第20話 緑谷

 緑の谷を駆ける風、ざわざわとうごめく森。それを目前として、クド・ラクガルは馬を止めた。ザッ、と小気味良い音を立てて後ろの足音が止まる。それに続いてザクザクと散発的な音が続いた。クドは眉をひそめる。足が止まる音は止まることを知らない。ザクザクだらだら続いていく。十万を越える大軍勢となると、全体が止まるまで相当な時間がかかる。


 クドは律儀にそれを待ち、それからくるりと馬を返した。一糸乱れぬ隊列を保つ赤茶色の軍勢の向こうに、無秩序に広がる兵士の群れ。クドはイライラと無駄に豪華な采配を指で叩いた。


 そもそもなぜクドがこんなところにいるのか?それは一月ほど前にさかのぼる。中央から監察士がやってきて、トゥバン一行を逃したことを激しく責められた。このままだと家が潰れるかもしれないとまで言われた。


 ラクガル家は建国の時から続く武の名門である。ただでさえクドの真面目さゆえに冷遇されている。潰せば先祖に申し訳が立たないうえに、ラクガル家に仕える数千人の人々が路頭に迷う。クドは考えた。


 なんとかこの失態を埋められないものか。


 そんな時に舞い込んできたのが白仙軍征伐軍の話である。聞けば十日後にシャーハンドゥに集結するらしい。そこでクドは馬を飛ばしに飛ばして本家にたどり着き、大急ぎで軍を組織してシャーハンドゥに向かった。


 着いた先で見たのは、自堕落に遊びにふける各地の州将と、まるで統率がなっておらず常にペチャクチャ喋るべろべろの兵士達だった。そして、後から合流してきた軍の指揮官達も、元貧農から元金貸しまでおおよそ戦ができなさそうな者達ばかりで、彼らにただ一つ共通していることといえば、皆誰かしらのウォー王朝期の家臣の血を引いているということだけだった。


 全く兵法の心得がない彼らは当然のようにクドを頼ってくる。大将軍のウォー・シンも途方に暮れたような顔をして度々クドに助けを求めてきた。それらに忙殺されているうちにいつの間にか副将軍ということにされてしまい、出発して三日で大将軍に代わって軍の先頭を務めることになってしまった。そして今に至るという訳である。


 クドが大きく息を吸った。


「兵士達よ!」


 鍛え上げられた大音声が響き渡り、ざわざわと騒がしかった後方の部隊が静かになる。


「これより我々は敵地に入る!皆心して慎重に進むように!」


 大将格の指示は伝令係によって全軍に伝えられることになっているが、この軍の場合伝達が行き届くか甚だ怪しい。実際三部隊向こうのウォー・シンはこっくりこっくり船をこいでいる。クドはちょっとため息をついてまた声を張り上げた。


「奇襲がくる可能性が高い!隊列を切られないように、なるだけ太い隊列を作って進むように!」


 クドはくるりと馬を回し、緑の隙間、広い道に向き直った。


「勝てるでしょうか。」


 副官のイェンが言う。


「……勝つしかないだろう。勝たなければラクガル家四百年が途絶える。」


 クドはキリリと前を見つめ、無駄に豪華な采配を握りしめた。


「進軍!」


 大音声をあげて、馬を進める。一糸乱れぬ足音は、すぐに無秩序な足音にかきけされた。赤茶色の軍団は太い隊列を組み、緑の谷の中へと足を踏み入れた。


同刻 征伐軍正面百里先


 ノグノラを囲う尾根の東側、ちょっと出っ張った岩の上に、白いローブを着たリバンザが微動だにせず立っていた。フードは微かに青白い光をはらんでいる。


「……見えた。」


 呟きが空気を揺らした。二人の兵士がリバンザに駆け寄り、紙を取り出す。


「敵軍は八列縦隊で進軍中――いや、違うな。八列縦隊で進軍しているのは先頭部隊だけだ。その先は……ぐちゃぐちゃだな。隊列がなってない……足音も揃ってない。ペチャクチャ喋っている……だいたいは女と酒の話だな。帝国軍がここまで堕落しているとは……将達もひどいものだ。」


 二人の兵士は一言一句紙に書き留めながらも眉をひそめて顔を見合わせた。


「これ、勝てるんじゃ……」


「油断大敵だ。先頭部隊、赤茶色の鎧を着こんだ部隊は要注意だ。数は約三千。良く訓練されている。なるべく当たりたくない。あと比較的まともな部隊は……武将がロバに乗っている部隊くらいだな。他にめぼしい部隊は無い。」


 さらさらと筆を走らせる音。リバンザは目を動かし、先頭部隊の武将に目を止めた。目の下に気の毒なほどひどい隈があり、時々目をパチパチさせている。その質素な、それでいて実用性を兼ね備えた鎧とは対称的に、右手には実用性の欠片もない無駄にばかでかく、全体に金銀細工がほどこされた、成金趣味の塊のような采配が握られていた。


(きっと無理矢理押し付けられたんだろうな。)


 リバンザは軽い同情の目でその名前も知らない男を見た。と、男がなにかに気づいたかのように辺りを見回した。


 ドクン、とリバンザの心臓が脈打つ。


(まさか。いや、そんなことあり得ない。百里……可能性は無くもないけど、まずあり得ない。落ち着け、落ち着け、落ち――)


 その時、男がピタリと止まったかと思うと、ゆっくりと顔をあげ、リバンザと目を合わせた。寒気がリバンザの体を駆け抜ける。リバンザは咄嗟に目を閉じた。男の姿が一瞬で遠ざかり、暗闇が視界いっぱいに広がる。自分の呼吸がやけにうるさく聞こえた。



「主公、どうされました?」


 イェンの声


「いや、なんとなく……ひんやりとした……」


「ひんやり?」


(見られていた?)


 クドは顔を下げた。訝しげな目をしたイェンと目が合う。


「……いや、何でもない。」


「左様で。」


 二人は前を向く。しばらく経ってクドが口を開いた。


「イェン、この戦い、おそらく敵の方が上手だ。慎重にいこう。」


 イェンはまた訝しげな目で主人をちらと見た。


「……は。」




 リバンザは閉じていた目を開けた。くるりと谷に背を向ける。


「どうされました?」


 二人の兵士が問う。


「敵の一部は簡単に策に掛かってくれそうにない。戦いの準備を十二分に整えておくように、とその紙に付け加えてくれ。以上だ。」


 二人の兵士はちらりと視線を交わすと、筆を走らせた。紙を風に泳がせ、折り畳んで鎧の中にしまう。


「では、お送りいたします。」


「ありがとう。」


 リバンザは緑谷に目をやり、口を素早く動かす。言葉は誰にも聞かれることなく風に溶けていった。リバンザは微笑を浮かべると、二人の兵士に脇を固められ、真っ白い峰に歩いていった。

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