第3話悲鳴


 少し濃い灰色のゆるふわな髪は腰まであり、まだちんまりとした手足。

 チューブトップと短い丈のスパッツ姿で、少女は浴槽の底に沈んでいた。

 おへそ丸出しで、ほぼ下着で半裸と言っていいあられもない姿だ。


「何……この子?」


 顔立ちはかなり整っている。

 喩えるなら、ヘレニズム彫刻のような。

 子役とかモデルと言われても、なんら違和感のない容姿。

 次いで、水面に映った自分の顔を見て、白亜は軽くため息をつく。

 黒目黒髪、どちらかといえば平均顔。

 バイトの後だからか、少し疲れた表情だ。

 短めのポニテが垂れて顔にかかる。


「むうう……」


 そこはかとなく世の理不尽を恨む白亜。


「って、違う!」


 思わず叫んだ。

 容姿の比較などはこの際置いて、この少女は何者で、なぜ浴槽に沈んでいるのか、今問われるべきはそちらだろう、と。

 頭のネジがごっそりと抜けた狂科学者とか、不老不死に執着した錬金術師なんかが、ここで彼女を使い人体実験でもしていたのだろうか?

 イメージのそれは、宇宙人の改造手術とそれほど変わらない。

 浴槽の底に沈む少女は、実にきれいな状態を保っている。

 しかし彼女は水の中、つまり息をしていないのは明らかだった。

 そして人間は、呼吸停止してから約五分の間に救命措置を行わないと不可逆な結末を迎える。

 白亜がこの部屋に入った時には、すでに彼女は水槽にいたはずだ。

 要するに少女はもう助からない。

 助からないはずだ。


(だけど――)


 黒い瞳が水の底に横たわる少女へと注がれる。

 白亜は妙に引っかかりを覚えていたが、うまくそれを言葉にできない。


(何だろう、このモヤモヤした感じ……)


 額に指を当てながら、目を閉じて違和感の正体を探っていく。

 思考をグルグルとめぐらせて、記憶の引き出しを片っ端から開けていった。


「……っ!?」


 そしてひらめく。


「そうだ!」


 少女の顔を凝視しながら、白亜は呟いた。


「この子、きれいすぎる・・・・・・んだ」


 生物室に飾られていたホルマリン漬けの魚やカエル。

 あるいは奇跡とされる聖遺物。

 ホルマリンは確かに保存が利くが、元のままという訳にはいかないし、不朽体だって死体である以上、生前の姿に近いに過ぎない。

 が、この少女は違う。

 まるで生きていて、何かの拍子に起き上がりそうなほど……あたかも眠っているかのような……。


(いや待って、聞いたことある)


 脳裏に浮かぶのは、中国湖南省の馬王堆まおうたい漢墓から出土した例のミイラだ。

 保存状態がよかった。

 確かにそれもあるだろうが、死後二千年近くたって尚、弾力を保っていたというあれだ。

 さすがにホラーというしかないが、何らかの関連があるような気がしないでもない白亜。


(いやでも、まさか――)


 何を思ったのか、白亜の手がゆっくりと浴槽へと伸びていく。

 水面へと指が近づき、波紋を立てた。

 と、その瞬間。


「えっ!?」


 白亜の体が抗いがたい力によって、水面へと引き寄せられた。


「な、何――」


 突然のことに理解が及ばず、どうすべきかが分からない。

 引き寄せられるままに、体が傾いていく。


「ゴボッ!?」


 そしてそのまま、浴槽の中へと引きずり込まれた。


「~~~っ!!!」


 柔らかい感触に抱かれ、白亜は身動きが取れなくなる。

 口や鼻を水にふさがれ、気管へと液体が流れ込んでくる息ができない苦しさが襲う。

 水泡とともに、声にならない悲鳴を上げ、水しぶきをあげてもがき――


「――っ!!?」


 それはほんの一刹那せつなの出来事だった。

 水が弾ける音と同時に体を包んでいた水が飛び散る。

 拘束が解けて、白亜の肺へと空気が流れ込んできた。

 次いで、水の跳ねる音とともに、不安定な体勢で石の床へと投げ出される。


「ゲホッ! ゴ、ゴホッ!」


 咽こみながら、滑りのよくなった床を滑走していく白亜は、積まれていた置物の山へと突っ込んでいった。


「っっっ!?」


 部屋中に耳を劈く音を響かせて、体をあちこちにぶつけた痛みに呻く。


「~~~!!」


 それでも何とか、置物の中から這い出ていき、床にうずくまりながらむせる。

 何が起こったのだろう?

