第47話 太守
その場のノリで開かれた宴会は、三日三晩続いた。二日目には裸瑠馬州各地から集まってきた兵士達が加わり、さらなる盛り上がりを見せた。街には四六時中トゥバンを称える声が響き、歓喜が渦を巻く。が、その称賛の対象はと言うと――
「おはようございます。」
トゥバンは目を瞬いた。目の前には恐ろしく怖い顔をしたナーリー。彼は引きつった笑みを浮かべた。
「お、おはよ……」
重い沈黙。トゥバンは笑顔を引っ込め、神妙な顔してうつむいた。
「今日、何日だと思いますか?」
トゥバンは上目遣いにちらりとナーリーの顔を見る。
「……七日、とか?」
「八日ですっ!」
寝台がパァンと叩かれて、トゥバンはビクリと震えた。ナーリーが凄まじい剣幕で互いの鼻が触れるスレスレまで身を乗り出す。
「何なんですかあなたは!無理するな無理するなって言うそばから無理して!前は二週間、今度は二日!こんなこと続けてたら死にますよ!?体力も戻ってないのに無茶して、あなたはバカなんですか!バカなんですか!?ねえ!」
澄んだ香りにドギマギしながらトゥバンは目を伏せた。
「……返す言葉も……ございません。でも、あの――」
「何ですか?」
「ちょっと、近すぎるような……」
ナーリーはハッとして矢のように遠ざかった。下を向いてパタパタ服をはたく。その小麦色の頬は、ちょっと赤みがかっているように見えた。トゥバンは、何か見てはいけないものを見たような気がしてパッと顔を伏せる。気まずい沈黙……扉が叩かれる音。二人とも互いの方を見ないようにしながら扉の方を見た。
「トゥバン殿、太守様がお呼びです。」
トゥバンは反射的に傍のナーリーに目線を飛ばす。目が合った。ナーリーはパッと顔を背け、慌ただしく立ち上がる。
「で、では私はこれで!」
そうしてパタパタと部屋から出て行ってしまった。開いた扉から兵士の顔がひょっこり出てくる。
「今行く。」
応えてトゥバンは寝台から下りた。
廊下を進む。前をゆく兵士は一言も発しない。
「何の用なんだ?」
と聞けば、
「着けば分かります。」
と帰ってくるのみ。ただただ廊下を進む。奥へ、奥へ。やがて二人は中庭に面した回廊に出た。何の気なしに中庭に目をやって、トゥバンは思わず息を呑んだ。もう冬だというのに、色とりどりの花が咲き乱れ、蝶が舞っている。無邪気で、この上なく平和なその様はまるで夢のようで、この上なく美しかった。
「トゥバン様。」
我に返って振り向くと、兵士が回廊の突き当たり、黒い扉の前で待っていた。彼は眉をひそめた。
「トゥバン様、それは……?」
「え?ああ……」
トゥバンは慌てて頬の涙を拭う。自分でも気づかぬうちに泣いていた。
「気にしないでくれ……少し、懐かしくなった。」
兵士は表情を緩め、扉を指し示した。
「分かりました。では、こちらへ。太守様がお待ちです。」
トゥバンは頷いて扉へ向かう。扉には、優美な花の彫刻がいっぱいに施されていた。それが二つに割れ、光に満ちた明るい部屋が現れる。その奥、窓からの光にいっそう明るく照らされて、一人の老人が寝台に起き上がっていた。
「トゥバン殿、よう来なさった。」
彼は柔らかな笑みを浮かべる。トゥバンは、目を見張った。目の前の老人が、今まで会ってきたあの老人と同一人物だとは到底信じられなかった。目の前の彼は、確かに太守の風格を纏っていた。
「さ、こちらへ。」
トゥバンは言われるがままに足を進める。背後で扉が閉まった。少し部屋が暗くなる。
「座りなされ。」
言われるがままに寝台のそばに腰掛け、太守の顔を見つめる。彼はフフンと笑った。
「信じられない、といった顔ですな。」
トゥバンは目を瞬く。ウェクジンはファッファッファッ……と苦しげに笑う。
「無理も無い。今まで散々情けない姿を見せて参りましたから……」
再び笑い声が響いた。
「……今日は、何の用だ?」
ウェクジンは笑い止み、トゥバンの顔を見やった。目が合う。
「今日は、お願いがあってあなたを呼ばせて頂いた。」
トゥバンは首を傾げる。ウェクジンは言葉を続ける。
「ずばり、この裸瑠馬州を頼みたい。」
「な……!」
トゥバンは目を瞬いた。口が開く。一瞬の間。
「そ、それはどういう……」
老人は笑う。
「言葉通りの意味ですじゃ。私の死後、この
「そ、それは分かってます!でも、何故……なぜです?」
老人は静かに目を閉じた。
「中庭は見られたか?」
トゥバンは頷く
「はい。」
老人の口が綻んだ。
「綺麗だったろう。」
「は……」
トゥバンは老人の意図が読めなくて、少し首を傾げた。
「わしはな、あの庭を守りたい。平和で、無邪気で……」
老人は目を開ける。
「あなたは、たった一人で敵に立ち向かい、そして一滴の血も流さずに勝った。あなたなら、平和で、無邪気で、美しいあの庭を……この
トゥバンは目を瞬いた。予想外ではあるが、都合の良い展開だ。了承するしか無いだろう。口を開きかけて――その瞬間、目の前の老人が、一瞬ユルクにダブった。気付けば勝手に口が動いていた。
「俺に……できるだろうか……」
予想外の言葉にトゥバンは目を泳がせる。それを見てウェクジンは優しく笑った。
「あなたは御父上に良く似ている。きっと、大丈夫です。」
呼吸が止まった。一瞬にして体全体から血の気が引く。世界がぐにゃりと歪む。
「ナゼ……ナゼシッテル?」
自分のものとは思えない。ヤケにしゃがれた声が出る。聴覚がハハハ……と笑い声を捉えた。
「分かりますよ。あなたは、陛下にそっくりだ……その顔立ちも、雰囲気も。」
フッ、と胸をつかれて、トゥバンはよろめいた。額を押さえる。
「そっくり……か。」
「ええ……。あなたなら、大丈夫です。」
言って太守は窓に目を向ける。
「不思議……だの……三十年……黄炎帝陛下の御代から今まで……命が惜しくて……失うのが……怖くて……それで……なんでも、やって……きたのに……卑怯者……臆病者と……言われてきた、のに……不思議と……今は、怖くない。」
彼はゆらりとトゥバンに顔を向けた。今にも溶け去りそうな笑顔を浮かべる。
「頼み……まし……た……よ?」
トゥバンの夜のような目が、老人の濁った目をしっかと捉えた。
「……頼まれました。」
老人の口が、微かに動き、そして重い、重い目蓋が落ちた。花咲き乱れる楽園からの光に照らされたその顔は、確かに、太守の顔をしていた。トゥバンはその顔にちょっと見とれて、そうして亡骸に一礼すると部屋を出ていった。
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