第28話 古城

 古城の奥、小部屋。クドは一人で湯に浸かっていた。立ち込める湯気が時折ぴちょんと揺れる。クドは湯船の中で胡坐をかき、手を組んで微動だにせず固まっている。トントンと戸が鳴った。


「主公様、お客様がお見えです。」


 クドの眉間にシワが寄り、彼はスウと目を開ける。


「すぐ行くと伝えろ。最上の客間に通せ。」


 は、と声がして足音が遠ざかっていく。クドはふうと溜息を吐いて頭をぷるぷる振った。水滴が飛び散る。彼はまた一つ大きな溜息を吐き、自分の右腕に目をやる。綺麗な腕だ。一月前には骨まで見えていたとは誰も思わないだろう。


「……行くしかない、か。」


 クドは水から体を抜き出した。音もなく、速やかに浴室から出る。そして着替えを手に取ろうとしたその時


「久しぶりじゃな。……いや、久しぶりと言っても十日、か。」


 はっはっは。クドは着替えを掴んだままぎろりと横を見た。いつの間にやら、猿のような老人が脱衣所の入口に立ってくすくす笑っている。


「これは皇帝陛下。いかがなさいました?」


 ウォーが笑いを収める。


「兎にも角にも服を着た方が良いぞ。話しずらかろう。」


 クドは一瞬動きを止め、げんなりした顔をして着替えに体を潜らせた。はあと溜息を吐く。


「どうした。元気が無いのう。」


 ウォーは相変わらずにこにこしている。クドは何も言わずに帯をぎゅっと締めた。


「行きましょう。」


「どこに?」


 ウォーは首を傾げる。クドの唇がひくりと動いた。


「客間です。このような場所では――」


「良い良い。ちょっとした用じゃ。ここで事足りる。」


「……は。」


 と、ウォーがちらりと目線を下に向けた。クドは訝しげにウォーの顔をうかがう。ウォーはイラついたようにチラッチラッと素早く目線を動かした。クドは慌てたように跪く。ウォーはこほんと咳払いしてクドの方にちょっと寄った。


「クド・ラクガル、近頃帝国西部を荒らしてまわっている野盗共のことは聞き及んでおるな?」


「……は。白仙軍のことでございますな?」


 ウォーはちょっと不機嫌そうな顔をして咳払いをした。彼は「軍」という単語を嫌い、白仙軍のことを「野盗共」と読んでいる。彼にとって「軍」とは炎帝国正規軍のことであり、それ以外の兵士集団は反乱軍であろうと隣国の正規軍であろうと野盗の類でしかないのである。


「失礼いたしました。あの汚らわしい野盗共のことでございますな?」


「うむ。奴らの狼藉は止まることを知らず、今や州兵だけでは手に負えぬ。……全く情けない。」


 ウォーの顔が険しくなる。白仙軍は征伐軍を追い返した後連戦連勝を重ね、今や帝国四都百州のうち六州を支配下におさめていた。特に南方、セン・ワンロン率いる軍勢は南都麗京に迫りつつある。それに触発されたのか帝国各地で反乱の動きも出てきている。クドのもとにも不吉な報せが毎日のようにもたらされていた。ウォーの言葉は続く。


「そこで、再び征伐軍を組織することとした。三方三軍に分け、野盗共を一気に押し潰す。そなたには南軍の総大将を任せたい。」


「は?」


 クドは思わず顔を上げた。険しい顔のウォーと目が合う。


「不服か?」


 ウォーの目が細くなる。クドは慌てて顔を下げた。


「いえ!そういう訳では……ただ。」


「ただ?」


 ウォーの眉がつり上がる。


「ただ、私には少々荷が重いかと……。南方の野盗共を率いるのはあの『鬼龍』セン・ワンロン。私が勝てるとは到底思えませぬ。私は一度奴らに敗北を喫しております故……。」


 沈黙。クドの額に汗が滲んだ。遠くから客を探す声が聞こえてくる。ウォーが体を回した。衣擦れの音。


「……朕の命が聞けぬか。なればラクガルは――」


「お、お待ちください!」


 クドはドタンと音を立ててウォーの衣にしがみついた。必死の形相でウォーの顔を見つめる。ウォーの目は冷たい。クドの口が素早く動く。


「やりますやらせて頂きます。ですからどうかラクガルは、一族は……」


 ウォーが衣を引っ張る。クドが床に倒れた。ウォーはちょっとクドと目を合わすと、きびすを返した。


「近くに三万の兵がいる。それを連れていけ。勝利なくばそなたの血族は跡形もなく消え去ると思え。」


 そう言ってウォーは何かぶつぶつ唱えた。ウォーの衣がゆらり揺らめき、空間に溶けていく。数秒後、ウォーの姿は完全に消えて無くなっていた。


「ちくしょう!」


 ダン!


 クドはうつ伏せに倒れたままぎりぎりと歯を食いしばった。目の奥に焔が揺れる。


「いつか……ッ!」


 また床に握り締めた拳を叩きつける。生暖かい液体が漏れ出すのを感じた。遠くからパタパタと足音が近付いてくる。


「主公様、お客様は――あら!どうなさったのです?! 血が――」


「……何でもない。」


 クドは平静を装ってゆっくり立ち上がった。心配気にこちらを見る女中と目を合わせる。喉の奥から声を絞り出す。


「何でも……ないんだ。心配するな。」


 と、女中はヒッと息を飲み、クドにくるりと背を向けて走り去っていってしまった。クドは呆気にとられて数秒固まった後、がしがしと頭を掻いて鏡に目をやった。獣のような目がクドを見返した。中で焔が燃えていた。

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