一億年ボタンを連打した俺は、気付いたら最強になっていた ～落第剣士の学院無双～

二：落第剣士と剣術学院 １

　──声が聞こえた。

「アレ……起……っ！　何時……と思っ……早……起き……！」

　何を言っているのかはよくわからないけど、なんとなく俺を呼んでいるような気がした。

　そのままゆっくり目を開ければ、青い空がぼんやりと見えた。

　どうやら、仰（あお）向（む）けになって寝（ね）ているらしい。

（あれ……？　俺は、何を……？）

　ぼやけた視界が徐（じよ）々（じよ）にはっきりしていき、それに伴（ともな）って他の感覚も戻（もど）ってきた。

　ひんやりした土。草葉の青いにおい。カラカラに乾（かわ）いた口内。眩しい太陽の光。

　そして──俺を呼ぶ声。

「──アレン！　おい、早く起きな！　全く、どこで寝てんだい!?」

　目の前には、上から覗（のぞ）き込むようにした寮（りよう）母（ぼ）のポーラさんの姿があった。

「っ!?」

　俺は慌（あわ）てて跳（は）ね起き、

「い、今、何年何月の何時何分だ……!?」

　すぐさま現在の時間を確認した。するとポーラさんは、呆（あき）れたようにため息をつく。

「はぁ……アレン？　あんた、まだ夢を見てんのかい？」

「あっ、いや、そうか……終わったんだ」

　俺は十数億年の修（しゆ）業（ぎよう）を終え、この現実世界に帰ってきたんだ。

「そうだ、時の仙（せん）人（にん）は……!?」

　慌てて周囲を見回したけど、彼の姿はどこにもなかった。

「あ、れ……？」

「と、時の仙人……？　アレン……あんた、ほんとに大（だい）丈（じよう）夫（ぶ）かい？」

　呆（ぼう）然（ぜん）と立ち尽（つ）くす俺に、ポーラさんは優（やさ）しく声を掛（か）けてくれた。

「いやその……す、すみません……」

「そういや、えらくうなされていたけど……悪い夢でも見たのかい？」

「そうかも、しれません……」

　もしかすると、あれは夢だったのかもしれない。いや、きっと夢だったに違いない。

　常識的に考えて、一億年ボタンなんてあるわけがない。

「悪い夢なら聞いてやるよ。そうすりゃ、現実にゃならないからね」

「……あまり詳（くわ）しく覚えてないので、その……すみません」

　噓（うそ）だ。本当はこれ以上ないほどはっきりと覚えている。

　だけど、あんな荒（こう）唐（とう）無（む）稽（けい）な話をしたってきっと笑われるだけだ。

「そうかい。それなら、さっさと寮へ戻んな！　とっくの昔に朝ごはんはできてんだよ？　早く食べてくれないと、片付きゃしない！」

　彼女はそう言って踵（きびす）を返し、寮の方へ歩いていった。

「す、すみません……」

　平謝りをしながら、彼女の後を追おうとしたそのとき──視界の端（はし）に妖（あや）しく光る赤色のボタンが映った。見間違えるわけがない。あれは……そう。

「一億年ボタン!?」

　思わず、体が震（ふる）えた。

（もしかしてアレは、夢じゃなかったのか……!?）

　生（なま）唾（つば）を飲み込み、ゆっくりとそれを拾い上げる。

「ふー……っ」

　そして二、三度深呼吸をしてから、意を決してボタンをグッと押し込んだ。

　しかし──何も起きなかった。

「まぁ、そうだよな……」

　時の仙人も、一億年ボタンも、時の世界も──やっぱり全部夢だった。そりゃそうだ。あんなおとぎ話みたいなこと、現実に起こるわけがない。そうしてポイッとボタンを投げ捨てたそのとき──あることに気が付いた。

