第36話 雲従える龍

 早朝、薄暗い廊下の端、『伝書塔』の札が張られた扉から一人の若者が出てきた。彼は後ろ手に鍵を閉め、鼻歌を歌いながら廊下を歩きかける。


 その瞬間、柱の陰から影が飛び出し、若者の首に巻きついた。若者は手にしていた紙束をばら撒き、自分の首に巻きつく腕に手をかける。が、腕は大蛇の如くびくともしない。若者の悲鳴は喉の奥で消費される。彼はじたばた暴れるが、抵抗虚しく数秒後に彼の眼はぐるんと白目を向いた。若者の体から力が抜ける。影が腕を外すと、若者は廊下にくずおれた。


 ドサッ


 ガンザンはフードを払いのけ、廊下に散らばった書類に目を走らせた。訴訟書、嘆願書、報告書、報告書、これまた報告書。


(……あいつ、案外ぼんくらなのかな。)


 そう思いつつ素早く丹念に目線を動かしていく。と、半分に折られた厚めの紙が目に留まった。九星が円を描いている。ガンザンは勢いよくそれに飛びついた。数枚の書類が宙を舞う。それらには目もくれず、破きそうな勢いで厚めの紙を開く。


『サビュール太守ウェクジン殿へ』


 あの老人はウェクジンと言ったのかとちょっと感心しながらも、手紙を斜め読みしていく。


『この度……ノグノラ…………及びガンヅァン・トンクル……討伐命令……これはリバンザ・ゴルテ様より下された……よってこの三名の……協力……ウェザン・バイサルより』


「……名前間違えんなよ。」


 ぼそりと呟き、ガンザンは立ち上がった。書類と書類の隙間を踏んで廊下を駆け去っていく。


 数分後、若者がむくりと起き上がった。ぼんやりとあたりを見回す。数分前まで人が居たことを示すものは何一つない。若者は首を触りつつ首を捻り、どうも寝ぼけて転んでしまったようだと勝手に納得して書類をかき集め始めた。


 ガンザンは廊下を素早く駆け抜け、自分の部屋に滑り込む。音も立たない。あぐらをかいたワンロンが目を開ける。寝台、包帯だらけのトゥバンが問いかけるような目を飛ばす。ガンザンはにこり笑って手中の紙をひらひら振ってみせた。


「あったよ!トゥバンの予想通りだった!」


 寝台に駆け寄り紙を広げる。三組の目がそれの上を走る。トゥバンの口が微かに笑む。


「思った通りだ。ありがとう。」


 トゥバンは背中のクッションに背を預け、フー……と長い息を吐いた。しばし沈黙。ワンロンとガンザンはトゥバンの瞑目した顔をじっと見つめる。


「おそらく、白仙軍は完全にウェザン一派に乗っ取られてる。」


「は!?」


「静かに。」


 ワンロンは口を閉じる。が、困惑顔してまた口を開く。


「それまたいったいなぜ……」


「ウェザンは、こう言ってはなんだが周到で、陰湿で、『成功する』と確信してる事だけをやる奴だ。そんな奴が、こんな事を何の確証も得ずにやるはずが無い。リバンザをどうにかして抑え込んでると考えるのが妥当だろう。」


 そうだろ?と言わんばかりにワンロンの目を見るトゥバン。


「まあ……確かに。」


 ワンロンが頷くのを見てトゥバンは目を閉じた。


「……じゃあ、ガンザン、ウェクジンとやらを呼んできてくれ。」


「良いこと思いついたのか?」


 ガンザンの問いに、トゥバンは何も答えず薄く笑った。



 ※ ※ ※


「なんだもうこんな時間に……」


 ウェクジンはぶつくさ言いながらガンザンに連れられて廊下を行く。まだ寝巻のままだ。時折目ヤニをこすり落としては爪で弾き飛ばしている。ガンザンはそれを横目で眺めて内心辟易しながらも静かに進んで部屋の前で立ち止まった。扉を開ける。


 ギイィ


 ウェクジンに先に入るよう促した。ウェクジンは不安げな目でちらりとガンザンの顔を見て、部屋に一歩立ち入った。そして目を見開き、顎をぽっかり垂れ下がらす。


「お久しぶり……ですかね。」


 トゥバンがウェクジンに微笑みかけた。その笑顔は包帯にがんじがらめ。寝台の脇にはワンロンが立ち、鋭い目線を老人に向ける。バタンと音がして、ガンザンが老人の背後についた。彼がちょっとウェクジンの背を押すと、老人はよろけて数歩前に行く。


