2-11
道子は森の中を最初は猟師の前を行き歩いていたが、狼が倒れている場所が分からないことに気付き、今は猟師の後ろを歩いていた。
「そろそろつくよ」
「まだ森に入って五分もたってないじゃない。いったいこんなところで何をしてたっていうの」
「さあ、なんだか千鳥足になりながら両手に石をいっぱい抱きかかえていたけど」
そんな話をしていると、猟師は突然足を止めた。
道子は猟師の背中から行く先を覗き込むと、胸を撃ち抜かれているにもかかわらず真っ赤な顔でいびきをかいている狼がいた。
「まるで化け物ね」
「まるでじゃなくて正真正銘こいつは化け物さ」
猟師は躊躇することなく、狼に近づくと猟銃の先に付いていた小さな刃を腹に向けた。
「ここにおばあさんが居るんだろう? 狼の中から引きずり出すよ」
「そんなことすればあなたも化け物よ」
「猟師なんてもんは元から傲慢な化け物さ」
猟師は淡々とそういうと、狼の腹を迷うことなく貫いた。
「そんな刺し方したらおばあさんまで貫いちゃうわ」
「大丈夫、加減はしてある」
そういいながらも、容赦なく進む猟師の手によって狼の腹はどんどん開いていった。
寝ている狼の下へと流れ出る血の塊。
それは見ているだけでも吐き気をようするが、鼻にいやでも入ってくる鉄の臭いがより吐き気を催した。
自分の腹が開きになっている状態にもかかわらず、狼はいまだいびきをかいて寝続けている。
ここまで来ると化け物どころか、既に死んでいるのではないかと思ってしまうほどだ。
しかし、狼がいびきを立て腹を膨らませようとするときに、傷口から血があふれ出るのが彼が生きている何よりの証拠だ。
「ほら、これが君のおばあさんかい?」
ぐちゃという肉をえぐる音と共に、狼の腹から出てきたのは胃液と血にまみれたしわくちゃの手だった。
「きゃっ! それだけじゃおばあさんかどうかは分からないわ」
道子はその手を見て、後ずさりをすると猟師はおかしそうに首をかしげた。
「……それもそうか」
猟師は狼の腹から出ている手を無造作にだが優しく掴むと、そのまま引っ張り上げた。
ずるりという音のあとに現れたのは、血まみれのしわくちゃな老婆だった。
老婆の顔は一見死んでいるように青ざめているように見えたが、時折咳き込む事でその老婆が生きていることをあらわしていた。
「腹の中ですら眠っていられるなんてどういう神経してるのよ」
「こんなところに住む人間なんて、大体そんなもんだろう。現に君だって僕に銃口向けられてもびびりさえしなかったじゃないか」
「ビビッてたわよ」
それに私はここの人じゃないしね。
道子は言葉にせずそんなことを考えていると、老婆の体がびくっと動いて、ゆっくりと目を開けた。
よくよく考えたらお婆さんに会ったのこれが初めてだから、おばあさんの顔なんて知るわけがないじゃない。
「……赤ちゃん?」
「私は立派な十八歳よ」
「そういうあだ名だろう」
「冷静にそういう突込みをされると悲しくなるから、やめてくれる?」
「まあそれはさておき、君の無罪は証明されたわけだ」
道子の無罪を証明をしてくれた当の本人であるおばあさんは、また目を閉じてしまい眠りこけていた。
猟師はそんなおばあさんを丁重に、自分の隣に寝かせると額に手を当て始めて何かを考え始めた。
「さてこの狼をどうするかだな」
「どうしてこいつは石なんか運んでいたのかしら」
「君もこの狼につかまっていたのかい?」
「そうね」
「じゃあきっと君をミンチにするつもりだったんだよ」
「あなたって無表情で残酷なことをしたり、無残なことを口にするのね」
「そんなことないよ?」
そういってにこっと笑った猟師の目は、明らかに無表情のときと変わらなかった。
「ほんと人って残酷」
「そうだいいことを思いついたぞ」
「なに?」
「この石で君をミンチにする代わりに、狼の腹に敷き詰められばいいんだよ」
言うが早いか、猟師は狼のすぐ隣に無造作に置かれてあった石を手に取ると、狼の腹にそれを敷き詰めていった。
「ほんとに容赦ないわね」
「そうかい?」
狼の原に躊躇なく手を突っ込んでいく猟師の手はどんどん血まみれになっていった。
狼もさすがに耐えかねるのか、ときたまうめき声を上げていた。
「それでもこいつは眠り続けるのね」
狼は苦しそうにうめきながらもなお、ねむっていた。
「きっと君が飲ませたお酒のおかげだね、お手柄じゃないか」
「それならもっと褒め称えるような顔をしなさいよ」
「褒め称える顔っていったいなんだい?」
すべての石を敷き詰め終えた猟師は両手を真っ赤にしながら、道子と向き合い首をかしげた。
「その様子を見ていると、手術は失敗したのに私は何もしていませんっていってるやぶ医者みたいね」
