第45話 舌計
サビュール城内、トゥバンの部屋。トゥバンがそうっと寝台から降りようとしている。彼はゆっくりと上半身を起こすと、寝台から片足を降ろした。ちらりと左手に目をやって、注意深く寝台に手を突く。
「――ッツ!」
顔を歪め、素早く手を引っ込めた。寝台に倒れ込み、忌々しげに包帯に覆われた手のひらを睨む。一週間前、ほとんどの傷は治っていたが、唯一両手だけは完治していなかった。踏み砕かれたんだからしょうがないか、と納得しかけて、いやいやそれにしたって腹が立つ、と首を振る。朝起きてから今までずっと、それを繰り返していた。コンコン、とノックの音。
「トゥバン様、昼食です。」
トゥバンは素早く毛布を引き上げ、両手を隠した。間髪入れずに扉が開き、ナーリーの顔が覗く。その眉間にシワが寄った。
「どうされたのです?そんなに汗をかいて。」
「いや、何でもないよ、うん。」
トゥバンは引きつった笑みを浮かべた。ナーリーの眉間に更にシワが寄るのを見て、慌てて窓の方に向く。
「いやあ、もう昼か!早いな!うん。今日は何だい?」
ナーリーは一つ溜め息を吐いて扉を押し開けた。碗の乗った台車を引っ張り、寝台の側まで近づくとトゥバンの顔をジイッと見る。トゥバンは笑顔のまま目を泳がせた。
「くれぐれも無理はしないように、と言ったはずです。」
「何のこ――」
「自分の胸に聞いてみたら良いでしょう。」
ナーリーはふうと息を吐いて椅子に座る。
「今日は変わらず重湯です。」
彼女は碗を取って匙で掬うと、重湯を勢いよくトゥバンの口に流し込んだ。
「ゴホッ――何――」
「黙ってください。集中できない。」
そう言った彼女の目を見て、トゥバンは大人しく黙ることにした。
時折むせながらも食事を終え、一息吐いていると、ナーリーが開いた書状を突き出してきた。トゥバンは書状とナーリーを交互に見やる。
「ワンロン様からあなた宛てです。」
「ワンロンから?」
書状の上下を見やると、確かに署名と宛名がある。
「では、私はこれで。」
ナーリーは部屋から出て行きかけて、思い出したように立ち止まった。ちらりとトゥバンに目をやる。
「医者の指示には従うように、お願いします。」
トゥバンはブンブン首を縦に振った。ナーリーが出て行き、扉が盛大な音を立てて閉まる。
「怖……」
トゥバンはブルリと体を震わせ、毛布の上に置かれた書状に目を走らせる。勝ったということが一行目に簡潔に書かれ、その下にはウェザン方の軍と戦っている間に八方から炎軍が攻めてきたこと、ガンザンの見立てによると、ウェザンは帝国と手を結んだ訳では無いようだということ、そして最後に警告めいたものが記されていた。
『この戦には不可解な点が多すぎます。私にはどうも、私の古い知り合いが関わっているように思えるのです。奴の名はジュバル。もし奴が関わっているとなると、確実に厄介なことになります。トゥバン殿も、重々お気を付けください。』
トゥバンは手紙から顔を上げ、眉をひそめた。ワンロンがここまで言うことなど、今まで一度もなかった。
「嫌な予感がするな……」
呟いた。と、
カラァン……カラァン……カラァン……
トゥバンは勢いよく音の方に目をやった。耳を澄まし、鐘の音を数える。
(六……七……八……)
そこで鐘の音は止まり。少し間を開けて再び鳴り響く。
(鐘八つ……敵襲か!)
