第40話 熱
トゥバンは、熱でぼんやりとした意識の中で門が閉まる音を聞いた。
(ちょっと盛り上がり過ぎたか……)
じきに迎えが来るはずだった。
(何とか……もってくれよ……?)
熱ぼったいまぶたをこじ開け、扉の上の雲龍を見る。熱に浮かされた時そのきりりとした相貌を見ると、不思議と心が落ち着いたからだ。深呼吸をすると、心が水面のように静まっていく。不思議と、少し熱が引いたような気がした。窓からは、混乱と不安の喧騒が流れてくる。
(やるしかない。)
遠くから、重い足音が響いてきた。しばし待つ。扉が開き、出てきたいかつい顔は無表情だった。が、トゥバンの姿を認め、瞬く間に仮面は溶けて心配の色に染まる。
「どうしたのです、大丈夫ですか?」
きっと酷い顔をしているのだろう。トゥバンは無理矢理笑って見せた。
「ワンロン、酷い顔だな。俺は、大丈夫だ。連れてってくれ。」
ワンロンは重々しく頷き、寝台に近づくと、その無骨な手からは想像もできないほどそうっと――まるで華奢なガラスを扱うかのようにそうっとトゥバンを抱き上げた。そのままゆっくり、ゆっくり、部屋を横切り、廊下へ出る。
何となくぎこちない、ゆらりゆらりという揺れが、なんとなく懐かしく思えた。トゥバンは強張っているワンロンの顔を見上げて、
「ワンロン、なんか、懐かしいな。」
ワンロンは驚いたようにトゥバンを見下ろして、それから慌てて目を戻した。
「懐かしい?……懐かしい、ですか。」
「うん。懐かしい。どうも昔こんなことがあったような……」
「昔……二日しか経っていませんが……」
首を傾げる姿が何故かおかしくて、トゥバンはフフフ……と笑った。ワンロンはそれを困ったように見下ろして、また慌てて目を戻す。
「そろそろですよ。」
トゥバンが前を見てみると、四角く切り取られた空が見えた。さっきまで耳に入っていなかった喧騒が、急に大きくなって耳を刺す。トゥバンはごくりと喉を鳴らす。生暖かい唾が熱い喉を滑り落ちた。
―――――――――――――――――――
大門前の巨大な広場はまさに混沌。数万の兵士達がぎゅうぎゅう詰めになって、
何が起きてる――これからどうするんだ、包囲されてるのか?分からん――誰かあいつを知らねえか――あーあー血だらけだ――腹減ったな――おい押すな!――帰りてえ――なんて騒ぎ立てている。
広場の奥、太守の館から張り出した露台。そこにワンロンが現れ、大きな椅子にトゥバンを降ろしたたことに気付いたものは誰一人いなかった。皆自分のことにかまけていて、そっちに見向きもしない。そもそも露台の存在に気付いているのかどうか。そんな混沌が、突如切り裂かれた。
「注もおく!」
皆々一斉に露台に振り向く。ワンロンが一歩下がる。ガンザンがその隣に動いた。一瞬の静寂の後、痛々しいトゥバンの姿を認めた群衆は、再びざわざわし始める。前の喧騒よりずっと小さいざわめき。だが、そんなざわめきにもかき消されてしまいそうな声だった。
「皆!」
脆く、
壊れそうで、
それでいて熱を持った、
どこか麻薬的で危なっかしい。
そんな声を聞き漏らすまいと、群衆は耳を澄ました。静寂。壁外の馬の声が聞こえるほどの静寂。
「俺は、トゥバン。聞いたことある人も多いだろう。」
無数の頭がざわざわ揺れる。あいつが……と複雑そうな声。トゥバンは僅かに口角を上げる。
「そう、あいつだ。ここにウェザンは……居ないか。そうか。じゃ、逃げたということだな……北へ、ノグノラへ。」
トゥバンはちょっと思案顔。それから表情を引き締めた。
「皆もう奴の所業は知ってるだろう。早急に奴を追う必要がある。協力してくれないか?」
「ちょっと待て!」
声があがる。視線が集中する。声の主はその口を真一文字に引き締め、鋭い目でトゥバンを睨む。
「お前は、元々反逆の罪を着せられていたいただろう。」
「ああ。」
トゥバンは心の中でほくそ笑んだ。
「で、どうした?あれはウェザンの謀だった。知ってるはずだ。」
「そんな証拠、どこにあるんだ?」
トゥバンの心中の三日月がさらに大きくなる。
「どこって、君も聞いているだろう。書状のことは。」