　一億年ボタンに大きな太刀傷のようなものがついていたのだ。

（あれ……？　こんな傷、あったっけ……？）

　もう一度じっくり見ようと、投げ捨てたボタンの方へ近付けば、

「こらっ、アレン！　なに道草食ってんだい！　早く来な！」

　前方から通りのいいポーラさんの声が聞こえた。

「は、はい！」

　それから俺は奇（き）妙（みよう）な輝（かがや）きを放つボタンはそのままにして、彼女の後を追って寮に戻った。

　　　　■

　ポーラ＝ガレッドザール。

　俺が住んでいる寮の寮母さんだ。身長二メートルを超（こ）える巨（きよ）軀（く）。迫（はく）力（りよく）のある顔立ち。黒いシャツの上に真っ白いエプロン。常に腕（うで）まくりをしており、そこから見える二の腕は俺の三倍はある。一見するととても怖（こわ）くて近寄り難（がた）いけど、実際はとても優しい人だ。

　寮に戻った後、彼女の作ってくれた朝食を平らげた俺は両手を合わせる。

「──ごちそうさまでした」

「あいよ、今日もよく食ったね！　いいこった！」

　彼女は俺の背中をバシンと叩（たた）いて豪（ごう）快（かい）に笑う。

「っと、そういえばあんた……学校は大丈夫なのかい？」

「っ!?」

　その瞬間、心臓がドクンと跳ねた。

　そう言えば……今日は朝九時から、ドドリエルと決（けつ）闘（とう）をする約束があった。

「い、今何時ですか!?」

「んー、七時五十分だね」

　ポーラさんはそう言って、壁（かべ）掛け時計を指差す。

「そ、そんな……」

　ここからグラン剣（けん）術（じゆつ）学院まで、どれだけ急いでも三時間はかかる。後一時間ちょっとでは、到（とう）底（てい）間に合うわけがない。『決闘』というのは、単なる口約束ではない。剣術学院で定められた制度の一つだ。試合開始から一秒でも遅（おく）れたらその瞬間に不戦敗となってしまう。

（多分……いや、確実に間に合わない）

　でも、だからと言って部屋で不（ふ）貞（て）腐（くさ）れてはいられなかった。『行かない』という選（せん）択（たく）肢（し）はない。ドドリエルの奴（やつ）に『逃（に）げた』と思われるのだけは絶対に嫌（いや）だ。

「い、行ってきます……っ！」

「気を付けな、怪（け）我（が）すんじゃないよ？」

「はい！」

　それから俺は勢いよく寮を飛び出し、必死になって走った。走って走って、無我夢中のままに走り続けた。

（……あれ？　なんかいつもより、体の調子がいいな）

　一歩また一歩と前に進むたび、景色がどんどんと変わっていく。

　その後、なんとか学院に到（とう）着（ちやく）した俺は、すぐさま第二校舎の決闘受領所へ向かった。

「──お、遅れてすみません！　今日の朝九時から決闘をする予定のアレン＝ロードルです！　受付はまだやっていますか!?」

　俺が泡（あわ）を吹（ふ）いてそう言うと──眼鏡を掛けた受付の男性は、手元の紙に目を落とし「おや？」と首を傾（かし）げる。

「これまた随（ずい）分（ぶん）と早く来ましたね。まだ試合開始の一時間前ですよ」

「……え？」

　思わず、間（ま）抜（ぬ）けな声を出してしまった。

「い、一時間も前……ですか？」

　そんな馬（ば）鹿（か）なことあるわけがない。

　俺が家を出たのは七時五十分。たったの十分で学院に着くわけがない。

「えぇ、ほらこの通り」

　彼がそう言って指差した置き時計は、確かに八時を指していた。

（本当に、十分しか経ってない……。もしかして寮の時計が壊（こわ）れていたのだろうか……？）

　とにかく助かった……。これで不戦敗だけは免（まぬか）れることができた。

　後は持てる力の全（すべ）てを──これまでの努力をドドリエルにぶつけるだけだ。