第30話 勝負

「せえ……のっ!」


 掛け声とともにトゥバンは腕に力を込める。ギギギ……と軋んで荷車がほんのわずかに動く。が、そこから先微塵も動かない。トゥバンをはじめ五、六人の男たちが顔を真っ赤にし、汗を滴らせながら精一杯力を込めても、荷車はがっぷりと泥に食い込んでちっとも動こうとしない。


「――っはあ!」


 男たちが一斉に力を抜いて地面にへたり込む。と、荷車はじんわりと後退っていき、ぐぢゅりと音を立ててもとの位置に収まった。トゥバンが額の汗を拭い、忌々しげに荷車を睨む。はあはあと荒い息。


「大隊長、大将を呼んできましょうか。」


 トゥバンは疲れ切った顔の若い兵士に目をやると、こくりとうなずいた。若い兵士が泥に足を取られながら駆けていく。トゥバンはその後ろ姿を見送ると、大きな息と共に立ち上がった。辺りを見回す。泥に汚れ、傾いたテントあちこちで泥に嵌まっている荷車や物資。青い空を行く日はすでに傾きかけている。


(あと三日……いけるのか?これは)


 不安と焦りがトゥバンの頭をよぎった。




 そこから一里先、南京西城城内。泥だらけの一人の兵士が広間に駆けこんできた。


「報告します!敵は泥に嵌まった物資の対処に大わらわ、泥で身動きが取れなくなっております!」


 フーは悠然とうなずいた。


「……よし。もう休んでよい。」


「は!」


 兵士は素早く出て行く。


「奴らはこの土地のことをあまり知らなかったようですね!」


 ルーチャンのウキウキとした声。


「今が攻め時かもしれんな。」


 フーが唸った。途端にルーチャンの目が輝く。


義父上ちちうえ!その役は私にお任せください!奴らを完膚なきまでに討ち破って見せます!」


 フーはちらりとルーチャンに目をやった。


(まったく……このお調子者め……)


「いや、お前にはまだ早い。相手は『鬼龍』セン。奴の前ではお前など小枝のようなものよ。」


 ルーチャンはブルルン首を横に振る。


「いえ!決してそのようなことはありません!私はこれでも『炎京の九槍』と呼ばれた男ですよ!? センの奴がいくら強くたって何するものですか!」


 フーは彼のキラキラ輝く目を気の毒そうに見てゆっくり首を振った。


「お前はその九人の中でも最弱だろう……センはわずか二十にしてこの帝国で最も強い二十人の男どもの長となった男だぞ。格が違うのだ……。」


 ルーチャンはそれでも引き下がらない。一歩前に詰め、必死にフーの目を覗き込んだ。


「それでも、奴に負けはしません!一撃を加え、敵の士気を挫いて見せます!」


 フーはじっと彼の目を見た。中で激しい焔が燃えている。フーは目を外して溜息をつく。


「そこまで言うのなら行ってくるがいい。彼ならお前の命までは取るまい……。」


 ルーチャンの顔がパッと明るくなった。


「は、はい!」


 上ずった声で言って広間から駆け出して行った。微かに歓声が響いてくる。フーは広間の入口に目をやった。


(あの目、わしの若いころにそっくりじゃな。)


 ――――――――――――――――――――――


(……ぬるいな)


 トゥバンはごくりと喉を鳴らし、空になった水筒を置いた。一息ついて前を見る。あれだけ苦戦していた荷車が泥から引き上げられ、水滴を夕陽に輝かせている。


(どうなってんだワンロンの力は……)


 向こうの方ではワンロンが泥に嵌まった荷車を二台同時に引っこ抜いている。歓声があがった。トゥバンは苦笑して首を振った。と、


「トゥバン殿!」


 振り向くと一人の兵士が膝に手を着きゼイゼイ言っている。トゥバンの眉間にシワが寄った。


「どうした。敵襲か。」


 兵士は汗まみれの顔をやっとのことで上げる。


「はい。ついさっき城内から敵が突撃してきて……こっちに向かってきてます。」


 兵士が後方を指差した。トゥバンは立ち上がって目をこらし、耳を澄ます。悲鳴が聞こえ、泥水が跳ね上がるのが見えた。馬蹄の音が近付いてくる。


(騎馬?どうやって……)


 思いつつ背後に振り返る。


「敵襲だ!敵は騎馬!」


 途端にざわめきが辺りを覆い、兵士たちがあっちこっちに走り始めた。敵襲敵襲と声が響く。トゥバンは辺りを見回し、手近な弓矢を手に取り、兵士の方を向いた。


「ご苦――。」


 トゥバンの耳が警鐘を鳴らした。トゥバンは咄嗟に兵士に飛びつき、横っ飛びに飛んだ。


 バリッ!バリバリバリィ!


