだけで十分なんだよ。本当ならね」

「……ありがとう」

「ええ。どういたしまして」


男は綺麗に整えた口髭をしごきながら、にっこりと人懐っこい微笑みで応えた。

少女には納得がいかなかったが、彼は本当にそれでいいらしかった。

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