2-5
数十分後、一冊の本を抱きかかえて戻ってきたムーグリルの姿はうきうきとしていた。
「やっと戻ってきたの。ずいぶん時間がかかったのね」
「君の修理処女作だからね。そりゃ慎重に時間もかけたくなるさ!」
「変な風な言い方しないで」
ムーグリルは一瞬きょとんとした表情を見せると、その後すぐににやにやとした表情に変え、ゆっくりと道子に近づいてきた。
「道子ちゃん、それはいったいどういうことかな? お兄さんよくわからないから詳しく教えてくれないかな?」
「うるさいわね変態! それにちゃん付けしないで、気持ち悪い」
道子は頬が熱くなっていくのを感じながら、ムーグリルから顔を背けた。
「気持ち悪いとは傷つくなあ」
「うるさいわね。それで一体何を持ってきたのよ」
道子はどこか気まずくなってしまった雰囲気を変えるために、話の話題を変えた。
「そうだった! まだ見せてなかったね! 君が修理する本はこれだよ!」
そういってムーグリルが勢いよく、道子の目の前に差し出してきた本は、表紙の上に大きく『赤ずきん』と書かれた本だった。
しかしその本は背景の森の絵はあるものの、おそらく主人公である赤ずきんが映っているはずの、表紙の真ん中は真っ白になっていた。
「確か狼に食べられる話よね」
「そうだね! 『赤ずきん』は童話の中では知られすぎた有名作品の一つだ」
「それでどうしてこれは真ん中が真っ白になっているの?」
「実はこの『赤ずきん』のストーリーに不満を持った赤ずきんが、この本から逃げ出してしまったんだ」
「本から逃げ出すとか、そんなことあり得るの!?」
「ふつう考えられないことだけど、実際に起きてしまったのだから仕方がない。通常本から消えてしまった登場人物は、自分の意思を保てなくなって、消失してしまう。しかし今回の赤ずきんは本から抜け出しても、自分の意思と自我を失わずどこかをさまよっているんだ」
本から主人公が逃げ出す話など、聞いたことがなかった。
「そもそも本から抜け出せる箇所があった時点で、この本は修理する必要があったんだけどね。どういうわけか修理が遅れちゃったんだ」
「それってもしかして、あなたがさっき言ってた選別のミスとかっていうことはないの?」
「…………」
ムーグリルは一瞬真顔になり、道子を見つめた。
道子はその真剣なまなざしに思わず一歩退く。しかし後ろはソファに阻まれている。
逃げ場がないと悟ったその直後、ムーグリルは舌をペロッと出すとこぶしをこめかみにあて、ウインクをした。
「はあ……それで私はいったい何をすればいいの」
「まさかのスルーかい!?」
「そんな気持ち悪いの何も突っ込めるわけないじゃない!」
「また気持ち悪いといったね!」
「もういいから早く教えなさいよ!」
ムーグリルは一瞬何かを我慢するように歯を食いしばると、息を吐きだし道子と向き合った。
「道子には『赤ずきん』になってこの物語を最初から最後まで主人公として、生きてほしいんだ」
「……はあ!?」
主人公なんてできるはずがない。
そんな大それたことができるのならば、道子は一人で生きようなんて思わなかっただろう。
「大丈夫、知っているストーリーを最初から最後まで筋書き通りにすればいいだけだから」
「そう簡単にいうけどね!」
そう言っている間にムーグリルは、内ポケットから何かを引っ張り出した。
「あなたのポケットは四次元なの?」
内ポケットからするすると出てきたのは、真っ赤に染められたずきんだった。
「これってもしかして『赤ずきん』の……」
「そうみたいだね。これが今回の『鍵』みたいだ」
「これが鍵?」
てっきり仰々しい大きな鍵でも渡されるのかと思っていた道子は拍子抜けだった。
「これを被ればいいの?」
「道子が思うようにしたらいいんじゃないかな」
ムーグリルはそういって赤ずきんを渡すと、道子から一歩離れた。
「どうして離れたの?」
何か危険なことでもあるのだろうか。
「大丈夫、特に何の意味もないから安心して」
「本当でしょうね」
道子はムーグリルを疑うようににらみつけながら、ゆっくりと赤ずきんを被る。
「……ほら、何も起きなかったでしょ?」
「そうね」
制服を着た上から赤ずきんを被るのはとんでもなく不格好だ。
今すぐにでもこれをとってしまいたかった。
「大丈夫、ものすごくにあってる」
「それは私にはこれくらいのものがちょうどいいということかしら?」
「道子、なんだかどんどん毒舌になっていくね」
「そうかしら?」
「……まあいいや、本を開いてもいいかい?」
「……どうぞ?」
道子の体に少し力が入る。
ムーグリルは慎重に本の表紙に手をかけると、その表紙をゆっくりとめくった。
その瞬間、本は崩れるでも宙に浮くでもなく、開いた箇所から大量の光があふれだし、道子の体を包んだ。
そして次の瞬間、道子の視界はゆがんだ。
道子はゆがんでいく目の前の風景に恐怖を感じ、思わず目を閉じていた。
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