南の蛇と光の娘

@gr_n

一.ふたり

裏切り裏切られて当たり前。

自然の摂理。

当然。

そのはずだった。


男は叫んでいる。

否、吠えている。

何故裏切ったのかと。

何故見捨てたのかと。


少なくともこの街では、欺かれる方が間抜けで、弱くて、悪いのだ。

そう思っていたはずなのに、男の猛りは止まらなかった。

何故、何故、何故、どうして、よりにもよって。

怒りに捻れ狂い暴れ回る感情のままに振るったーーあの男が認めてくれたーー腕で、脚で、その力で。

彼は、彼にとっての裏切り者どもを、散々に屠った。

甘言になど聞く耳持たなかった。


腹の足しにもならなければ何の得にもならず、むしろこれからのことを冷静に考えれば、やってはならないことだった。

息を荒げながらぎょろりと辺りを見回す。

生き物の気配はもうどこにも見当たらない。

目一杯の理性をかき集めて、ありとあらゆるものが破壊された部屋を後にした。


置き去りにすることは出来た。

見殺しにすることも出来た。

だというのにそれをしなかった。

否、出来なかった。

幼子との記憶がそれ即ち彼が曲がりなりにも親と慕った男との記憶であるからだろうか。

傍らに温もりがある。

こうして、未だに、在る。


捨てられなかった。

手離せなかった。

忘れられなかった。

忘れたくなかった。


彼にその自覚があるかどうかはともかく、彼にとって彼女とはその程度の、数少ない、もしかするとこの世でただひとつの“たいせつなもの”であるらしかった。

合法と非合法の狭間をうろつく街を抜け出して、ひとりとひとり。

暗がりの街を出て、先立つものもなければ頼れるつてもなし。

あるのはただただだだっ広くて、甘酸っぱく熟したペリの実で何度も染め抜いたような夜空。

きらきら星に、欠けた月。


とにかく歩く。

止まらず歩く。

彼らのねぐらであった街から遠ざかる。


夜明けを待つ必要はなく、むしろ、動かずにじっとしている方が、何かとんでもない不都合が迫ってくるような気がしてならなかった。

実際そうに違いないのだ。

何せ追われる身だ。

裏切り者の若造を泳がせて何の利益があろうか。

ない。

だからひたすら動き続けるしかない。

ただただ歩いた。


その内、肩に担ぐ体温が身じろぎして、口を聞いた。


「ここ、どこ?ドリ」


デューリ。

ちぢめてドリ。

それが彼の名だった。

一族名だとか苗字だとかいう上等なものは知らないし要らなかった。

大日に先んじて小日が大地を照らし始めた頃にふと立ち止まると、彼の右肩に担がれた幼子が目を覚まし、寝ぼけた声で問いかけたのだ。


「外だ」

「そと?ユグの?」

「ああ」

「……わあーっ!」


泣き腫らした大きなつり目を瞬かせて、声を上げる。

まだ朝露で湿る草原に、駆け下りるように遮二無二飛び込む。

ここの所は夜間の襲撃に備えていたので、軽くて薄っぺらい夜着に着替えないよう言い聞かせておいたのが幸いだった。

温暖な南国であるシュレも夜になれば冷え込む。

ごろんごろんと名も知れぬせいたかのっぽの草の上で仔犬のように転げ回っていた少女が、ばさん、と大の字になって、男を見上げた。


「どこへ行くの?」

「さあな」

「決まってないの?」

「ああ」


白む夜。

月が背中の方へと沈み、なだらかな丘のもっと向こうの山から朝が来る。

ぐいん、と起き上がりこぼしさながらに上体を起こして、


「海の方、行く?」

「ああ」

「ドリ、また血がついてる」

「……ああ」


明るくなってくれば嫌でも分かる。

ドリは上衣も下衣も頭も血まみれだった。

そのほとんどが目の前の男が流した血ではないと少女は分かっている。

珍しくもなんともなくて、慣れっこだった。

そういう街で、そういう男達と暮らしていた。


「よせ」


ドリの右の眉尻から頬にかけて出来た縦一文字の傷は辛うじて右眼を避けてついていたものの、まだ血が乾ききっていなかった。


「じっとしてよっ」

「やめろっつってんだろっ」


岩場をよじ登るようにドリの身体にまとわりつく。

振り払おうとする腕を巧みに避けながら、適当に千切った瑞々しい葉っぱでぬめる赤色をどうにか拭き取ろうとする少女ーーリィズの細い手首を引っ掴む。


リィズリッテ・ハスト・ヴォルドレッド。

少女は、そんな名前であるらしかった。

ちぢめてリィズ。

矢鱈と長ったらしいとドリが感じている姓を余人に伝えたことはない。

リィズ自身も無闇に長々としたその響きを嫌ってはいないが誰かに呼ばせようとは思わない。

必要ない。


離せ離せと暴れる細腕をぶっきらぼうに放って、さくりと草原に一歩踏み出す。

南の海には何もない。

行くなら、北だ。


「いくぞ」

「うん」


リィズは扱いの荒っぽさに文句を垂れるでもなく素直に頷き立ち上がり、ついていく。

決まって並ぶ右隣。

チッ、と舌打ちひとつこぼして、伸べられた小さな手を繋ぐ。

性に合わないものは合わないが、慣れてしまった。

そうしないと落ち着かない時すらある。


歩き出す二人。

これからはふたり。

ただふたり。

昇る朝日。

白く眩しいそれをドリは忌々しげに睨み付ける。


オヤジは死んだ。

もういない。

どこにもいない。

いないから、笑いかけてはくれないし、叱りつけてもくれない。

守ってもくれなければ導いてもくれない。

これからはふたり、行くあてもなく、さ迷いながら生きるのだ。


お先真っ暗な朝焼けに、ドリの眉間に刻まれたしわは深くなるばかりだった。

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