第46話 三者三様

 炎の旗が丘を越え、地の下に消えて行くのを見届けて、ようやくトゥバンは呟いた。


「勝った……のか?」


 隣の兵士と目が合う。彼は混乱した顔でぎこちなく頷いた。


「勝った、のか……」


 ほとんどはったりだった。追い返せたのは運のようなものだ。両手がズキズキ痛む。その痛みが、この勝利が夢でないことを証明している。胸の奥から安堵と疲労が湧きあがり、トゥバンは思わずよろめいた。それを隣の兵士が支えてくれた。再び彼と目が合う。彼の顔から混乱が引き、目が輝いた。


「追い返した……口だけで、勝った。」


 彼はバッと市街地に振り返ると、天に向かって拳を突き上げた。


「勝った!勝ったぞ!追い返したぞおお!」


 快哉の声が響く。一瞬後、


 オ……オォォオオオオ!!


 城壁を見上げていた市民達から、勝利の雄叫びがあがった。勝どきは、何度も、何度も続く。


「トゥバン殿、バンザーイ!」


 誰かが叫ぶ。勝どきは、瞬く間にトゥバンを称える声へと変わっていった。それは街のいたる所を揺らし、天を震わせる。そして瀕死の病人の目すらも震わせた。老人の目が開き、窓の方に向く。


「なんだ……あの声は?」


 くぐもった叫びが、館最奥部にまで届いていた。脈を取っていた初老の男が顔を上げる。


「はて……何でございましょうか……」


 男は首を傾げ、耳を澄ます。と、扉が軽く叩かれた。


「どなたかな?」


「先生、ナーリーです。薬草を持ってまいりました。」


 落ち着いた声。扉が開かれ、薬草籠を抱えたナーリーが顔を見せた。


「ご苦労。ところでナーリー、外の騒ぎはどうしたことじゃ?」


 ナーリーは思い切り顔をしかめ、大きなため息を吐いた。薬草籠をどさりと置く。


「トゥバン様が敵軍を追い返したそうです。たった一人で。」


 ダリドラは片目をまん丸くした。目の下の隈が際立つ。


「一人で?ははぁ……」


「全く……無理をしないようにと言っているのに、困ったものです。」


 ナーリーはまた一つため息。と、


「ひとり……か。」


 寝台の老人が呟いた。ナーリーはハッと顔を上げた。


「すみません太守様!お騒がせしてしまって――」


「いや、いいのじゃ……ひとりか……ふむ。」


 太守は目を閉じる。微妙な静寂。


「で、では私はこれで……」


 ナーリーはそそくさと部屋から出て行き、優しく扉を閉めて去っていった。ダリドラが息を吐いてまた脈を取り始める。静寂。


「ダリドラ……」


「は?」


 ダリドラは顔を上げる。


「紙と……筆を。」


 医者は今度は両目を丸くした。


「そんな!今はいけませんぞ!絶対安静です!」


 ウェクジンの乾いた笑い。


「もう良いダリドラ……わしがもう長くないのは分かっておる……」


「そんな――」


「自分の体のことだ。誤魔化されたとて分かる。無駄なことは止めよ。」


 弱々しくも凛と声が響く。ダリドラはうなだれた。


「薬草は民に配ってやれ……わしには、最後にやるべきことがある」


「は……」


 太守の言葉に、ダリドラは弱々しく頷いた。


 ―――――――――――――――――――――


「愚か者がっ!」


 パンッと乾いた音が響いた。ウォー・リャンは、跪いたまま微動だにしないクドを鬼のような顔で睨みつける。


「あのまま攻め込んでおれば良かったのだ!みすみす好機を逃しおってっ!」


「ですが――」


「ですがも何も無いっ!」


 ウォーはどこからか鞭を引っ張り出し、クドを激しく引っぱたいた。クドは微かに顔を歪める。


「ですが、もし――」


「ええいまだ言うかっ!」


 ビシッ、ビシリと、打撃は何度も何度も繰り返された。クドは姿勢を崩さぬまま、歯を食いしばって痛みに耐える。姿勢を崩せば、ウォーが何をするか分からない。憎悪と憤怒に身を焦がされながらも、ただ、黙って耐える。


