第4話 月夜

 夜だ。空には月が輝き、凍るような空気を通して草原の緑を冷え冷えと照らしている。その緑はひょうひょうと吹く風に揺られて、幻想的な風紋ふうもんを浮かび上がらせている。


 大草原では風が吹き止むことがない。常に強かれ弱かれ風が吹いている。大草原が「風のふるさと」と呼ばれるゆえんだ。そのため草原の夜はとてつもなく寒い。冬ともなれば野宿をする時に凍死を覚悟せねばならなくなる。だから大体の人間は夏に草原を旅するわけだが、夏でも寒いものは寒い。何も遮るものが無い草原のど真ん中で野宿をしようと考える者はどこにも居ないだろう。だから丘の陰に隠れるようにしてテントを張り、火を焚いて寒さを凌ぐのだ。そう、トゥバン達三人のように。


「……冷えますな」


 ワンロンがぶるりと体を震わせた。狭いテントにすし詰めになった三人を、揺らめく炎がぼんやりと照らしている。


ヒュウゥ……


 またすきま風が吹き抜けた。厚手のフェルトのテントとはいえ風を完全に防ぎきれる訳ではない。風はテントの隙間から容赦なく三人を突き刺してくる。気の毒に、ワンロンは毛布二枚にくるまっているのにずっとフルフル震えている。


「そういえば、ワンロンはどうやって寒さをしのいでたんだ?来たときはテントも何も無かったよな。」


 ガンザンが問う。ガンザンとトゥバンは草原育ちなだけあって、風の冷たさなど意に介していない。二人とも悠然ゆうぜんとしている。


「ええ。途中まではテントや他の荷物もあったのですが、一度追い付かれそうになった時に捨ててしまって……。」


 ワンロンはカチカチと歯を鳴らしながら答えた。いきなりトゥバンがテントの外に出ていった。なにやらごそごそ音がした後、右手に銀色の筒、左手に三つのマグを持って戻ってきた。


「茶でも飲むか?」


 ワンロンは震えながら必死に頷く。トゥバンは微笑んで腰を下ろし、人数分暖かい茶を注いで渡していった。ワンロンが震える手でマグを傾ける。と、みるみる内に彼の顔色が良くなっていった。


「これは……温まりますな。」


 トゥバンはニヤリと笑って、茶を口に運んだ。


 いつしか月が天頂を通り過ぎ、三つのマグは空っぽになって火にゆらゆらと照らされている。それをぼんやりと見つめるガンザンのまぶたは今にも落ちそうだ。テントに漂うまどろんだ空気を破って、トゥバンが口を開いた。


「ワンロン、前から思ってたんだが、どうやって俺やガンザンがどこにいるか知ったんだ?ゴルテからは『南西』としか言われてなかったんだろ?」


 ワンロンが目をしばたたいて身を起こした。頭をぶるんと振って、なにやらごそごそし始める。トゥバンは何が出てくるのかと首を伸ばした。ワンロンが取り出したのは両手に収まるほどの小さな紫色の水晶玉だった。天辺に小さな金具が付いていて、中で無数の粒が自由自在にうごめいている。金色の粒もあれば銀色の粒もある。色とりどりの粒が思い思いに動き回る様子は、トゥバンの目を釘付けにした。よくよく見ると、球の端の方、粒がまばらになっている部分に、二、三個の粒がまとまって光っているのが見えた。


「これは……何だ?」


 トゥバンがぼんやりと口を動かす。


「これは人球儀じんきゅうぎと言いまして、星の加護を受けた人間を投影する大変貴重なものです。」


 トゥバンは光っている粒を指差した。


「この光ってる粒は何だ?」


「それが私達三人です。」


「へぇ……こんな小さいのが……」


 トゥバンはまじまじと小さな三つの粒を見つめる。


「ここに、いくつか星が集中しているでしょう?」


 ワンロンが三つの粒の右上の辺りを指差す。トゥバンが目を移すと、数十の星がうぞうぞとうごめいているのが見えた。


「ここが、白仙軍の本拠地です。地図でいうと……」


 ワンロンがまたごそごそして胸元から古びた地図を取り出した。トゥバンが身を寄せて覗きこむ。地図の左上に「炎帝国全図」と小さく書いてあって、都市や山、川、街道の名前、州境などが厚手のざらざらした紙いっぱいに描かれている。地図の右端のほうに大きな赤丸があり、その上に真っ赤な太字で「帝都炎京」と書かれていた。そこから街道を示す黒い線が四方八方に伸びている。


