第10話自身への祝福

 新しい年もあっという間に過ぎ、岩岡がホームレスに落ちぶれてから五年が経った。六十二歳になった岩岡はその後も人を助け続け、仏像の残金も一億円になっていた。そんなある日、岩岡が職場のハンバーガーショップに行くとスーツを着た男性に声を掛けられた。

「店長の岩岡武ですか?」

「はい、私が岩岡です。」

 岩岡が名乗ると男は名刺を出した、そこにはハンバーガーショップの本社の営業課に所属していることが書かれていた。

「本社の方でしたか、お疲れ様です。」

「ありがとうございます、今日は大切なお話をしに参りました。」

 岩岡はこの時が来たか・・・、と覚悟していた。あと約三年で定年を迎える岩岡、そろそろ新しい店長候補を探しておかなければならない。岩岡と男性は裏の一室に入り、話し合いを始めた。

「もうすぐ定年を迎えここを辞めなければならないという事は、承知していますか?」

「はい、承知しています。」

「新しい店長に任命できそうな方はいませんか?」

 岩岡には一人候補がいた、赤川浩二郎という大学生だ。

「赤川という者がおります、彼は人柄もよく人をまとめるのが得意な人です。個人的にここまでできるバイトは、いないと思います。」

「赤川ですか・・、では後程仕事ぶりを見させていただきます。次はあなたについてのお話です。」

「はい、何でしょうか?」

「あなたはもうすぐ定年ですが凄く優秀な人材です、生活的にこれからもお金がかかるでしょう。そこで我が本社で、正社員として働いてみませんか?」

 岩岡はえっ!と驚いた、ここで正社員へ昇格の話が来るなんて・・。

「・・・わかりました、考えさせてください。」

「いいですよ、ただし月末までには答えを出してください。」

 男は本社に戻っていった、そして数時間後に岩岡は帰った。マンションの部屋に入り、その日男から言われたことについて考えた。

「正社員になればかつてほどではないが、今より良い生活ができる。だけどそうなると、ここから引っ越すことになるなあ・・・。」

 岩岡はここを離れることに頭を悩ませていた、ここにはかつての自分を助けてくれた董さんがいるし、なによりこの近所には温かい思い出が多少はある。引っ越しをするには苦は無いが、離れるには苦があった。結局その日岩岡は、答えを出せずに眠りに着いた。

「岩岡よ、聞こえるか?」

「ん・・・・?」

 呼びかけに起こされ岩岡が目を開けると、そこには毘沙門天が堂々と仁王立ちしていた。

「毘沙門天様!」

「そなた、何か悩んでいるようだな。それがしに話してみよ。」

「実は私は今までアルバイトをしていたのですが、実力が認められて正社員にならないかという話を持ち掛けられました。でも正社員になるとおそらくここを引っ越すことになるので、ここを離れてしまいます。」

「ふむ、そなたはこの町が好きなのか?」

「はい、今まで助けてきた人との温かい思い出があります。」

 毘沙門天は腕を組みながら考えると、岩岡にこう言った。

「それではこの事を、今まで関わった人達に話してみてはどうかな?」

「話してみるですか・・・。」

「そうじゃ、その結果でそれがしの進む道を決めるのだ。まあ決定する権利は、我ではなくそれがしにのみある。よくかんがえることだ。」

 岩岡はここで目を覚ました、明日から毘沙門天に言われた事をやってみることにした。

 翌日、岩岡は朝早くハンバーガーショップに来て本社に電話を掛けた。そして正社員雇用の件について尋ねると、やはり引っ越しは絶対条件になるという事だった。

「そうですか・・、朝早くすみませんでした。」

「無理に決めなくてもいいですよ、別に強制という訳ではありません。月末までには考えてくれればいいんです。」

 電話が切れると岩岡はいつもの業務を始めた。


 そして翌日、この日はバイトが休みなので毘沙門天に言われたとおり、誰かに打ち明けることにした。まずはマンションの管理人の董さんから。董さんの所に行き、ソファーに腰掛けて話が始まる。

「実はこの度、正社員にならないかと言われているんです。」

「凄いじゃない!正社員になれば生活は安定になるわ。」

「でも正社員になると、ここを出ていくことになるんです。」

「そんなの気にしなくていいわよ、岩岡さんには感謝してる。私が反対する理由なんてないもの。」

 董さんは認めてくれた、次は柴田だ。柴田のマンションは最近リフォームを終え、中州らが入居してくれたので凄く景気がいいらしい。柴田に会うと、先程と同じ会話が始まった。

「実はこの度、正社員にならないかと言われているんです。」

「ほう、確かあなたは雇われ店長でしたな。それは大した出世だな。」

「でも正社員になると今いるとこから、引っ越さなければならないんです。」

「なあに気にするな、出世と左遷に引っ越しはつきもの。私らが幸せになったんだから、今度は岩岡さんが幸せになればいい。」

 柴田さんも認めてくれたけどでも次はかなり気が重い、元妻の恵と娘の文香だからだ。尋ねると恵の両親と面倒なことになる可能性があるので、電話で岩岡のマンションに来てもらうことにした。あの日以降、文香は時々岩岡の部屋を訪れているが恵はまだ岩岡の部屋には来ていない。岩岡は元家に電話をかけ、来週に文香と恵がくることになった。


 そして来週、岩岡の部屋に文香と恵がやってきた。

「あなた・・・、久しぶりね。」

「ああ、離婚以来だな。こうやって会うのは。」

「とにかく上がろう。」

 文香に促され恵は岩岡の部屋に上がった、岩岡がお茶を入れて話が始まる。

「パパ、昨日言っていた大事な話って何?」

「私がハンバーガーショップで店長になったという事は、知っているな?」

「うん、ママも知ってる。」

「娘から聞いているわ、やっぱり出世するのが得意なようね。」

「それで実は、本社から正社員として働かないかと言われているんだ。」

「えっ!!それってそのハンバーガーショップの本部で働くということだよね・・?」

「そうよ、あなた良かったじゃない!これでまた人並みの生活ができるわ。」

「そこなんだけど・・・、正社員として働くにはここから引っ越さなければならないんだ。もし引っ越したら、二人の顔を見れなくなってしまう・・・。」

 岩岡は寂しそうに俯くと、文香が机をバシッと叩いて言った。

「どうしてそんなことで悩むの!!離婚する以前だって、仕事の都合でせっかくの旅行を中止にしたことがあるじゃない!!」

 文香のあまりの剣幕に、岩岡はたじろいだ。

「文香、何もそんなにきつく・・・。」

「分かってる、家族のためだもんね。でも血は繋がっていても私とパパはもう赤の他人、気を使わなくてもいいんだよ。」

 文香は岩岡に優しく言った、これで岩岡にようやく決心がついた。


 その日の夜、夢の中に毘沙門天が現れた。

「決心はついたか?」

「はい、正社員に成ります。」

「そうか、それならその準備のために仏像の金を使ってもいいぞ。」

 毘沙門天が言うと、岩岡は頭を下げた。こうして岩岡に祝福が訪れた。

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