第2話

「いっしょに、べんきょうしよう」


 甥が昼寝をしようとした時に、そう声をかけてきた。



 疲れきった休日。目を覚ましても、膜が張ったような感覚があった。やりたいこと、やらないことができない。無理やり体を動かして、生理的欲求を解消させた。

 そのまま布団に行こうか、流し見程度に海外ドラマを再生させようかと悩んでいると昔のことが──正確には甥の言葉が──浮かんだ。


 小学生だった甥。

 学校から出された宿題をどうにかしてこなそうと四苦八苦していた。

 私はというと、姉の家にあるソファーでゴロゴロと怠惰な大人を晒していた。そんな大人を見せつけてもチラチラと視線を投げて、彼なりに早く遊びの時間を得ようとしていた。

 姉と大喧嘩し、和解したのは、彼が幼稚園児だった頃。いちばん、彼の中では親戚の誰よりも親しみを感じてくれていたようで、いつもテンションが最高潮で出迎えてくれていた。

 その日の宿題は、面倒な問題ばかりだったのだろう。匙を投げるかわりに、


「いっしょに、べんきょうしよう」


 本気ダイブに近い状態で抱きつき、提案した。

 みぞおちの痛みを堪えながらも、可愛い甥の提案がいとしく感じられて頷いた。


「おばちゃん、算数苦手やからうまくいくかな? でも、たぶん、数字をまず抜き出してみたらいいかも。何人いる? 何個ある?」


 彼はメモ紙に数字を書いていく。書けば私の顔を見つめてそれが正解かを問う。


「さすが! おばちゃん、それもできなくてきみのお母さんに泣きついた思い出」


「これぜんぶどうしたらいいの?」


 甥にとって、おばちゃんのせつない思い出など「いま目の前」にある消化すべきこととは関係ない。過去に引きずりこまれやすい私は慌てて、甥の悩みに付き合う。


「どうしたいって書いてある? みんなで仲良く分けっこしたいとか誰かにプレゼントって書いてある?」


「さとしくんがあげるって。プキモンのなまえとおんなじ!」


「じゃああげよっか。何個、残る?」


「にこ!」


「正解! 二個でにっこり~って……聞いてくれてないか」


 真剣にしっかりと解答を書く彼の眼差しを見つめて苦笑する。


 その姿は経験したことのない、言い表せない感情をわき上がらせた。


 半歩踏み出せば、嫉妬。一歩後退すれば、寂しさ。横目で見やれば、煩わしさ。斜めを見上げれば、手に負えない。


 そう、私は母親にいっしょになって宿題を取り組んで欲しかったのかもしれない。

 だからといって、まったく関わってくれなかったわけではない。


 九九ができなくて、クラスの中で最後まで覚えていないことで毎日泣いていても、どうすれば良いのかと付き合ってくれた。


 本の読み上げ──国語の一貫で地の文と会話文の違いを読み分けするというものがあった。よくできたクラスメイトは皆が総出で褒め称えるというものだった──にも毎日付き合ってくれた。観たいテレビをそっちのけにして、アドバイスをわかりやすく的確にくれた。


 それがいつしか、おざなりになっていき、姉にバトンタッチされてしまった。


 きっかけは覚えている。

 小学校一年の夏休み。母親はパートタイムの短期に応募した。

 毎日に変化が生まれたことによって、母親の顔つきに彩りがでてきた。


 パートタイムに出かける前は、なにも暗い表情ばかりの人ではなかったけれど変化があるのは子ども関係でしかなかった。

 地域行事でも子どもの話、日々顔を会わせて話すのも、いまで言うところのママ友ばかり。

 そんな中でパートタイムでさまざまな年代との会話をするのは刺激的だったはず。



 時代は九十年代。

 まだまだバブル崩壊を体感するには、現実味がなかった。専業主婦が大多数だったし、中小企業の社長も穏やかな顔をしていた頃でもあった。親たちは地域行事の打ち上げで旅行に行ったりしていたのだから。


 それでも携帯電話が身近でもなく、インターネットなどを主婦が簡単に触れるわけでもない。


 働きに出ることが悪いという文にも感じさせてしまうけれど、そうではない。


 母親は、彼女たちはただ、日常と自分を切り離す時間が欲しかっただけだと今にして思う。"母親"、"妻"、"嫁"という役割が、ひとりの名前を奪っていく。

 ただせめてもの時間だけでも、取り戻したくて母親はパートタイムに子どもの夏休みの間だけ、出かけて行った。



「話相手、居ないとさみしいのよ」


「わたしがいなくてもゲンちゃんいるよ」


「犬は言葉を返してくれないでしょ」


「わたし、ずっとおうちにいる!」


「いきぐるしい」


「でも……!」


「もう決まったこと。ご飯にするよ」





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