「トゥバン……殿。なぜここに……なぜ……そのような格好で……」


「ああ……ウェザンに裏切られましてね。」


「は??」


 崩れないトゥバンの顔とは対照的に、ウェクジンの顔は大きく崩れた。主に困惑で。ぱくぱく動く彼の口から言葉が出る暇を与えず、トゥバンは言葉を紡ぐ。


「奴は自らを新たな白仙軍の盟主とし、それに従わなかった我々を脅迫してきました……こんな書状を突き付けて。」


 トゥバンが目配せする。ワンロンは懐からあの書状を取り出し、老人に突き付けた。老人の濁った目が文字の上を滑る。


「こ、これは……。」


「で、脅しに従わなかったのでこうなりました。奴は、我らが真の盟主、リバンザ・ゴルテ様を幽閉し、白仙軍の全権を握っていると言っています。おそらくそれは本当でしょう。これの右下には、ゴルテ様の正式な印が押されています。」


 老人が目をやると、そこには字を図案化したような緻密な模様が真っ赤に浮かび上がっている。


「我々としてはこれを看過することはできません。一刻も早く奴らを倒し、ゴルテ様を救わねばなりません。さもなくば、ウェクジン様、の地位も危ぶまれます。」


 老人はピクリと体を動かす。トゥバンの笑みがわずかに濃くなった。


「しかし、我々が手元に押さえている軍は、ここに駐屯している一千のみ、です。これではどうやったって奴らに勝てない。奴らに勝てなければ、当然我々の命が危ぶまれる。そこで、提案です。」


 老人は目を上げた。


「聞こう。」


 トゥバンの夜のような目が光る。


「あなたの兵、即ち元裸瑠馬州兵を我々に譲って頂きたい。さすればこちらの一千と合わせて一万数千にはなるでしょう。それだけいれば十分です。」


 沈黙。老人の目が泳ぐ。


「しかし――」


「あなたの軍は非常に強い。良く訓練されています。彼らも、ただ食料を食いつぶす生活には飽き飽きしているでしょう。……誠実、精強で知られた裸瑠馬人のこと。もしあなたが義を捨てるようなことがあれば、何が起こっても……」


 再び沈黙。老人は激しく目を泳がせ、ちらりとガンザンを見る。


「……分かった。兵をあなたに預けよう。」


 トゥバンは満面の笑みを浮かべる。


「ありがとうございます。では、書面に……」


 ワンロンに筆と紙を渡され、老人は震える手で元裸瑠馬州兵の統帥権を三人に譲る旨を書いた。パタパタと二、三回紙を振り、ワンロンに渡す。ワンロンに差し出された書面を見て、トゥバンは満足げに頷いた。疲れを顔に浮かべ、クッションに寄りかかる。


「太守様の御寛大な心にはいくら感謝をしてもしきれません。ありがとうございます。」


 老人はそれに答えず、震える足で踵を返すと、よろめきながらガンザンの脇を通り抜け、部屋から出て行った。


 ギイィィ……カチャン


 トゥバンは一気に顔に疲れを浮かべ、いっそう深くクッションに体を沈めた。長い吐息が部屋に響く。ワンロンが心配気にトゥバンを見つめて毛布をかける。


「うまく……いったね。」


 ガンザンが寝台に近付いた。トゥバンは疲れた笑みを浮かべる。


「ほとんどハッタリだったが、うまくいって良かった……首飾りも役に立つもんだな。」


 三人はニヤリと笑った。ガンザンが、何かを思い出したような顔をする。


「そうだ、軍名を決めなきゃ。」


「軍名?」


「うん。『白仙軍』は奴らに使われちゃってるから。」


「軍名、か。」


 トゥバンは薄目を開ける。と、扉の上にある龍の壁画に目が留まった。たてがみを風になびかせ、雨雲を従えてどこかへ向かおうとしている。その金色の目は、どこか一点をじっと見つめていた。


「……龍軍。」


 ガンザンとワンロンが驚いたようにトゥバンを見る。


「龍軍、でいこう。それが、良い……」


 それだけ言ってトゥバンは目を閉じた。どこかから鐘の音が響いてきた。

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