ちいさな、とてもちいさな一瞬に
ありき かい
第1話
平成が終わり、一気に寒い冬の香りが鼻腔を突き刺すようにして入り込んできた。
どうってことはないシフト制での休日。平日だというのに、移り変わる見知らぬ顔の誰かさんたちは朗らかな表情で通りを歩いている。
疎外感を覚えなくなってどれくらいだろうか。焦りを感じては、趣味やマイノリティの友だち募集掲示板を貪りながら開けなくなって、何本の映画が生まれたのだろう。何人の漫画家や小説家が精根込めた作品を世に出したのだろう。
祖母の好物を手にし、甥が好きなパンを買い揃えて私は電車に乗る。
平日の昼下がり特有の、気だるくも日常のおおらかさを着こんだ人たちの空気を背景にして本を開ける。
「もう、死にたい」
読んでいた小説の登場人物の言葉に私は彼が母親に言ったそれと共鳴した。まるで私が目の前で、耳にしたような錯覚に慌てて周囲を見回す。
高校生の集団と中学生らしき私服の三人組がそれぞれの中で、夢中になって話し込んでいた。
小説の続きを読むには目が滑っていく。仕方がないと、車窓をぼんやりと眺める。
彼の投げやりが無数の彼女、彼の叫びに重なる。どうしようもない、なにもないと泣いては諦めの中で満足していた私を引き戻す。
彼の投げやりが本心ではないと知っている。それは冷たくなっていくお風呂のように体感している。
それでも言葉にして、煩わしい事柄から放棄したいという選び抜いた本音でもある。
気を引きたいとかでもない。
言ってしまえば、できる人たちにはわからない苦しみをわかりやすい言葉にしたらそうなるだけのこと。
「簡単でしょ。これをこうやれば、こことここが繋がって──」
そういった説明と同じなのだ。
何が簡単なのだ? なぜ、その存在に目を向けて数多ある中で繋がりを見出だせるのかまったく理解できない!
私は特に数学──算数でもそうだった──でいつもそう思っていた。章項目ではこれこれの数式だとか公式の説明を習うけれど、ポンッと出された問題にそれが繋がるというシンプルな頭をつくることも、暗記もできなかった。
数学の美しさを目にしても、頭がついてこなかった。
大人になって、金銭授受の必要性が死活問題になるという中でどうにかやり遂げているものの、私は数字に弱すぎて生きてきた。物語、ドラマ、映画で数学の芸術性に触れてもおなじだった。
たぶん、数学が生活の中で身近すぎる異世界に生きていたら私は魂から絶叫する。
「もう死にたい!」
彼の投げやりは多少の違いがあっても、そういうことなのだ。
だから、彼の母親はわからない。そして──私にだってわからない。
「ほんとうにどうしていきたいのか、わからない」
そうため息を溢した彼の母親を見て、「生きたい」理由をビー玉の山から探すには情報過多と二者択一の世界すぎるのかもしれないな。と感じる。
ネットに触れても、夢を馳せる「現実」を見せてくれない。
九十年代を経た私たちが夢破れてしまい、突きつける現実をネットに上げる。テレビでは嘘臭い海外との比較をあげつらう。努力だけで──血涙に、汗を垂らせば、成功者になれると説く、祖父母やさらに上の世代。ほんとうは下にいくしかないというのに。
まだ映画やアニメ、小説には見せてくれる「夢」がある。この現実で生きて藻掻いても、誰かを助け支え、希望を手にすることができるというやさしい「夢」が。
見慣れた背中がそこにはあった。
必死にすべてを手にして、誰からも称賛されて母親からは「自慢の子どもだ」と言ってもらいたいだけだった背中。父親を見返して、皮肉な笑みを浮かべて何も言わないままだったその口を驚かせたかっただけの強がりばかりの背中が。
「わたし、海外で成功して有名人にいっぱい会う! おかあに毎日、おいしいもん食べ飽きさせたるからね」
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