真面目そうな青年は、ギリリとトゥバンを睨んだ。
「だがあれはお前達が投げ込んだものだ。偽造した可能性も十分ある。信用できない。信用できる証拠なんてどこにもない!」
彼は腕を大きく広げ、周囲を見回す。数人がうーむと頷いた。
「なのに皆ウェザン大隊長を見捨て、こんなところに来てる!おかしくないか ?!」
彼は一段と声を張って、
「皆、目を覚ませ!反逆者はあいつだ!本来の目的を忘れるな!敵はあいつで、大隊長じゃない!大隊長こそあいつに嵌められたんだ!」
彼は顔を真っ赤にしてトゥバンを指差した。
「あいつを倒せ!そのためにここまで来たんだろ!」
数ヵ所からウオオーッと鬨の声があがった。人々が押し合い圧し合いし始め、広場はあっという間に喧騒に飲み込まれる。トゥバンはため息を吐き、ワンロンに目配せ。ワンロンは頷いて思い切り息を吸う。
「静まれい!」
れい……れい……れい……残響が響く。場は一瞬にして固まった。ドサッ……誰かが尻餅を突く音がした。ワンロンはちょっと咳払いして一歩下がる。トゥバンはしかめた顔を緩め、真面目兵士の方を見た。
「返答も待たずに騒がないでほしいな。」
真面目兵士は目を泳がせた。トゥバンは椅子にもたれる。
「証拠が無いのは、俺が反逆者だっていう話もそうじゃないのか?」
真面目兵士は目を瞬く。
「大隊長は許可証を――」
「その許可証が本物だと誰が言える?ウェザンは裸瑠馬暗軍と繋がっていた。偽造は十分可能だろう。実際、二週間程前に資金が不自然に減っている。」
真面目兵士は眉を吊り上げた。
「そんなの、暗軍と繋がっていたなんて証拠もない!資金だって急に入り用になったとかそういう可能性も――」
「ああそうだ。そういう可能性もある。俺が全て仕組んでいた可能性だってある。」
群衆がざわめいた。トゥバンは苦しそうに息を吐いた。それを真面目兵士はキッと睨んだ。
「やっぱ――」
「だが確たる証拠はどこにもない。つまりは、誰でもなんとでも言えるということだ。例えば君が全ての黒幕だと言うこともできる。なぜ君は自分の考えにそんなに自信を持てる?」
真面目兵士は目を泳がせ、口をパクパクさせて押し黙る。視線が彼に集中する。彼は数瞬の後にしっかりとトゥバンを見つめた。
「俺は……深夜に泣きそうになりながら許可証を見せてきたあの人が、黒幕だとは信じたくない。」
トゥバンは小さく笑った。
「じゃあそれでいい。いずれにせよ、全ての真実はノグノラにある。ノグノラに行けば全て分かるだろう……だが、行くには外の軍を破る必要がある。それには団結が必要だ。不服があろうが無かろうが、な。分かったか?」
真面目兵士は小さく頷く。トゥバンは目を閉じ、深呼吸して言葉を続ける。
「思い出せ、俺達の本来の敵はなんだ?」
答えを待たずにトゥバンは続ける。露台に汗が滴った。
「炎軍だろう?汗水垂らして作った作物、心血注いで育てた家畜。そいつらを根こそぎ奪われる、ここにいるなら、皆そんな経験があるはずだ。だろう?思い出せ……」
兵士の多くが、うんうんと頷いた。その目の色が怒りと決意に染まっていく。トゥバンの声には、妖気が漂う。
「俺達の敵は、すぐそこ、門を出てすぐの所に居る。奴らは、俺達が必死に働いている間平舎に籠り、飲んだくれ、遊び呆けてた奴らだ!倒すなら今だ!恨みを晴らすなら今だ!焔を燃やせ!焼き尽くせ!奴らに、思い知らせてやれ!」
広場全体から、ドオオォオォッと鬨の声があがった。兵士達は皆々、目に煽られて燃え上がった焔を宿し、大門に殺到した。
開門の叫びが立ち上ぼり、程なくして門が開き始める。兵士達はそのわずかな隙間から、まるで堤が決壊したかのような勢いで流れ出していく。
トゥバンはそれを眺め、ククッと喉を鳴らすと目を閉じた。
体が熱くてたまらない。喉がカラカラだ。
意識がぐるぐる回りながら遠ざかっていく。トゥバンはガクリと首を落とした。その体がゆらり揺れる。
トゥバン殿!
その声を最後に、トゥバンの意識は消え去った。
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