二.ふたりの朝

朝日に向かって丘を登っている。

月は沈んで、既に大日が小日を追い立てている所だ。

ユグの街からはまだそれほど離れていない。

浅い丘の頂へ登りきると、眼下に街道が見えた。

数えるほどではあるが、既に人が行き交っている。


「ドリ、水がある」


踏み固められた街道沿いに湧き水がきらりと光った。

通行人がいないのを見計らいリィズが丘を駆け下りる。

背負っていた頭陀袋の中から取り出した何枚かの布切れを冷たい水に浸して、ドリの元へ持ってきた。

黒ずくめの服は外套で隠し、乾いた血を拭う。

眉から頬にかけて走る刀傷が痛い。


「おやおや」


小さな子供がこんなところで一人でどうしたのかと尋ねてきた人の良い商人の男に、気分を悪くした弟が横になっているのだとリィズが伝えると、水袋を貸してくれた。

中身を飲み干してから事情を聴いて、誰が弟だ、ときれいになったばかりの拳でドリがげんこつを落とす。


「ヒェーッ!!」


しばらく後、一人で丘を下ってきた強面の男を見て、健気でかわいらしい小さな女の子を待っていた商人は一目散に来た道を逃げ出していってしまった。

無理もなかった。

悪党どもが蔓延りのさばるユグの街に馴染みきったドリは遠目に見てもいかにもおそろしいし、そんな街の近くの街道には盗賊の噂がひっきりなしなのだ。

後からついてきていたリィズは、あーあ、と声に出して呆れていた。




“オヤジ”が死んだということは、はっきりと伝えてあった。

追っ手がいつ現れるかも分からず危険でしかなくなったねぐらを出ようとする時、いつもは聞き分けのいい子供であるはずのリィズがことのほかぐずった。

死んだら嫌だろうがと乱暴に説き伏せようとしても、オヤジを待つのだと言い張って泣きじゃくって、胸ぐらを掴まれようと一歩も引かなかった。

彼女がようやくドリの言うことを聞いてねぐらを後にしたのは、彼が文字通り発狂したのを見届けてからだった。


オヤジと、リィズと、俺。

三人の家だった。

ただいまとか、おかえりとか、そんな言葉を初めて使った家だった。

もうオヤジがただいまと帰ってくることはないのだし、ならば、おかえりもなしだ。

何年か分の、気付けば数え切れないほどのただいまとかおかえりとかおはようとかおやすみとかの光景が脳裏を駆け巡った。


ーー気付けば、彼ののどはひいひい、ぢいぢいと、無様な音を立てていた。

粗末ながらも体裁を保っていた家がしっちゃかめっちゃかになっていた。

血がにじみぶるぶると震える両拳にリィズがかきついていて、『ドリ。もういこう』と言った。

震えが止まり、熱い指で目元を拭われたような気もしたが、リィズを連れてその場を離れられることで頭がいっぱいになっていたドリは、よく覚えていない。


のろまな餓鬼は無理矢理連れていくに限る。

ドリは息も整えずリィズをその右肩に乱暴に担ぎ上げ(慣れたものだ)、金目のものを詰め込んでおいた麻袋を引ったくり、がくがくと笑う膝を叩き、革の靴で家の扉を蹴飛ばした。

錆びて古びた蝶番が勢いで外れて、割れた扉が吹っ飛ぶ。

いい薪だ。

予め取り決めてあった手筈に従い、リィズが火を放つ。

オヤジの言いつけだった。


燃えていく。

燃えていけ。

もう二度とここに戻ることはできない。

ならば何も残さなくていい。

ぱちぱちときれいな火花を散らし夜の闇に燃え盛りはじめたガラクタを背に駆け出した。

ドリは振り返らなかった。

そこにはもう何もない。

何もないのだ。




「もう見えなくなっちゃった」

「得したな」

「返さなきゃ」

「もらっとけ」

「ドロボウ!」


真反対の意見をぶつけ合い分かり合えずいがみ合う大小の影。


片や撫で付け後ろに流した短く鈍い銀髪。

通った鼻筋、尖った鼻先。

足も腕もぶっとくガタイよく、長身で、眼光鋭くどう贔屓目に見ても悪人面。

片やふわふわと柔らかく豊かな栗色を一つに編んだおさげ髪。

細く小柄な体躯、生気に溢れた眼差し、年相応に子供らしい子供の顔色。


仲良く喧嘩している姿さえ目の当たりにしていなければ、同行二人とは誰も思わない。

ユグの連中に面が割れているのはどちらかといえばドリの方だ。

リィズはオヤジと意見を同じくするような、いわば同胞にしか、名を名乗り姿を見せたことがない。


「おら。きっちりついてってやるからちゃきちゃき前歩けや」

「いや!」


安全面を考慮してのドリの提案をリィズは即却下。

背中をどんと押してきた右腕の隣に回り込みしがみついて離れない。

離れたがらない。


振りほどかれ、コンパスの違いで多少先を行かれても、視界に必ずドリが居るよう動いている。

ドリもそうだった。

リィズの気配を見失わずに済むよう、付かず離れず、己の手足が届く所に在るよう仕向けている。

両人ともに、その程度には互いが大切なものであるようだった。

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