トゥバンは唇を噛んで手紙を見やった。
(今厄介なことになるなんて聞いてないぞ……)
城兵はおおかた出払っている。残っている兵は、良くて六千、下手すれば四千。いずれにせよ、打って出れるほどの戦力はない。どうしたものかと思案を巡らせる。と、扉が勢い良く開き、兵士が駆け込んできた。
「敵襲!敵襲です!」
「それは分かってる。相手は?」
「おそらく炎軍です!」
トゥバンは眉をひそめた。
「おそらく?おそらくって何だ。」
「それは、旗が……」
「旗が?」
「旗が、黒地に赤く『炎』と染められていまして……それに兵士はみんな黒ずくめで、あれは果たして炎軍なのかと……」
トゥバンの脳裏に、営地を焼き払った黒ずくめの騎兵達が閃く。眉をひそめた。
「黒ずくめ、か。」
「は?」
兵士はきょとんとした顔。
「……いや、何でもない。他には?」
「は!数はおおよそ二万、完全に周囲を囲んでいます。あと……」
兵士は言い淀んで、ちらりとトゥバンの顔を見た。トゥバンは眉をピクリと動かす。兵士は言葉を続けた。
「敵軍の大将らしき男が大門の前に進み出て、『トゥバン・トンクルに勝負を申し込む』と叫んでおります。」
「勝負を申し込む!トゥバン・トンクルを出せ!」
せ……せ……せ……
大門前に大音声が響く。クド・ラクガルは唾を飲み込んで胸壁を睨んだ。
(なんの反応も無い……あの書状、本物だったか……)
「勤炎牙」を名乗るもの空届いた、やけに力を込めた字が並ぶ書状を思い浮かべる。あれを読んだ真炎帝は、一週間前に三万の兵が散々に打ち破られたにも関わらず、どこからか二万もの騎兵を連れて来てクドに渡した。
『替えはきく。心配するな。』
そう言って。クドはちらりと背後に振り返った。黒ずくめの兵達はピクリともせず、ただ佇んでいる。全く生気を感じない。ここに来る途中も、焚火はたくものの食事をしているような素振りは一切無く、時折細長い棒のようなものを腕に刺すだけだった。クドは身震いして前を向く。
「トゥバン・トンクル!勝負を申し込む!出てこい!」
叫んだ後にふと思い至った。そういえば、後ろの兵たちの呼吸音も声も聞いたことが無い。
(考えない方が良いな)
頭を振って、息を吸い込んだ。
「トゥバン・トンクル!いい加減に出てこい!出てこないのならばお前の負けとし、伝統にのっとって私の支配下に入ってもらう!さあ、出てこい!」
(ま、どうせ出てこないだろう。奴は重傷だ。出てきたとしても即、殺せる。そうすれば……)
そうすれば、ラクガル家は安泰だ。そんなことを思って胸壁を見上げた。と、
「久しぶりだな。」
クドはバッと首を振り向けた。胸壁の東、いくらかの兵を従えた浅黒い青年が、完全武装して立っている。彼の口が歪んだように見えた。
「良い時に来たな。」
クドは一瞬眉を細め、そしてハッと息を呑んだ。
(まさか、嵌められた!?)
四方に素早く目をやる。木立、丘、窪地。いずれにも兵が隠れているように思える。
(……いや、落ち着け。)
深呼吸。
(よく考えてみろ。奴らの主力は北。さほど兵力は残っていないはず。ハッタリだハッタ――)
「手紙は?」
瞬間、クドは全身が冷たくなるのを感じた。傾きそうになった体を必死に押しとどめる。
(なぜ?なぜ知っている――いや、知るはずがない。知れるはずがない――だが、だがもし本当にあの書状が罠だったらどうする?俺達は袋の鼠だ……ラクガルも……――いや、知るはずがないんだ。落ち着け、落ち着け……でも――相手はトゥバンだ。あいつならやりかねん……くそう。)
考えがグルグルグルグル回る、回る。この時クドは、完全にノグノラ攻めの時のトラウマに捉われていた。どんなにハッタリだと思い込もうとしても、すぐにまた『だがあいつなら……』と考えてしまう。クドは若干めまいを起こしながら、トゥバンを睨んだ。
(考えろ、考えろ、あいつなら――あいつなら何を――)
ギイィィィ
音が響く。クドはハッとそっちを見た。大門が、開いていっている。バッとトゥバンに目を戻すと、彼はニヤリと笑って大門の方に首を傾けた。
「どうぞ?」
(――――ッ!)
トゥバンはごくりと唾を飲み込んだ。くるりと馬を回し、大門に背を向ける。
「全軍……退、却。」
真っ青な顔でそう言うと、黒ずくめの騎兵達は即座に向きを変え、大門に背を向けて進み始めた。「炎」の字が完全に開いた城門から遠ざかっていく。
帝暦三百七年真月六日、後の世に言う「沙州の舌計」であった。
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