 丈夫なテントを引き裂いて、一本の槍が先程まで兵士がいた空間を貫いた。トゥバンは背中に湿った熱い風を感じながらべちゃっと泥に倒れ伏す。馬蹄の音が過ぎ行き、緩やかに止まった。トゥバンが身を起こすと、白い鎧に身を包んだ騎馬武者の後ろ姿が見えた。馬は何やら奇っ怪な鎧のようなものを脚に着けている。


「セン!『鬼龍』のセンはどこだ!姿を現せ!」


 若い叫び声。トゥバンは一瞬遅れて、ワンロンの名字がセンだったことを思い出す。ワンロンが両手の荷車を放り出した。ガタンガシャンやかましい音。


「センなら私だ!何か用か!」


 ルーチャンはワンロンをぎりりとねめつけ、槍を突き出した。


「俺と勝負をしろ!」


 沈黙。荒い息のルーチャン。それを見上げ、ワンロンは首を傾げる。


「失礼ながら、貴公、正気かな?」


 緊張。ルーチャンの顔がみるみる内に真っ赤になった。


「バカにするなっ!」


 大音声。ワンロンは動じずに一歩ルーチャンに近付いた。


「別に私は貴公を馬鹿にしているつもりはない。ただ、見たところ少々……その、あまりにも不釣り合いなように感じたというか……」


「黙れっ!」


 パァン……響く音。槍がワンロンの脇腹を叩いた音。ワンロンの顔色が変わる。真っすぐにルーチャンと目を合わせる。


「……その仕草の意味、分かっておりますな?」


 ハアハア息を速めながらルーチャンがうなずく。


「勝負を、申し込む。」


「よろしい。そこまでするなら受けて立ちましょうぞ。」


 ルーチャンは槍を引いてうなずいた。


「ここだと足場が悪い。あそこでやろう。」


 ルーチャンは丘の一点を指す。ワンロンはそっちに目をやり、うなずいた。


「得物と、馬を連れて来る。しばし待たれよ。」


 去っていくワンロンをしばらく見つめ、ルーチャンは馬を回した。


 ※ ※ ※


 夕陽に照らされて対峙する二騎。大きいのと小さいの。それを遠巻きに眺める数百人の兵士達。多くの帝国兵士とちょっとの白仙軍兵士。


「さあ、始めましょうぞ。」


 ワンロンの声。彼は右手に緩く鞘ごと持っていた大刀をしっかりと握り直す。


「ああ。」


 ルーチャンはごくりと唾を飲み込んで手汗を拭くと、槍をしっかりと持った。


「我が名はガン・ルーチャン!炎京九槍が一人!倒せるものなら倒してみよ!」


 ワンロンの口の端がひくりと動く。


「我が名はセン・ワンロン!見事一撃を入れてみよ!」


 ルーチャンの眉がピクリと動いた。名乗りの残響が消えていく。一瞬の緊張。


「「ハッ!」」


 双方の騎馬がいななき、相手に向かってまっしぐらに駆け出した。揺れを殺しながら距離をはかり、動きを探り、そして間合いに入ったその刹那


「でやあっ!」


 ブウンと音を立て、ルーチャンが槍を振り上げた。刃がワンロンに迫る。


(入った!)


 ルーチャンは確信した。


(間違いなく首を斬り飛ばせる。相手は構えも何もなっていない。無防備だ、勝てる!)


 が、その思いは一瞬で消し飛んだ。空気が凍る。動きが止まる。恐怖が彼の心を支配し、全ての思考が頭から消し飛ぶ。



 気付けば、彼は草地に倒れ伏していた。ぼんやりとした意識の中で、腹部の鈍い痛みだけが鮮明に存在を主張する。馬蹄の音が近付いて来て、彼の真横で止まった。


「貴公の命は取りませぬ。が、速やかに帰ることを勧めます。兵士達に身ぐるみ剥がされる前に。」


 馬蹄の音が遠ざかっていく。ルーチャンは地に手を着き、腹の痛みに耐えながらふらふら立ち上がった。やっとのことで馬にまたがり、苦痛に顔を歪めながらちょっとワンロンに振り向く。


「お、ぼえ……てろ。」


 ルーチャンは城へ駆け去っていった。それを帝国兵士達が慌てて追いかける。あっという間に丘は静かになった。



「……なぜ、敵将を返されました?」


 帰ってきたワンロンに、ウェザンは静かに尋ねた。ワンロンはちょっとびっくりした顔をする。


「彼はとても未熟だった。命を取るのは忍びない。」


「ふむ……なるほど。」


 ワンロンは訝しげにちょっとウェザンを見つめ、去っていった。ウェザンはその後ろ姿を眺める。


(こりゃあいよいよ……早く手を打たなければ。)


 彼はテントに消えた。

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