三.名も無い村

「ドリ、ドリ、おうち」


街道と呼ぶからには行く先にあるのは人が営み暮らす集落だ。

ユグの北の丘を越えて更に北を目指して歩いていくと、苔むした石積の基礎に木造の家がちらほらと道沿いに現れ始めた。

ないよりははるかにマシな、気休め程度の堀に石垣。


なくてもいいような小さな橋を渡り、自然と村に入った。

こぢんまりとはしているが、旅人や商人に寝床を提供する宿もある。

ドリは何度か仕事の最中に通りすがったことのある村だが、ユグから北へは出掛けたことのないリィズにははじめての場所だった。


このまま北へ北へとひたすら上がっていくとナヴァ海峡が広がり、その先には“本国”がある。

地図でしか見たことのない大陸だ。

人も物も溢れている代わりに決まり事も多く窮屈な所だとは聞いたことがある。

彼らの“オヤジ”はどうしてか本国へリィズを連れていくべきではないと考えていたようだが、ユグから南に逃げても大海が広がるばかりで袋のネズミだ。

木を隠すには森の中。

人から追われているときは、人混みに紛れるに限る。


屋根つきの寝床に飲み水の提供。

逃避行には上等の宿だが、まだ日は高い。

ドリ一人ならこのまま何の感慨もなく通り過ぎるだけだが、今は、リィズがいた。

本国でいうところの“成人”を迎えているらしい彼に比べ小さくて幼い体躯には、三日三晩たゆまず歩み続けるような体力は備わっていない。

金はある程度あるが物々交換な使えるような代物は手持ちがない。

要所で休憩は挟むべきだがひとところに留まり続けるのは望ましくない。

などとないない尽くしの思案をしながら歩いていると、不意に下履きのポケットに入れていた手を引かれた。


「ンだ」


右隣で手を引くリィズが指差す方を見遣る。

何のことはない。

建物の影でうずくまる男。

蹴りつける男。

唾をはきかける男。

腹を抱えて笑う男。


治安の悪い土地に何故住まうのか。

追いやられたからだ。

罪人か、病人か、口減らしか。

犯していない罪に泥を被せられた者もいれば、ユグで生きられるほどの冷徹さを持ち合わせていない小悪党もいる。

要するに中途半端なのだ。


そんな半端者にやられたのか、倒れた男は這いずるように壁を背にしてだらりと手足を投げ出す。

珍しさの欠片もない光景だったが、男の体勢が変わると、リィズの指が動く。

乱れた波打つ茶色い髪。

砂煙に汚れてはいるが、上衣の袖にあしらわれた、滑らかに輝く糸の刺繍。

上位の役人が衣服のどこかしらに必ずつけているとされる意匠だった。


「ドリは組織をやめたんだよね」

「当たり前だろ」

「お役人は“シュレ(こっち)”では無能だけど本国では『ハバヲキカセ』てて強いんでしょ」

「……ああ」


つまりリィズは、自分達の今後を考えれば彼を助けて恩を売りつけろと言いたいわけだ。

この、ふわふわとした容姿に似合わず純粋無垢とはかけ離れたずる賢さを見せる度、オヤジがなんだか嬉しそうに笑っていたのを思い出す。

ーーお前は俺達に似ちまったんだなあ。

一瞬意識がこの場から遠のいたが、持ち直した。

感傷に浸っている場合ではない。


悪い考えではないがあの男の地位も分からないし、それよりも何よりも、ドリは、面倒だった。

お供も連れずにボコボコにされているあの若者がそれほどのお偉いさんにも見受けられない。

確実な利益は見込めない物件だ。

すい、と無視して行こうとするドリだったが、そうは問屋が卸さなかった。


「は?」


思わず声に出た。

リィズがおもむろに外套の頭巾を目深にかぶり顔を隠したかと思うと、道ばたに落ちていたまあまあ大きな石を拾い上げ、役人であろう若者を囲む男達の一人に向けて投げつけたのだ。

まっすぐきれいに放られたそれは一番上背のある男の腕にぶつかった。

三人のチンピラがジロリとこちらを睨み付けてくる。

すう、と大きく息を吸い、


「やーーい!!

 わらわらと群れてねーとケンカにも勝てねーのかよーー、三下どもーー!!」


一文字も聞き漏らすことなどないよう大きな声でそう口汚く罵るリィズに、


「このガキ!!」


と憤ったのは、もちろん、ゴロツキの男どもだけではなかった。

どこかで聞き覚えのある言葉遣いだったことは無視した。

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