2-9
体をまとっていた光が消えていくのを感じると同時に、木々がざわめく音、小鳥のさえずりが耳に入った。
そして少し遅れて、土と葉っぱの匂いが鼻を刺激する。
道子はゆっくりと目を開けるとそこは数分前に来ていた小さな木造の家の前だった。
「あそこまで怒らなくてもいいのに」
道子は右手に重さを感じ、ふと見るとその手には母親に渡されたお見舞い箱が握られていた。
しかしその中に葡萄酒はない。
「ということは、ここはおばあさんの家の前ということね。まあわかってはいたけれど」
道子は息を吸い込むと、扉をノックした。
「やっぱり返事はないのね」
扉に手をかけると、扉は音もなくゆっくりと開いた。
さっきまで聞こえていた鳥のさえずりは、これから起こることを察知したのか聞こえなくなっていた。
「おばあさん、大丈夫?」
道子はけだるさを感じながらも家の中に聞こえるように、そういうとキッチンを通り抜けた。
そして寝室に入ると、先ほどと同じようにベッドを膨らませて腹を空かせている狼が隠れていた。
「まったく、おばあさんだけでは満足できないのかしら」
そうぶつぶつとつぶやきながら、ベッドの横にある椅子にお見舞い箱をおいた。
「あら、赤ずきんかい?」
「そうよ、具合はどう?」
「もうわたしゃ歳だねえ。雨の中畑作業をしたらすぐこれだ」
まったくさっきよりましな嘘がつけているじゃない。
「……おばあさん? 一つ聞いてもいいかしら」
「なんだい?」
「どうしておばあさんの耳はそんなに大きいの?」
「それは赤ずきんの声をよく聞くためだよ」
ベッドの中身の狼はそう答えると、ぎょろっとした目を布団から出し道子をじっと見つめた。
「あらおばあさん、どうしておめめがそんなに大きいの?」
「赤ずきんのかわいいお顔をよく見るためだよ」
「じゃあその手はどうしてそんなに大きいの?」
道子は布団から少し出ていた爪が長い毛むくじゃらの手を指さしていった。
「それは赤ずきんが握ってくれた手の感触を忘れないためだよ」
気持ち悪い返答だ。
それならどうして毛でおおわれているというのだ。
顔のほうに視線を戻すと、狼は布団から完全に顔を出していて、よだれたらたらの口をのぞかせていた。
「おあばさん、苦しいの?」
「ああ、お前を早く食いたくて、食いたくて……オホン、大丈夫だよ」
「じゃあおばあさん、どうしてそんなにお口が大きいの?」
「それはね……お前を食うためさ!」
「知ってたわよ!!」
狼が布団から飛び出すのと同時に、道子はベッドから後ろ足で素早く下がった。
狼の一口の攻撃は空振り、狼はそのまま床に顔から落ちた。
「どうして素直に食われないんだ?」
狼は床に顔をつけながら、後ずさる道子をにらみつけていた。
「酒臭いし、獣臭いあなたに食われるなんてやっぱりごめんよ」
世界がまたゆがみ始める。
また最初からやり直し? それもごめんよ。
「それなら、私がここで物語を終わらしてあげる!」
道子は狼に背を向けてダッシュすると、キッチンに置いてある包丁を手に取ろうと、手を伸ばした。
しかしその直後、視界は暗闇でおおわれ体の自由が奪われる。
「こんなこともあろうかと、麻袋を用意しておいたんだ。後でじっくり食べてやろう。俺って超賢いなあ」
暗闇の向こうから聞こえるよだれを垂らす音。
気持ち悪い。
足を縛られたあと、道子はずるずると引きずられながらどこかへと連れていかれていた。
もう何十分、何時間たったかもわからない。
しかし狼がすぐそこにいるのだということはわかる。
「結局、物語を最短ルートで終わらすことはできないのね」
「何ぶつぶつ言ってやがる!」
「そうね。私を食べるならデザートでも探してきたほうがいいんじゃない?」
「デザート? どうしてだ」
「おばあさんが前菜、私がメインディッシュ。それならあとはデザートが必要でしょ?」
「なるほどな……。おまえ賢いな、逃げるんじゃねえぞ! 逃げたらそこですぐに食ってやる!」
どたどたと下品な足音が遠ざかるのを聞くと、道子はほっと息を吐いた。
「確かこの後は、猟師がきておばあさんもろとも助けてくれるのよね……」
しかし何分たっても猟師が来る気配はない。
「ちょっと早くしないと、あいつが帰ってきちゃうじゃない!」
道子は焦りを隠せず袋の中でばたばたとした。
しかし袋は破れることなく、ただ袋の中に熱気が充満するだけだった。
「もしかして私が食べられたのではなく、捕えられたから物語が変わったというの? もしかして猟師はどれだけ待ってもここには来ない?」
物語が改変されてるのであれば猟師はどれだけ待っても来ない可能性のほうが高い。
そもそも人を信じようとしたのが間違いだったのかもしれないわね。
「そうね、私が間違っていたわ」
まずはここから出ることを考えないと。
まずはこの縛られている足を何とかして自由にしないと。
「意外と、この袋広いのね」
冷静になると、いろんなものが見えてくる。
道子は横っ腹がつりそうになるのを耐えながら、体を折り曲げた。
「やっぱり、これくらいなら手が届く」
結び方は複雑ではないなんでもない片結びだった。
ただ、一つだけ問題があった。
「あの狼、頭は悪いのに力だけ馬鹿みたいにあるのね」
片結びは普通の人間ではありえないほどに、固く結ばれていた。
「早くしないと、いつあの狼が帰ってくるか分からないものね」
いくら酔わせているとはいえ、麻袋を用意するあたり多少の冷静さは残っているのだろう。
そうだとすればいつ逃げるかもわからない新鮮な食事を、想長くほうっておくとは考えにくい。
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