3-4
動物の鼻を刺すような臭い、くさい息と共に顔に吹き付けてくる風。
それと同時に聞こえてくる野太いいびき。
光が消えた瞬間に、一気にそれを感じた道子は嫌悪感を覚えながらもゆっくりと目を開けた。
目の前にはわらの上で、体を大きく上下に動かしながら伸びきっているロバがいた。
「こんなにだらしない顔でいつも寝ているのであれば、主人にも愛想付かされて仕方ないのかもしれないわね」
よだれをたらしながら、たれ目を閉じているロバを見て道子はため息をついた。
ロバは人間としてみてみれば、初老だろうか。若いときに酷使してきたのであろう体は所々古傷が目立っていた。
「おきてもらわないと、旅に出るどころか立ち上がりもしないものね」
道子は一瞬手に持っていた鞭を構えたが、さすがに初対面の動物を殴るのは気が引け鞭をスカートにつけていたベルトとスカートの間に挟みこんだ。
とりあえず揺さぶってみようか。人と同じであれば段々強くすればいつか起きるでしょう。
道子はロバの背中に両手を添え、強く揺さぶった。
しかしロバは起きるどころか寝返りを打ち、眠りを妨げようとする道子から顔を背けた。
「図々しいロバね」
道子はさっきより力を強めて揺さぶる。
しかしロバはそれから抵抗するように、道子の手を振り切りまた寝相を変える。
「意地でも起きないつもりなのね。わかったわ。それならこれを使うしかないわね」
道子は誰でもいうわけでもなく、声を大きくしてそういうとベルトの間にしまっていた鞭を手に持った。
「これで嫌でも起きないといけない羽目になるわよ」
道子は大きく深呼吸した。
動物をこんなものでぶつなんて、考えただけでもやりたくない。
ムーグリルは勢いでほとんど無意識で振りかぶっていたとはいえ、今度は自分の意思で自覚した状態で、この太い鞭をこのふて寝しているロバに振らなければならないのだ。
道子は少し自分の中で葛藤を繰り返した後覚悟を決めると、思い切り鞭を振り上げた。
鞭は道子のすぐ横をかすめると同時に、冷たい風が吹き抜けヒュンという無慈悲な音がする。
そして思い切り振りかぶろうとしたとき、ロバは寝返りを打つ数十倍のスピードで飛び上がると、前足を折り曲げて土下座のような形をとった。
「それだけは勘弁してくれ! もう鞭を食らうのは勘弁だ!」
「なんだ、起きているんじゃない」
道子は少しほっとしたような表情を浮かべると、鞭を振り切ることなく先ほど閉まっていた場所に直した。
「鞭だけは勘弁を! あんな痛みはもう二度と味わいたくない!」
昔ここの主人に鞭をふるわれていたのだろうか。
道子はすでに鞭をしまっているのにもかかわらず、ロバは地面に額をこすりつけ懇願していた。
「私は鞭なんて振るわないわよ。まああまりにもふてくされたように眠っていたから、一瞬痛い目には合わせてやろうかしらとは考えたけれど」
「顔に似合わず何とも恐ろしいお嬢さんだな」
「一瞬よ! 本当に一瞬だけ。もちろん鞭でたたこうなんて考えすらしなかったわ!」
「思い切り振りかぶっていたじゃないか」
道子が鞭をふるわないと分かったからか、ロバは一度姿勢を正すとそのまま足を折り、ふてくされたようにその足に顔を乗せた。
「あれは、フリよフリ」
「その割には顔が本気だったように思えるけどね」
道子は先ほどから顔のことばかり触れられて気恥ずかしさを覚え、前髪で顔を隠そうとした。
「そのことはもういいじゃない。それよりあなたにはここを出てもらわないといけないの」
「唐突に現れてわしの眠りを妨げたかと思うと、また突拍子もないことを言い出すんだね」
「唐突でも突拍子のないことでも、そうしてもらわないと私が困るもの」
「お嬢さんの事情は知らんが、わしもここを出たくないんだよ」
「どうして? ここにいても寝床はわらの上だしご飯だって残り物しか出されないんでしょ? 外に出ればもっとおいしい食べ物が食べ放題になって、最高の寝床で眠れるかもしれないわよ」
「それはただの理想だ。現実は今とそう変わらない。わしはそれが分かるくらい外の世界をいやというほど見てきたからな」
ロバは足に顔を乗せたまま大きくため息をつくと、静かに目を閉じた。
「そうやってまた眠って現実から逃げるつもりなの?」
道子がロバに向けてはなった言葉は、その直後自分自身へと帰ってきて道子の心をえぐった。
そんな道子の心情など知る由もないロバは、不機嫌そうにゆっくりと目を開けると道子をじっと見つめた。
「お主にこの世界の何が分かるというんだ」
「何もわかんないわよ」
「じゃあ偉そうな口はきかないことだな。わしは世界中を走り回って、この世界の汚いところをいやというほど見てきた。最初はわしも希望をもっていたさ。でもそれはいとも簡単に裏切られる。裏切られるくらいならこの糞の匂いがこもったわら小屋で静かに一生を終えたほうがましというものさ」
「それは走らされてきたからでしょう? 自分の足で歩いてみればまた世界の見方が変わるかもしれないじゃない」
「自分の足で?」
ロバは不思議そうに首を傾げる。まるで道子が何を言っているのかわからないような口ぶりだった。
「そうよ。何も私はあなたに外に出て私の足になれって言ってるんじゃないの。自分の足で世界を旅してみてもいいんじゃないかしら」
道子自身どうしてこんなことをロバに向けていっているのかわからなかった。
もしかしたらこのロバに自分自身を少なからず重ねて見ていたからだろうか。
このロバがこの閉鎖空間から外に出ることができれば、道子自身も何か変われるような気でもしているのかもしれなかった。
「そんな都合のいいことなんて世の中にないのにね」
「何か言ったか?」
「いえ、別に何も」
これは所詮夢なのだ。ロバに鞭を降ろうとしたらロバが土下座をし、そんなロバと意味の分からない会話を交わしながら説教をする。
そんなとんでもないことが当たり前のように起きる夢なのだ。
夢の中で何かを変えたとしても、現実で何かが変わるわけがない。
道子はそんな考えに頭を支配され思わず目を伏せ、ため息を吐いた。
「そうじゃ、いまのわしなんか見ても全員がそんな反応をする」
「え?」
「このロバはもうだめだ。そう目で責めてくるんだ。そしてわしの目の前でため息をつくとわしの前から去っていく。傷だらけのわしになんか期待せず、わしより速くて元気な老体を選んでいく」
「……じゃない」
「なんだ?」
「そんなこと外に出てみなければわからないじゃない!」
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