龍旗乱舞

第37話 始動

 トゥバンは額に冷たいモノを感じて目を開けた。夕陽に照らされた女性の横顔が目に入る。気の強そうな顔をして、腕の包帯を手早く解いていく。サラサラと音を立てる包帯を糸車のように巻き取っていく涼やかな手。トゥバンはその手つきにちょっと見とれた。その視線に気付いたのか、彼女はちらりとトゥバンの顔を見る。


「……あなたは?」


「ダリドラ先生の代理です。包帯を替えてるだけなのでお気になさらず。」


 彼女はぶっきらぼうに言って包帯に目を戻した。トゥバンはちょっと居心地が悪くなって目を瞬く。しばらく沈黙。彼女は包帯を解き終え、今度はぬるぬるした軟膏を塗り始めた。トゥバンは思わずビクンと震えた。彼女が手を止めてトゥバンを睨む。


「動かないで。傷に障ります。」


「ごめん……ええっと……」


 トゥバンは目を泳がせる。彼女はいよいよ強く彼を睨んで、


「ナーリーとでも呼んでください。静かにしててください、集中できない。」


 トゥバンはおとなしく黙っておくことにした。軟膏を塗り、包帯を巻き、添木を整えてあっという間に作業を終えると、ナーリーはふうと息を吐いた。トゥバンの額に手を伸ばし、布を水に浸して絞ろうとした。


「凄いな……。」


 タパパッと水が飛び散った。ナーリーはトゥバンの方をちらりと見て、強く絞り過ぎた布に目を落とし、慌てたように再び水に浸ける。


「先生に比べれば……」


 微妙に上ずった声。


「いや、十分凄い。」


 ナーリーは黙って布を絞り、トゥバンの額に乗っけた。いそいそと立ち上がり、道具が乗った台車を押して外へと向かう。途中でちょっと立ち止まった。


「二度と深夜に先生を叩き起こすのは止めて下さい。先生、お気の毒に今寝込んでらっしゃいますから。」


 一拍置いて横目にトゥバンを見る。


「……お大事に。」


 彼女は勢いよく扉を開けて出て行った。台車の音が遠ざかっていく。入れ替わりに、ワンロンがしきりに首を傾げながら入ってくる。


「どうかしたか?」


「ああいえ、ナーリー殿にすれ違いざまに睨まれまして……何か悪いことをしたのかと。」


 ワンロンは椅子を引き寄せて寝台の脇に座る。トゥバンは微笑んだ。


「あの人、先生とやらを叩き起こしたのを大分恨んでるみたいだったぞ。」


「ははあ、なるほど……あの老医は親のようなものでしょうしなあ。」


 トゥバンは眉を動かす。


「親?」


「ええ。どうも彼女、一人であちこち彷徨っていたところを老医に拾われたのだとか。……ナーリーというのは、南方の古語で『女』という意味ですから、おそらくサモロとの戦争で物心つく前に親を亡くしたのでしょう……痛ましいことです。」


 ワンロンはゆるゆる首を振ってため息を吐いた。帝国東南の隣国、サモロとは建国以来何かと諍いが絶えない。旅商人に混ざってはるばる草原までやってきた難民を、トゥバンは何度も見ていた。


「ワンロンは何でも知ってるな。」


「雷炎帝陛下にさんざん叩き込まれましたから……。」


 ワンロンは小さくハハハ……と笑い、トゥバンの顔を見て無言になった。しばし沈黙が下りる。


「……俺の父親は、どんな人だったんだ?」


 トゥバンが沈黙を切った。ワンロンが目を瞬いてトゥバンを見やり、宙を見た。


「……素晴らしいお方でした。高潔で、鋭敏で、強靭で……でもとても子供っぽい面もあって、気さくで、自由で……でもどこか孤独を感じさせる、そういうお方でした。皇帝の座に相応しいお方でした。……無名な文官の家系の三男に過ぎない私を見出して下さったのもあの方です。本当に、感謝してもしきれません。」


 ワンロンは息を吐き、険しい顔になった。


「だからこそ、あの詐欺師が許せません。奴は陛下の病につけ込み、追放令にも関わらずと政界に復帰して……あげくの果てには……!」


 ワンロンの目に焔が踊り、彼はギリギリと拳を握り締めた。ハッとしてトゥバンを見る。


「申し訳ありません、取り乱してしまって……」


 トゥバンは微かに首を振る。


「いや、良いんだ。奴が憎らしいのは俺も同じだ。ただ……」


 トゥバンは扉に目をやる。どこかからバタバタ足音が近づいてくる。


「今は、あいつを片付けないと、な。」


 言い終わるのと同時にバタンと扉が開き、ガンザンが飛び込んできた。彼は緊張した顔でトゥバンの目を見る。


「ウェザンが来る。とんでもない数だよ……。」


 トゥバンはいたって冷静にガンザンの目を見返す。


「あとどれくらいだ?」


「多分半刻もすれば来る。それよりやばいよ、数が……」


「どのくらいだ?」


「いや、もう、出てった時の二倍はある。」


「と、なると五、六万か……。」


 トゥバンは天井を見て思案顔。ガンザンは焦った顔のまま口をパクパクさせている。ワンロンが唸った。


「五、六万とは……いったいどこから引っ張ってきたのか……」


「簡単なことさ。俺達は『裏切者』だ。討伐軍に兵を貸さないってことは白仙軍に逆らうことになる。それに、ここで活躍すれば躍進中の軍内に影響力を持てるかもしれない。どこも簡単に兵を寄越すだろうさ。」


「ふむ……」


 ワンロンの脳内に『裸瑠馬暗軍』を名乗った者たちがよぎる。ガンザンは腕をバタバタさせた。


「そんなことより!どうするのさ!ここら辺は平地で、野戦になったら勝ち目ないよ!援軍のあてはないし、食料も多くは無いし……。」


 トゥバンは微笑んだ。


「そう心配するな。白仙軍が内紛を起こしたと知れば、詐欺師はすぐに兵を動かす。奴らには時間が無い。ここを落とされる前に帰るはずだ……が、ただ帰してやるのは面白くないな……」


 ガンザンは不思議そうにトゥバンの顔を見る。トゥバンはそっちをちらりと見てニヤリと笑った。


「ウェザンがせっかく沢山兵を連れてきてくれたんだ。有効利用してやろう……あれで。」


 トゥバンは寝台脇の机に置かれた紙に目をやる。他の二人は納得顔になった。トゥバンはにやにやしながら楽し気に言う。


「さ、始めよう。」

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