「それはいったいどういうことだい。まあ、そんなことよりここからが問題なんだよ」
「どういうこと?」
「どうやってこの狼の腹を閉じるかだ」
「ずいぶんと豪快に開いたものね」
「それなら私に任せておくれ」
二人が頭を抱える思いで、それを考えていると猟師の隣から突然若々しい声が聞こえた。
猟師の隣でどしんと構えて立っていたのは、さっきまで苦しそうに眠りこけていたおばあさんだった。
「お婆さんもう大丈夫なの?」
「何言っているんだい、私はこの通りぴんぴんしてるよ」
「さっきまで死にそうになって寝ていた人が何を言っているのよ」
「それよりお婆さん、任せるっていったいどういうことだい?」
「私はあんたの何倍も生きているんだよ。敬語を忘れるんじゃないよ」
「それをいうなら、この子もお婆さんにため口だったけど」
「赤ちゃんはいいんだよ。それじゃあちょっくら家まで裁縫道具を取ってくるよ」
おばあさんはそう強気で言い放つと、老婆とは思えない速度で森から抜けていった。
「君のおばあさんはずいぶんと活発な上に、君に甘いようだね」
「そうみたいね……」
数分後戻ってきたお婆さんの手には、どこにそんなものを隠していたのかずいぶんと立派な裁縫道具を持ってきた。
「そうか。それでこの狼の腹をふさぐんだね」
「いまさら気付いたの? 縫合するなんて裁縫道具を持ってきた時点で、想像できそうだけど」
「そうかい? そんなこと考えつきもしないよ」
この世界にはもしかしたら腹や頭を開いてまで手術するなんてしないのかもしれない。
「それじゃ、ちゃちゃっとやっちゃうよ。もうページも圧迫しているだろうしね」
「いったい何の話?」
「さあ、私にはさっぱり」
お婆さんは針に惑うことなく糸を通すと、迷うことなく針を狼の開いた腹にぶっ刺した。
「お婆さんも一切躊躇しないのね」
「狼なんかに躊躇してたらこっちがやられちまうよ!」
お婆さんはそう話しながら、超高速で糸を通していくと十分もたたないうちに狼の腹を閉じてしまった。
「さ、終了だよ」
最後に糸止めをしたおばあさんは達成感を味わうように、額の汗を針をもった手でぬぐった。
「これで狼はどうなるの?」
「さあそれは分からない。ただこの狼は相当馬鹿なようだから腹が割れていたことにも気付かないんじゃないかな。で、腹が重くなっていることはお婆さんが消化されたんだと勘違いするさ、きっと」
「そこまで残念かしら、こいつ」
道子はいまだ眠りこけている狼の顔を複雑そうに見つめながら、おばあさんと猟師と共に森を出た。
「さて、お二人さんはどういう関係なんだい?」
お婆さんの家に入り、席に着いた直後に放たれた第一声がそれだった。
「そんなことより私はおばあさんの今の状態のほうが心配だわ」
「私は全然平気だよ」
「お母さんが倒れたって言っていたけれど」
「あの子はいつも大げさなんだよ、その上心配性なんだよ。まったく本当に私の子なのかね」
「間違いなくあなたの子どもよ」
二人とも強気なところがそっくりだもの。
「それで僕と彼女の関係ですが、決してお婆さんが想像しているようなことはありませんよ。僕は空き巣に入ろうとしていた彼女を止めようとしていただけです」
「その言い方だと語弊がありまくりじゃない!」
「うちの赤ちゃんが、空き巣なんてするわけないだろう! なんてたって私の孫だよ!」
お婆さんは胸を張ってそう言い放つと、猟師は残念そうな顔を浮かべおばあさんを見つめた。
「まあ冗談ですけどね。この子が狼から逃げてくれたおかげで、お婆さんは狼から助かったんです。きっと僕だけだったら放置して終わりでしたよ」
「さすが私の孫なだけはあるね」
「そこは認めますよ。ほんとに強い子です」
「なによ、急に手放しでほめたりして」
強くなんかない。
今回だって、流れに乗っていたらうまいこといっていただけだ。
きっと私だけで、この猟師がいなかったら何もできていない。
「僕は素直に思ったことをいっただけだよ」
「やめて」
道子は自虐的な思考に陥りそうになっていたときに、猟師と目が合いそういわれ急におどおどとし始めてしまった。
「そういえばまだ君の名前を聞いていなかったね」
「そうだったかしら」
「そうだ。僕はアラン。君の名は?」
「……道子よ」
自分でも何を思ったのか分からなかったが、思わず答えていたのは自分の名前だった。
そしてその直後、笑った猟師の顔がゆがみ世界が回転し始める。
ああ、ここでの私の役目は終わったのね。
一回目戻されたときとは違い、安らかな気持ちでまるで死んでいくような気持ちで目を閉じた。
まあ死んだことはないけれどね。
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