3-3

 天井まで届きそうなほど積み上げられた本の束、それが目に入ると同時に古本屋のにおいが鼻の中を通る。そして何の音もない部屋にときたま本が飛び出すときに本と本がすれる音が聞こえてくる。


 そんな幻想的な部屋で一人だけその部屋に似合わず、にやにやしている男がいた。


「どうしてさも当然のように本を片手に持っているの?」

「あ、気づいちゃった?」

「それだけにやにやしていたら見つけて突っ込んでくださいっていっているものじゃない」


「ようやくやる気になってくれたんだね!」

「なってないし、そんなこと一言も言ってないわ。本当に人の話を聞いてないのね」

「道子の話は聞いているよ! ただ本達から聞こえてくる『早く修理してくれ』っていう切実な声を聞いているとそれを聞き逃すなんて罪深いことは僕にはできない!」

「あなたキャラ変わってるわよ」  


 大げさに涙ぐみ、両手を天に仰ぐように突き出しているムーグリルの姿を見て道子は何度目かもわからないため息をついた。


「あなたって本の声まで聞こえるの?」


 そんなことができるのであれば、大変だろうしうっとうしくないのだろうか。


「え、聞こえないよ?」


 ムーグリルはきょとんとした表情を見せ、振り上げていた手を躊躇なくおろすと道子を見た。

 さっきまで出ていた涙はどこに消えたのか、今はケロッとした表情をしていた。


「私の一瞬の同情と心配を返して」


 道子は力が抜け、そのまま目の前にあったソファに座り込んだ。


「心配してくれたのかい!? それに同情まで!」

「ええ、同情するわ。あなたみたいな人に使われているその脳みそと、ろくなことしない管理人を持ったここにある本達にね」

「そうだよ。本といえばねこんなところにちょうど修理が必要な童話が一冊あるんだけど……」


 ムーグリルは道子の容赦のない言葉に落胆した様子を見せることもなく、手に持っていた本を道子のほうに差し出すと話を続けようとした。


「結局ここでは私に拒否権はないってことなのよね。いったいそれは何の童話なの?」

「やっとやる気になってくれたのかい?」

「あなたがそうさせたんでしょう! さっさと何の本なのか言いなさいよ」


「相変わらず冷たいな、道子は。今回修理してもらう本は『ブレーメンの音楽隊』だ」

「またマイナーな本を修理するのね」

「マイナー!? 道子はそれを本気で言っているのかい?」


「だって私『赤ずきん』は知っているけれど、その本は知らないわ」

「それは道子が童話を読んでこなかったからだよ。『赤ずきん』には知名度は劣るかもしれないけど、間違いなくこの本も名作中の名作。とても有名な話だよ」


 道子のマイナーという言葉が引っ掛かったのか、ムーグリルはものすごい剣幕で座っている道子に迫ってきて、白熱した感じで持っている本について語り始めた。


「わかった、わかったわ。私が悪かった、この本は有名な本なのね」

「そうだよ! 分かってくれたのならよかった」

「この本は何が起こって修理しなければならない羽目になってしまったの?」

「この本は主人公であるロバが旅に出ることによって始まる物語なんだけど、実はロバがやる気と根性がなさすぎて旅に出ないんだ」


 そういいながら開いた本の中身は一文字も書かれていない真っ白な状態だった。


「物語自体始まっていないんじゃない」

「そうなんだ。しかもあろうことか、ロバをいじめなければいけない主人はロバに愛想をつかして相手すらしなくなってしまっている」

「主人がロバのことが好きでいじめないだけとは考えられないの?」

「あの主人が働かない動物に手を出さないなんて考えられないさ。だってあの主人なんだから」


「ある意味、ずいぶんと信用のある人なのね。それで? 私は何をすればいいの?」 

「このやる気のないロバを何とかけしかけて旅に出てほしいんだ。つまるところ、道子は主人の代わりにロバの初期行動を促す役を頼みたいってことだね」

「そんなことでいいの? そんなことでこの本は修理できてしまうの?」


『赤ずきん』の時に比べれば、その作業は幾分も楽なように思えた。


「そんなことっていうけれど、この本来の物語の登場人物ですら主人公に愛想をつかしているんだ。そう簡単にはいかないとは思わないけどね」

「おだてたと思ったら今度は脅してくるのね」

「脅しているつもりなんて毛頭ないさ。道子にはぜひともこの話を修理してほしいと思っているよ」


 ムーグリルは一瞬はっとすると、すぐにフォローするかのように早口でそう言った。

 この男もこいつなりに気を使おうとはしているのかしら。


「はあ、わかったわ。とりあえず直せばいいのよね」

「そういうことになるね」


 ムーグリルはゆっくりと立ち上がる道子を見て、閉じていた本の真ん中のあたりから何かを取り出した。


「それが今回の『鍵』なの? ずいぶんと物騒なのね」

「どうやらそうみたいだね。言っておくけど僕が選んでいるわけじゃないからね?」


 そういいながらムーグリルが振り回しているのは、長い黒色の鞭だった。


「これじゃあけしかけるどころか拷問になるんじゃないかしら」

「それは道子の使い方じゃないかな。まあこれをみてそんなことを思い浮かべる道子は、意外とむっつっぼ!」


 ムーグリルは最後まで言葉を発することなく、道子に瞬時に奪われた鞭でほおをひっぱたかれていた。


 思い切り首を振り切ったムーグリルは顔を鞭の形に歪ませながら吹っ飛んでいった。


「ごめんなさい、ついやっちゃったわ」


 少し離れた場所で倒れ伏すムーグリルを冷たく見下ろしながら、道子は鞭を握り締めていた。


「あっちの住民には思わずやってしまわないことを願うばかりだね。今のは僕を殺す勢いだったよ。本と鞭を振り切った相手が僕でよかったよ」


 ムーグリルはふらふらしながらもゆっくりと立ち上がると、赤くなった頬を押さえながらへらへらと笑っていた。顔は赤くなっているものの、ムーグリルの服は一切乱れることなくそれどころかしわすら付いていなかった。


「思い切りひっぱたかれてへらへらしているなんて、あなたってエムだったのね」

「そんなことをいう道子はやっぱりむっつ……いやもはやただのえ」

「またひっぱたかれたいのかしら?」


 道子は近寄ってくるムーグリルに向かって鞭を構える。


「いや、もう勘弁してくれ。僕の身の安全のためにも早く行ってもらうしかないようだね」

「そうね。早いとこいって、さっさと引っぱたいてくるわ」

「その考えにとらわれるのはまずいんじゃないかな」

「冗談よ」


 道子は呆れたように言うと、何を思ったのかムーグリルは少し微笑んで両手に本を持った。


「じゃあ準備はいいかい?」

「早くしてくれないと帰るわよ」

「帰れないさ」


 ムーグリルは不気味に微笑みながら、本を開く。


 その瞬間、道子の『鍵』とムーグリルが持つ本が共鳴するようにひかりだし、道子の体は淡い光に包まれた。

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