3-9

どうしたものかと考え始めたとき、道子は自分の手に持っているものに気が付いた。


「あ、そういえば……」


 道子は手に持っていたまっさらな楽譜を目の前に持ってきて、それを広げた。しかしやっぱり中身はまっさらなままで、五線譜だけがどこか寂し気に描かれているだけだった。


「お嬢さんそれは何だい?」

「え? ああこれは……ちょっとそこで拾った楽譜よ。何かの役に立つのかと思って持ってきたものの、何の役にも立たなさそうね」


 道子は軽くため息をつきながらその楽譜を床に置こうとした。


「楽譜! それがあの楽譜だというのかい?」


 さっきまで興奮していたロバだが、より一層興奮した様子をのぞかせたロバの気迫に気圧された道子は一瞬動きを止める。


「そうね。あの楽譜っていうのがどういう意味なのかは分からないけれど、これは楽譜ね」

「そうか! それが楽譜!」


 ロバのその大声に道子は完全に姿勢を正し、楽譜は手に持ったままだった。そして周りの各々の会話を再開し始めていた動物たちもロバの一言に一斉に道子のほうに注目した。


「ちょっと一体何よ……」

「お嬢さん、ちょっとそれを貸してくれないかな」

「それは全然かまわないけれど」


 道子はロバと周りの視線の気迫に押され、言われるがままに白紙の楽譜をロバに渡す。ロバはそれを器用に口にくわえると、真ん中の料理が置かれている大きなテーブルに持っていった。


「鶏さん、ちょっといいかな」

「もちろんですよ! ちょっと聞こえてしまったのですが、それがあの楽譜というものですか?」

「鶏さんも見るのは初めてかい?」

「ええ、何度か頭の中で想像をしてみたりしてはいたのですが、実際に目をするのは初めてですね」


 ロバと鶏は完全に道子そっちのけで楽譜に顔がくっつきそうなほど近づけて、話をしていた。


「だから一体楽譜がなんなのよ……」

「お嬢さん、僕たちは楽譜を見たことがないんだ。あのわら小屋をでてからとても素敵な音楽に出会ってね。そういうものが楽譜を基に奏でられるとは知っていたんだが、楽譜を目にすることができるとは……。これがあの音楽のもとになっているんだよ」


 ロバは道子に話しながらも道子が聞いていようが聞いていまいが関係がない様子で、目をウルウルさせながらいまだ道子が渡した楽譜を眺めていた。


「そ、それはよかったわね」


 道子にはまったくロバの感動はわからなかったが、いつの間にか楽譜の周りには道子以外のみんな全員集まってそれぞれの楽譜を見た感想を言っていた。


「本当に元気になったものね」


 道子はそんなロバの様子を楽しげに眺めながら、少し寂しくなりそれから少し虚しくなった。


 ロバは自分の殻を破って外の世界に飛び出していった。その結果、信頼できる仲間を見つけ、本音を語り合いながら、素晴らしい外の世界を見つけることができた。目的も見つけることができた。

 そんな様子を見ていたらもしかしたら自分もなんて考えてしまう。ロバのように自分の殻を破り周りのみんなと話をしたらもしかしたらこんなに世界が変わっていくのだろうかと。


 それでも道子は自分に自信を持つことができない。例えばいまさらルームメイトの会話に入っていったとして、何かが変わるとも思えない。むしろ気味悪がれてよりよくない方向に行ってしまうかもしれない。もしあの会話に入れてもらえたとしても、あの話を面白いと心の底から思って笑いあうことはできないかもしれない。


 結局のところ道子の世界は、今道子自身の中で完結してしまっているのだ。ここから何か劇的な変化を求めようなどおこがましいことにすら思えてきてしまう。


「ロバさん、私一つひらめいたのですが」

「鶏さん、多分僕も同じことを思いつきましたよ」


 そんな話をしながら二人は楽しそうに笑いあっている。そんな様子を道子は心からうらやましいと思う。


「お嬢さん、ちょっとだけ時間をもらってもいいかな」

「え、な、なにかしら」


 道子は突然全員の注目が自分に集められたことに動揺してしまう。それと同時に頭の中の陰険な考えを無理やり隅の方に片づけた。ここの自分と現実の自分は違うものだ。それを道子自身に自覚させるように。


「いや最高の恩返しを思いついたんだ。でもちょっとだけ時間が必要でね」


 ロバの言葉にみんなはうなずく。


「そうなの。私はいくらでも時間はあるからいくらでも待つことはできるわよ」

「本当かい! じゃあちょっと別の部屋でみんなで恩返しの準備をしてくるからここで待っていてくれよ!」

「ええ、わかったわ」


 ロバは道子のその返事を笑顔で受け取ると、みんなとワイワイ話しながら楽譜をもって部屋を出ていった。


 突如部屋は静寂に包まれる。その瞬間道子は再び自分の思考の渦に飲み込まれていく。


「本当にこれでいいのかしら」


 赤ずきんの時は自分も少しは話を知っていたから、話がこの方向に進んでいてあっているのかは何となくわかった。しかし今回に関しては道子に知識がない。


 本当だったらあの陽気で全力で余生を楽しんでいるロバはブレーメンに目指さなければならないのだろうか。もし本当に今のこの物語が自分に会うために、ブレーメンに向かっていたのだとしたらここでロバが道子と出会ってしまった時点で物語は破綻してしまうのではないだろうか。


 そもそも再開してしまう場所をムーグリルは間違えてしまったのではないだろうか。


「あのポンコツ、やらかしたわね」


 こうなったら道子自身でなんとかあのロバたちを別の目的でブレーメンに向かうように仕向けなければならない。もし別の目標もあってブレーメンに向かうというのであれば万々歳ではあるが。


 そんなことを考えながらも道子は自分自身に恩返しをしようと一生懸命になっているロバの好意がうれしくもあった。

 道子はこれまで誕生日をお祝いしてくれた記憶も、何かの記念日を誰かと一緒に祝った記憶がない。これまでずっと一人だったのだ。


 そんな道子のことを考えてくれて、道子のために何かをしたいと考えてくれる人が現れたのだ。多少喜んだところで誰かに怒られることはないだろう。


「そもそもこんなへんてこな世界で私に怒る人なんて現れるはずもないのだけれどね」


 自嘲ぎみに微笑みながら、物思いにふける。

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