第4話 不吉の影
4月、猿山一郎が冠番組を得て絶好調の波に乗った、ちょうどその頃からだった。
猿山は、どことはいわず、一人でいる時にふと誰かの視線を感じるようになった。
テレビ局の楽屋で、廊下で、家の居間でくつろいでいる時に、
背後から誰かが見ているような気がして、振り向くと、誰もいない。
おかしいなあ、と思ったが、まあ気のせいだろう、と考えた。
その時はたまたま一人でも、周囲には誰かしらいた。常に忙しく人が行き交っているテレビ局はもちろん、
猿山には一緒に暮らしている、結婚を考えている恋人がいた。
笹原真弓という、旅行会社の支店に勤めるOLだ。猿山より2つ年上で、これまでろくに稼ぎのなかった猿山を経済面でずっと支えてくれてきた。特別美人でもないが、感じのいい女性で、一緒にいると心が安らぐ。
猿山はレギュラーを得た機会に、きちんとプロポーズして、正式に籍を入れようかと考えていた。
それはちょっと、遅きに失したようだ。
最近急に忙しくなって二人でゆっくり食事をするのもままならない状態が続き、ようやく時間が空いて、近所の洋食屋で夕食をとることにした。
その席上、猿山からプロポーズしようと思っていたのだが、どうも真弓は調子が良くないらしく、注文もあっさりした控えめの物だった。
「なんだよ、もう金の心配しなくていいんだからさ、もっと豪華なの頼めよ?」
猿山が冗談まじりに言うと真弓は静かに微笑み、料理が揃って、猿山はワイン、真弓はミネラルウォーターで乾杯すると、真弓が言った。
「あのね、わたし、…………できちゃったみたい……っていうか、できちゃったんだけど…………」
上目遣いに反応を伺う真弓を、猿山はギョロ目をまんまるにして見つめた。
「ほんとか?」
「うん……」
猿山は天井を仰いで後頭部に手をやった。
「まいったなあ」
そして、スーツの内ポケットから四角い布ばりの小箱を取り出すと、腕を伸ばして真弓の前のテーブルに置いた。
「かっこわりいじゃねえかよ」
「開けていい?」
猿山は頷き、真弓は箱をパカッと開けた。中にはダイヤの指輪が入っていた。
「わたしに?」
「俺におまえ以外、誰がいるんだよ」
「ありがとう。嬉しい……」
「こっちこそ、ありがとう」
二人にとって生涯の思い出となる食事になった。
猿山の頭から、妙な視線のことなど、すっかり消え去っていた。
7月。そろそろあのロケから1年が経とうとしていた。
あのロケの取材を担当したのは「V(ブイ)メディア」という映像制作会社で、番組制作の下請けの下請けという立場の、社員20名ほどの会社だった。
その日、Vメディアは2つのVTR制作の仕事を受けていて、10名ずつ、2つの班に分かれて、それぞれ関東北部と中部地方にロケに出かけていた。
奇しくも両方とも夜景の撮影があって、帰宅の途についたのはどちらも11時を過ぎていた。
どちらも車2台、前後に連なって、交通のまばらになった国道を走っている時だった、前の1台が大型トラックの後ろについてしまい走りづらいなあと思っていると、突然トラックが急ブレーキをかけ、2台の車は次々衝突してしまった。
それが11時40分。両方ともである。そっくりの状況で、同じ時刻に、同じ事故に遭ったのだ。
どちらも警察の検証を受けて、急ブレーキをかけたトラックの運転手は、
「急に視界が暗くなって前がよく見えないなと思ったら、赤い光が迫ってきて、てっきり前の車がブレーキをかけたと思ったんで、こっちも慌ててブレーキを踏んだんです」
と、同じような証言をした。どちらの運転手もアルコールの反応はなく、薬物の反応もなかった。
衝突した2台掛ける2班、全員が首を傷めて病院行きになった。
中でも8人、特にひどく、
事故後、社に連絡して、もう一方の班でも同じような事故を起こしていたことにお互いに驚いて、
「ひどい目にあったなあ」
とお互いにいたわり合ったのだが。
翌日、大半の者が首にギプスをした異様な状態で会社に集まって、そこで、
「なあ、これって、もしかして……」
と、青い顔を見つめ合った。
特にひどく首を傷めた8人というのが、全員、O公園のロケに参加していたメンバーだったのだ。
あのロケからちょうど1年になろうかという頃だ。
「おいおい、今さらかよ? 勘弁してくれよ……」
ひどい目にあったと思いながら、これで自分たちの祟りは終わりであってほしいと強く思った。
猿山の好調は続いていたが、やっぱり思い出したように視線が気になった。
やはり子どもができたというのが気持ちを弱くしたのか、以前よりもやたらと気になり出した。
視線を感じると、さっ、と素早く振り向いた。
誰もいない。
楽屋で、廊下で、居間で。
しかし、ちょっとした暗がりに、何者かが身を潜めてじっとこちらを伺っているのではないかと、じいっと、疑り深く、念入りに見つめるようになった。
そして、鏡だった。
テレビ局でトイレに入り、用を足して、手を洗い、何気なく前の鏡を見ると、ふっ、と、黒い影が後ろを横に去るのが見えた。
急いで影が去って行った方を見ても、やはり誰もいない。
しかし猿山のこめかみには冷たい汗が流れていた。
それから猿山は鏡の中に頻繁に黒い影を見るようになり、家の風呂場で体を洗っているとき背後に立っているのを見た時はさすがに声を上げてしまった。
「幽霊なんかいるか!」
と豪語していた猿山だったが、
どうやらいたようだ、
と、認めざるを得なかった。
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