 突然のことに理解が追いつかなかった白亜だが――


「……!」


 かすかに耳へ届く空気がこすれる音。

 聞こえるかどうかくらいの大きさで、でも少し耳に響く。


(……息? 私のじゃない……としたら誰の?)


 一瞬我が耳を疑う白亜が、耳をそばだてる。


「す~、す~」


 確かに聞こえた。

 幻聴ではない。


(誰の? まさか――)


 白亜の他にこの部屋にいるのは誰か?

 言うまでもなく一人しかないない。

 浴槽の底に沈んでいた少女の姿が脳裏をよぎる。


「そんなことが――」


 慌てて浴槽へと目を向け、駆け寄った白亜が目にしたのは、仰向けに寝ていた少女の姿。


「……?」


 全身が水にぬれて、ほんのりとした色っぽさがあった。

 水滴が床にこぼれた水溜りに跳ねる音がする。

 注意して見ないと分からなかったものの、少女の胸にかすかな動きを見つける。


(ウソ……じゃない?)


 ゴクリと喉が鳴る。

 震える手を口元へ近づけると、小さい息に触れる。

 少しくすぐったい。

 手に響く――つまり、呼吸している証拠だ。

 爪を押してみれば、白くなってすぐ元にもどる。

 この事実に、白亜が目を見開いた。


(この子、まだ生きているっ!?)


 にわかには信じられないことだった、目をぱちくりさせ白亜が息を呑む。


(どういうこと?)


 人間が水中呼吸できるようになったとか?

 いや無理だろう、と軽く首を横に振る。

 それ以前に浴槽の中に容れられていた液体は、本当に「水」だったのか?


「う……ん」


 寝起きの声を立てる少女だが、目覚める気配を見せない。


(生きてる? これ、絶対生きているよね? じゃ、いつ目覚めるの?)


 見知らぬ部屋で一人時間を過ごすのは心細い。

 先に連れてこられたこの子は、自分の知らない……たとえばこの部屋の出口を知っているかもしれない。

 黒い瞳が期待半分に少女の顔を見つめる。


(どうすれば……)


 思考がグルグルと回っていく。


(どうすれば――)


 眉を寄せ、難しい顔になった。

 溺れる――呼吸停止――心マッサージ――人工呼吸の方程式を思い出す白亜。


(確かこの前、街のフェスティバルで教えてもらった、あれを……?)


 少し体が震える。


「いやいやいや!」


 少女は目が覚めないだけで、息そのものはしている。

 なら心臓は?

 Ⅰ音Ⅱ音は鳴っているか?

 おそるおそる耳を少女の胸へと触れてみた。


「……」


 目を閉じて、聴覚に全神経を集中させる。


「……?」


 白亜の表情が曇った。


(心臓が、動いていない?)


 胸が動いているということは、息をしているはずだ。

 息をしていて、心臓が動いていない、なんてことがあるのか?

 生命兆候バイタルサインはあったのに?


(それとも――)


 少女が息をしているのは、見間違いなのか?

 観察力不足による、誤った推論か。


「…………」


 ふと、何を思ったのだろう、白亜は自分の顔を少女の顔へ近づけて覗き込む。


(やっぱり……生きているとしか思えない)


 血流が止まれば肌はもっと青ざめるだろうし、そもそもすぐ腐ってしまう。

 しかし肌はもっちりして、ぷるっとした唇、形のよい眉、整った顔立ち……


「……」


 ゆっくりとお互いの顔が触れるか触れないかまで接近していく。

 まさか昔話とかでの、寝ているお姫様の唇に触れると目を覚ます、を実践しようということか?


「……」


 そのまさかだった。

 ぷにっとした、溶けるような感触を覚え、そして――


「ぴぎゃっ!?」


 悲鳴が白亜の耳を劈いた。

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