3-5

道子は思わずロバに向けて怒鳴っていた。

 道子の声はわら小屋の中を反響し、なんどもその言葉が小屋の中をこだまする。


 道子はロバに向けて腹が立っていた。

 どうしてかはわからない。だが、無性にロバが放つ言葉に腹が立って仕方がなかったのだ。


「どうせあなたの言っていることはこの小屋の中で起きた出来事でしょう!? そんなの一握りの人の行動でしかないわ。実際今私がため息をついたのもあなたにはまったく関係のないこと! ほんととんだ自意識過剰ロバだわ! 外に出ればいろんな人がいるじゃない。動物だってたくさんいる。この世界中の者たちが全員あなたの姿を見て落胆するとでも思っているの!? いい!? 他人は一番自分が大事なの。それは私も一緒よ! あなたも結局は自分が一番大事なのよ! 自分を傷つけたくない、だからこの小屋から出ずに死んでいく。そういって逃げているだけなのよ!」


 道子はロバに言っているはずの言葉が、そのまま自分へと返ってきていた。


 ロバは道子の突然の剣幕に、ただただ驚いたように目を見開いていた。


「確かに他人には何の期待も持てないかもしれない。期待したってすぐに裏切られるだけだもの。それはあなたの二分の一でも生きていない私でも知っていること。でも……もう少し……少しくらい他人に期待しても、他人を信じてみたっていいじゃない……」


 道子の言葉は最後になるにつれて、弱々しくなっていた。


 目の前のロバにこんなことを言う資格はない。


 それは自分が一番わかっていた。だって一番他人に期待を抱けないのは、信頼できていないのは紛れもなく道子自身なのだから。


 さっきからロバに向けて話している言葉は、なぜかすべて自分のところへと返ってきている。

 そして自分が放っている無責任な言葉に道子自身が一番傷ついている。

 なぜかそれが悔しくてたまらなかった。


「わしのことを思って声を荒げてくれる人がまだいたなんてな。それにわしのためを思って涙を流してくれる人がいるなんてこれまで考えもしなかったよ」


 ロバがポツリと漏らした言葉で、道子は自分が泣いていることに気が付いた。


「どうして私……」 


 どうして泣く必要があるのだろう。自分は自分自身が望んで殻に閉じこもっているのだ。

 自ら望んで他人と距離をとっているのだ。

 それなのにそのことを考えれば考えるほど、先ほどの道子が言った言葉が頭の中を反響し、涙は止まるどころか、あふれ出る量は増していった。


「わかった! 分かったからもう泣くな! そこまでわしのために泣いてくれる子の前で居座り続けることなんかできるわけがない。お嬢さんの言う通り外の世界を信じて、信頼できるものが現れるのを期待して、旅に出ようじゃないか!」


 ロバは泣き続ける道子を見ておろおろしながら、立ち上がった。


「あなたは外に出るのね?」

「わしのために感情を動かしてくれる子がまだいるなんて思いもしなかった。お嬢さんの姿を見て、お嬢さんの言っていることを聞いていたら外に出てみるのも悪くないかもしれないと思い始めた。もしかしたら本当にご馳走と最高の寝床が待っているかもしれんしの」

「そんなものないかもしれないのに?」

「お嬢さんがあるかもしれないといったんだろう。わしはお嬢さんの言うことを信じる。だから君も自分が言ったことに自信を持ちなさい」


 説教をしていたはずの相手に、今度はなぜか自分が説教されている。

 道子は立場が逆転したその状況がどこかおかしくて微笑んだ。


「どうしたんだ? 泣き出したかと思ったら今度は笑い出すなんて」

「笑ってなんかないわよ」


 ロバはおかしそうに首を傾げる。


「そんなことはどうでもいいから。外に出るんでしょ。準備をしなきゃ。持っていくものとかないの?」

「今のわしにはこの体一つさえあれば十分な持ち物だ。ずいぶんと古くなって傷だらけになったけどな」


 ロバは自虐気味に笑うと、わら小屋の扉に向かって一歩を踏み出した。


「そうなの? ……じゃあこれを持っていきなさいよ!」


 道子がそうやってロバに差し出したのは、道子が持ってきた鞭だった。


「わしにこれを持てと?」


 ロバは初めて道子と目を見合わせたときのように曇った表情を見せる。

 それも当然だろう。なぜならロバは若い時にこの鞭の痛みをいやというほど味わっているのだから。


「もしかしたらひょんなことで何かの役に立つかもしれないじゃない?」

「…………」


 一瞬考え込むようなそぶりを見せたロバは、急に口をにまっと開き真っ黄色な歯と歯茎をむき出しにしていた。どうやら笑っているようだ。


「な、なによ」

「わしを苦しめたものが、今度はわしの役に立つかもしれないと! ハッハッハ! 本当に面白いことを言う子だな!」


 ロバは道子の言うことが相当おかしかったのか、道子にあってから一番の笑みをこぼしていた。


「そ、そんなに笑わなくてもいいじゃない」 


 道子は頬を朱く染めながら顔を伏せる。

 道子自身、自分がおかしなことを言っているのはわかっていた。


「いやいや、別に馬鹿にしているわけじゃない。そんな考え方もできるんだなと感嘆していたんだ」


 ロバは笑顔のまま道子に近寄る。


「そうだな。君の言う通り、何が役に立つかわからもんな。わしも過去のことは水に流して……まあそんな簡単に割り切ることはできんが、この鞭を一つの仲間として受け入れようじゃないか!」 


 笑い続けるロバに顔を向けながら、鞭を手渡す道子。

 ロバはその鞭を器用に口にくわえ、腰に巻き付けると再び扉のほうへと目を向けた。


「さてと決意が揺るがないうちに、いくとするか」

「そうね、気持ちが変わってしまったらまたここで眠るだけのぐうたらロバに逆戻りだものね」

「言うてくれるのー。まあお嬢さんの言う通りだが」 


 ロバは笑顔だった顔を引き締めると、前足を折り道子に向かって頭を下げた。


「どうしたのよ、急に」

「もしこれで本当に外の世界でわしの想像もせんことが起こって、幸せを受けることができたならそれは間違いなくお嬢さんがここに足を運んでくれた賜物だ。その時は礼をさせてもらいたい」

「どうだろうかしらね。私の役目はこれで恐らく終わりだから、また会えるかどうかはわからないわ」

「お嬢さんも何かしら軽くないものを抱えているようじゃが、このわしを動かしたんだ。自信を持てよ」

「まあ、多少考えてはみるわ」


 そんな曖昧な道子の返事にもロバは満面の笑みを浮かべると、道子に背を向けた。


「じゃあいくとするか」


 ロバは気合を入れるように頭を振ると、扉に向かってその頭を傾げた。

 そして力強い一歩を踏みだし、扉を押し開けると外への一歩を踏み込んだ。


 まぶしい光が薄暗かったわら小屋の中に射し込む。

 その光はロバの体を包むと同時に、道子の体にも淡い光が包みこみ始めていた。


 外へと飛び出していくロバの姿は、ここで見たどの姿よりも若々しく、老いなんてものは一切感じさせられなかった。


 そんなロバの姿を見送り、扉が再び閉まると同時に道子も温かい光にその身をゆだねた。


 

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