 数分後、ウォーは手を止めた。ゼイゼイと肩を波打たせ、血みどろのクドの背中を睨めつけてくるりと背を向ける。


「失望したぞ、クドよ。この分だとお前の家を薪にしても良さそうじゃな。」


 ひどく冷たい声だった。


「お待ち――グッ――お待ち、ください。」


 ウォーは拷問吏の十分の一程度にもならない腕力しか持たないが、拷問吏と違って「限度」というものを知らない。見境なく何度も何度も抉られた傷の痛みは、体の芯まで響く。クドは苦悶に顔を歪め、ウォーの無駄に長い裾を掴んだ。


「私は、私は罠があるやもと思い、退却したのです。決して敵前逃亡などでは――」


「貴様!まだ――」


「もし!」


 叫び声が響く。鞭を振り上げたウォーの手が止まる。クドは背中に走った激痛で視界がチカチカしながらも、必死に声を絞り出す。


「もし……あの書状が、偽物、な、ら、どうされ、ます。」


 ウォーは顔をしかめた。


「偽物などあり得ぬ!『勤炎牙』は一流の間者。今まで一度たりとも気付かれたことは無いし、名が知れることもない。筆跡もそっくりそのまま同じだった。」


「ですが、『もしも』というものがあります。どんな人間にも、おこり、得る……それに、トゥバンには、やけに余裕があった……是非――是非一度、お確かめを!」


 ウォーは眉をひそめ、汗みどろのクドの顔をじいっと見つめる。クドも目に焔を燃やして見つめ返す。数分の沈黙の後、ウォーはため息を吐いて腕を下ろした。


「ま、確かめるだけ確かめてやろう……」


 鞭を投げる。それは虚空に吸い込まれて消え去った。ウォーはどこかをゴソゴソ探り、一通の書状を取り出した。折りたたまれた表面には何も書かれていない。書状を二、三回くるくる回し、表面を丹念に見る。そしてクドにちらりと哀れみの目をやると、書状を開いた。何の変哲もない。ただの密書。前に見た時と一文字たりとて変わらない。サビュールが手薄で、トゥバンが重傷だということが簡潔に記されている。


「ほら、何もおかしなところは――」


 ウォーはクドに目をやろうとして、ピタリと動きを止めた。手紙の中央あたり、小さく墨ハネがある。それがどうも気になった。ウォーは手紙に目を戻し、袖をまくってゆっくりとその墨ハネに手を伸ばした。クドがごくりと唾を呑む。ウォーの指が紙面に近付いて行って――墨ハネに触れた。瞬間――


 ゴオウッ


 書状から炎が噴き出した。ウォーは短く叫んで書状を取り落とす。書状はありえない大きさの炎を出しながら燃えてゆき、最後には粉々の灰となって風に溶けた。ウォーが書状があった所から目を外し、クドを見る。目が合った。気まずい沈黙。


「……すまなんだ。」


 ウォーはクドの背に軽く手を滑らせた。銀色の光が傷に満ち、傷が塞がる。


「恩賞は後ほど与える、帰ってゆっくり休め……」


 そう言ってウォーが手を振ると、クドは何か言う暇もなく虚空に消えた。ウォーは眉間にシワを寄せ、再び書状があったところに目をやる。


(わしでもそうそう気付かぬほどの仕掛け……あの野盗、只者ではない……注意深く当たらねば。)


 ウォーは一人で頷き、くるりと回って虚空に消えた。



 同刻 ノグノラ最上層


「あーあ、そうなったか~。」


 机に足を乗せ、椅子にもたれたジュバルが目を閉じたまま呟いた。


「ただの証拠隠滅のつもりだったんだが……いや~意外なことになるねぇ。こっちに何一つ良いことねえじゃん……」


 ジュバルは大きく溜め息を吐き、そしてニヤリと笑って目を開けた。


「やっぱ面白えなぁ、人間。」


 その目は、真っ青に輝いていた。

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