一:一億年ボタンと時の世界 2

 あわてて顔を上げるとそこには、背の低い老人が立っていた。とうはつまゆひげも全てが真っ白。こしもはっきりと曲がっており、片手でつえをついている。何より不気味だったのは、ここまで近付かれているにもかかわらず、全く気配を感じなかったことだ。

わしか? 儂はそうじゃのぉ……言ってみれば、『時のせんにん』みたいなもんじゃ」

 なぞの老人はそう言って、地面につきそうなほど長く立派な髭をわしゃわしゃとんだ。

「さて、若きけんよ。どうじゃ? 悩みがあるのなら、この老いぼれに話してみんか?」

「……あんたに話しても何も変わらないさ」

「じゃが、一人でかかえても苦しいだけじゃないか? だれかに話すだけでも、存外に気は楽になる。なぁにえんりよはいらん。どうせ相手は、かんおけに片足を突っ込んだじいじゃてな!」

 いったい何がしいのか、彼は「ひょっほっほっ!」と楽しげに笑う。

「……そう、かもな」

 半ば自棄やけになっていた俺は、今の絶望的な状況をゆっくりと語り始めた。

 自分には剣の才能がないこと。剣術学院でいじめられていること。故郷に残した母のこと。明日の決闘のこと。そうやってこれまでずっとめ込んだものを全て吐き出すと、確かに少しだけ気が楽になった。

「なるほどのぉ……。それであれほど落ち込んでいたというわけか……」

 時の仙人は俺の話を馬鹿にすることなく、ちゃんとしんけんに聞いてくれた。

 年の功というやつか、案外聞き上手な老人だった。

「ふむ、しかしそれならば……少し力になってやれるかもしれんぞ?」

「……どうやってさ」

 こんな絶望的な状況をひっくり返す大逆転の一手。そんなほうのようなものがあるのなら、とも教えてほしいものだ。

 すると時の仙人は、その皴の入った顔をグニャリとゆがめた。

「ほほっ、それはの──こいつを使うんじゃよ」

 彼はそう言って、ふところからにぎりこぶしほどの赤いボタンを取り出した。

「……なんだ、それ?」

「『一億年ボタン』──世にもめずらしき魔法のアイテムじゃ」

「一億年ボタン……? 魔法のアイテム……?」

「そうじゃ。このボタンを押した者は、いつしゆんで一億年修業したのと同じ効果が得られる! それはそれはありがたーいアイテムなんじゃ!」

「……さんくさいな」

 そつちよくな感想だ。

「まぁまぁ、話だけでも聞いとくれ。老い先短い爺の頼みじゃて……な?」

 時の仙人はそう言って、両手をり合わせて頼み込んできた。ついさっき散々自分の話を聞いてもらったばかりだし……。ちょっとぐらいなら、と話を聞いてみることにした。

「わかったよ。なるべく手短にしてくれよな」

「おぉ、聞いとくれるのか! ありがたや、ありがたや!」

 それから彼はゴホンとせきばらいをして、一億年ボタンについて語り始めた。

「一億年ボタンを押した者は『異界』へ移動し、そこで文字通り『一億年』の時を過ごす。その世界では、それはもう自由じゃ。ただボーッとするもよし。めいそうするもよし。ひたすらに修業をするもよし。なにせ時間だけは、たーっぷり一億年もあるんじゃからのぅ」

「一億年の間、ずっと修業ができる……?」

 今の俺にとっては、まさに夢のような話だ。

「うむ! そこには家もあればどこもある──大きな浴場もじゃ! それに加えて、食料の心配もいらんぞ? なんと無限に食料がき続ける魔法のしよくりようがあるんじゃ! さらに異界ゆえな、寿じゆみようの心配もいらん!」

「……っ!」

 しんしよくも満たされ、時間はたっぷり、おまけにとしまで取らないときた。

 あまりにも理想的過ぎるかんきように、俺は思わずなまつばを飲み込む。

「ひょほほ! どうじゃ、すごいじゃろ?」

 一通りの説明を終えた時の仙人は、ズイッと一億年ボタンを突き出した。

 俺はその赤いボタンをジッと見つめる。

(もし、もし本当に一億年も修業することができたら……)

 あのドドリエルにだって、勝てるかもしれない……っ。

 四年や五年程度の短い時間では、とうていやつに追い付くことはできない。

(だけど、一億年もの時間があれば……。俺みたいな才能のない剣士でも、あの天才に追い付ける──いや、追いせる!)

 そこまで考えたところで、フッと現実に引きもどされた。

 自分がどれだけ馬鹿なことを考えているのか、それを理解してしまったのだ。

(あまりに話が出来過ぎている……。全く、何を真剣になっているんだか……)

 おとぎ話じゃないんだ。そんな夢みたいなことが、現実に起こるわけがない。

「それで……話はそれで終わりか?」

「おや……? お眼鏡にかなわんかったかの?」

「凄いと思うよ。……その話が本当ならな」

うそではないぞ! 儂は生まれてこの方、一度も噓をついたことがない!」

「そうか、それは凄いな」

 俺はそこで話を打ち切り、再び剣を取って素振りを始めた。

 どうせ勝てないとわかっているけど、せめてできる限りのことはやりたかった。

「むぐ……っ。一度だけ、一度だけで良いから押してみてはくれんか? 老い先短い爺の頼みじゃて……!」

 時の仙人は、両手を擦り合わせてこんがんしてきた。

 まさかここまで必死に頼み込んでくるとは、少し予想外だった。

「はぁ……。わかった、わかったよ」

 一度だけ押せば、それで満足するだろう。そうして何の気なしにボタンへ手をばしたそのとき──時の仙人がとつぜんな顔をして口を開いた。

「──若き剣士よ。一つだけ忠告をしておこう」

「まだ何かあるのか?」

「決して……決して自害だけはしてはならんぞ? この先は異界とはいえ、お主の体はそれ一つ。死ねばそこで終わりじゃ」

 いったいどういうわけか、彼はえらく真剣な表情でそう念を押してきた。

「はいはい、わかりましたよっと」

 そうして俺は、時の仙人が持つボタンを押した。──いな、押してしまったのだ。

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