第38話 蛇
あくる朝、まだ暗いうちに一羽の小鳥が南西に飛んでいった。その数刻後、太陽が昇り、城外の兵士達が動き出す頃、数十本の黒い矢が、城を囲う人の群れのあちこちに射ち込まれた。
数分も経たない内に矢の周囲でざわめきが起こる。それらは石を投じられた湖面を走る波のようにして同心円状に周囲へ広がっていき、瞬く間にウェザンのテントにまで到達した。
「何だ……これは……」
目の前にあるものが信じられなくて、ウェザンは紙を掴んだ両手をわなわなと震わせる。目の前に立つ兵士が、恐る恐るといった様子で口を開く。
「その……それに書かれているのは真実なのですか?」
「そんな訳あるかっ!」
ウェザンは紙を激しく地に叩きつけ、激しく睨みつけた。そこには『ウェザン殿に関する告発』と題して十数条の文が書き連ねられている。
戦において、このような書状が投げ込まれる事自体は良くあることだ。大抵は根も葉もない噂が書き連ねられているだけで、なんら問題は無い。が、恐るべきことに、この書状に書かれていることは八割がた真実であった。それは、ウェザンに自分がトゥバン達の掌中にあることを突き付ける。
(動揺を見せるな……兵士達に悟られるな……)
指揮官の動揺は、配下に数倍の動揺を引き起こすことをウェザンは知っていた。目の前には訝しげな顔をした兵士が立っている。彼は額を拭い、息を整えて無理矢理顔を歪め、笑顔らしきものを作った。
「心配するな。これは奴らの策だ。全く……他愛もない。」
やけに大きい乾いた笑い声。
「もう帰っていいぞ。」
兵士は訝しげな顔のまま、踵を返した。ウェザンは体中からどっと汗を流し、寝台に倒れこんだ。そして微かに表情を緩める。
(危なかった……何とかなったな……)
一瞬の安堵も束の間、彼の心にむくむくと疑念が芽生えてきた。
(なぜ……ここまで正確に……まさか内通者……)
サビュール壁上、ガンザンは天頂から降る光に目を細め、眼下で揺れる旗の群れを眺めていた。兵士達があちこちで何やらひそひそざわざわしているのが見える。彼らは、皆一様に不安げな表情を浮かべ、時折陣の奥、大きなテントに目を向ける。
(まさか半日もしない内にこうなるなんて……)
ガンザンは友の楽しそうな顔を思い浮かべてぞっとした。彼はまるで全てを見透かしているかのように、的確に敵の急所を突き刺していく。敵すらもそれと気付かない内に。
ウェザンが「蛇」と言っていたのも、あながち間違いではないかもしれない。
そんな考えが頭に浮かんで、ガンザンはブルリと首を振った。
(何を考えてるんだ僕は。)
瞬きしてきびすを返す。
(今は勝つことだけを……)
考え考え、ガンザンは壁から下りていった。
その日の夕方、机に肘をついて頭を抱えていたウェザンは赤い目をあげた。数人――いや、十数人の足音が近付いてくる。近付いてくるにつれてざわめきも大きくなっていき、目の前、テントの入り口で最高潮を向かえ、そして静まった。
「あー、入っても?」
「勝手にどうぞ。」
ウェザンが言うや否や、入り口の布が荒っぽく押し開かれ、熊のような毛むくじゃらの大男を先頭に、十数人の男達が足早に入ってきた。皆緊張した面持ちでウェザンを見つめる。見つめられたウェザンは
この男、ワンロンに比べれば小人じゃあないか
なんてのんきなことをぼんやり思っている。そんなこと露知るはずも無く、大男は左手に握りしめた薄汚れた紙を荒々しく開いてバサッとウェザンに突き付けた。
いくつもの厚みのある紙片が縫い合わせられて、一枚の紙の形になろうとしている。汚れてはいるが、書状であることは分かった。左下だけが欠けていた。ウェザンはそれをぼんやり見つめ、首をかしげた。紙には見覚えのある字が並んでいる。
「矢文に留められてた紙をくっ付けてみたらこうなった。これの上、見てみろ。」
ぶっきらぼうに言われるままに目を上に滑らせる。と、そこには見覚えのある――非常に見覚えのある文字列があった。
『サビュール太守ウェクジン殿へ』
なぜこれがここにあるのか。そんな疑問を浮かべつつ、大男を見上げる。
「これがどうかしたか?」
「良く読んでみろ。」
ウェザンは目を瞬き、一瞬遅れて文字通り書状に飛び付いた。
ガタァン
机にぶつかるのも構わず、書状を大男からもぎ取り、目を見開き、食い入るようにそれを見つめる。男達の声など耳に入らなかった。どっと汗が出かけて、直ぐにさあっと引っ込んで、それから体温が引っ込むのを感じた。紙を握りしめる手が震え、数枚の紙片がこぼれる。
「こ……こ……」
声は出ない。息もしない。硬直した彼を、男達が驚きの顔で見つめる。静寂…………ふ……とウェザンがよろめき、寝台に倒れ込んだ。沈黙。大男が寝台に一歩近付いた。
「あー――」
「こんなもの書いとらん!」
突如、ウェザンが書状を大男に叩き付けた。こぼれた紙片が宙に舞う。大男は意表を突かれて一歩下がる。ウェザンは彼にわなわなと震える人差し指をしっかりと突き付けた。睨む目に焔が燃え上がる。
「こ、れは、罠だ。奴の――蛇の!」
「落ち着いて、落ち着いて……」
大男は
「最後の一個が、あるはずだ。出してくんねえか。」
ウェザンはわなわなと睨んだまま動かない。代わりに、数人の男達がバッとテントに広がった。あちこち引っくり返して回り、ゴミ入れからぐしゃぐしゃになった書状を引っ張り出した。渡されたそれを、大男は丁寧に伸ばし、左下に貼られた小さな紙片を丁寧に剥がした。裏には文字列が浮かぶ。
『ウェザン・バイサルより』
仲間の一人が大男から紙片を受け取り、丁寧に並べていく。並べ終わるまでの間、ウェザンは一言も発さず、視線で焼き切ってやろうと言わんばかりに男の指先を睨み追っていた。大男は息を吐くと、完成した書状を見つめたまま立ち上がり、顔まるまるの軽蔑を浮かべてウェザンを見た。
「騙してたんだな。」
「そんな訳が無かろうっ!」
ウェザンの目に火花が散る。彼は思い切り机を叩いた。
「こんな、こんな……偽りだらけの……!こんなもの書いとらん!」
大男は冷たい視線を浴びせ、一歩下がった。
「もう言葉は要らない。俺達は抜けさせてもらう。」
呼び止める間も無く大男はきびすを返し、仲間達を押し退けてテントから出ていった。仲間達も次々とそれに続いていく。ウェザンは魂が抜けたようにそれを眺めた。
ふと、一人の男がテントから出る寸前に振り向いた。哀れみと憎しみの目線がウェザンの目を貫く。その瞬間、ウェザンは大きく目を見開き、バネ仕掛けの人形のように飛び上がった。
「待て!貴様――嵌めたな!」
テントを震わす
「ちく……しょおぉぉ!!」
屈辱の叫びが響いた。それを背にしてざわめく兵士達の間を堂々と行進する十数人の列から、端正な薄い顔した男がするりと抜け出した。誰もそれに気付くものは居ない。
彼は兵士達の間をすり抜けて、人気の無い所に出る。そこにはがんじがらめに縛られた呻く男。鎧を脱ぎ、呻く男の方に投げると、彼は何かに怯えるような顔をしてサビュールを見上げた。
「トゥバン……上手くいったよ。」
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