 その内一本の太い横線を目でたどっていくと、地図の左下に「大草原」と書かれているのが目に入った。そのまわりは都市もまばらで、街道も目で追ってきた一本しか通っていない。かわりに部族名が空白を埋めている。トゥバンは大草原の左の外れに「トンクル」を見つけて、ちょっと胸が踊った。


「ワンロンは……随分と遠いところからやって来たんだなあ。」


 トゥバンのしみじみとした感嘆に、ワンロンは笑みを浮かべる。


「ええ、まことに長い旅でした。炎の東から西へ数万里、これからなおも数千里行かねばなりませぬ。」


 そう言ってワンロンは「トンクル」のちょっと上に指を置いた。


「この辺りが私達の居るところです。」


 そこからスススと指が上に滑り、「ラムライン山地」の真ん中辺りで止まった。


「そしてここが私達の目的地。白仙軍の根拠地である『ノグノラ』です。」


「のぐ……のら?」


「この辺りの古語で、『白い峰』という意味だそうです。」


「なるほど。だから『白仙』軍。」


 ワンロンはびくりとして左を向いた。いつの間にやらガンザンが興味津々な顔で地図を眺めている。


「いつの間に……。」


 ワンロンが呟く。ガンザンは気にも止めずに大草原の外れを指差した。街道が大草原の北縁ほくえんを飾る山脈と交わっている。


「ここ、関所がある。ワンロンは賞金首でしょう?どうやって抜ける?」


 ワンロンとトゥバンが地図を覗き込む。


「関所を避けてくわけにはいかないのか?」


 トゥバンの問いにワンロンは首を横に振った。


「山脈の反対側はとてつもなく傾斜が激しいです。私は四日かけて登りました。登りはまだしも、下るのは無理でしょうな。自殺行為です。」


「ふうむ……。」


 トゥバンは腕を組んで黙り込んでしまった。風の音だけがテントを満たす。


「ともかく、関所に着かないことにはどうしようもないよ。関所をどう抜けるかは着いてから考えよう。」


 ガンザンの言葉に、他の二人はこくりと頷いた。


――――――――――――――――――――



 三日後、三人は小高い丘の上に立っていた。三里ほど先では、傾斜のきつい大地が天へ向かう途中で切り落とされ、茶色い尾根を作り出している。尾根は三人の正面の辺りで一度プツリと切れ、わずかな隙間を作って左右に伸びている。その隙間を埋めるように灰色の建物が建っていた。


「どうする?」


 そう言ってトゥバンがチーズをかじりとる。


「ワンロンが変装するっていうのは?」


 ガンザンが草を食む愛馬を撫でながら言うと、ワンロンは無理だと首を振った。


「変装云々で通れるところではありません。」


「ほうひて?」


 もぐもぐしながらトゥバンが問うと、ワンロンは暗い目をした。


「単純なことです。あそこを通るには『心付け』が必要だということです。」


 トゥバンがチーズをごくりと飲み込んだ。


「……腐ってるな。」


 ワンロンは深く頷いた。


「ここ四、五年で官憲かんけんはすっかり腐ってしまいました。口惜しいことです。」


「ふうむ……。」


 トゥバンは腕組みをして関所を見つめた。正攻法では破れそうもない分厚い門だ。何か良い案は無いかと目を動かすと、草原狼の群れが眠っているのが目に入った。大草原最強の捕食者だ。とても賢く、その大きさは馬より一回り小さいくらい。


「ワンロンの馬は一日で何里駆ける?」


「私の馬ですか?……八百里弱といったところでしょうか。」


「へえ……良い馬だ。」


 トゥバンは口のまわりに付いたチーズのかけらをぺろりと舐めとる。


「よし……良いこと思い付いたぞ。」


 トゥバンの口角が吊り上がる。トゥバンは他の二人に手招きした。二人はトゥバンの側に寄る。トゥバンは嬉々とした顔で計画を話す。


「……ていうのはどうだ?」


「良いんじゃないかな。」


「それでいきましょう。」


 三人は顔を見合わせて頷き合うと、一緒に丘を降りてテントに戻っていった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る