第3話 出立

 夜。トゥバンはぼんやりと丘の斜面に手を着き、雲一つ無い星空を見上げている。青く輝く半円は西の方に傾いて、地に微かな影を作り出していた。ヒュウ……トゥバンはビクリと体を震わせて、


「……さむ。」


 膝を抱えて丸まった。と、


「風邪ひくよ。」


 斜め後ろを見上げてみれば、ガンザンが二つのマグを持って立っていた。トゥバンは黙って目を戻した。ガンザンが隣に座り、マグを手渡してくる。一口すすると、甘い熱が体に染み渡った。フウ……息を吐いてまた空を見上げる。


「……なあ、どうする?」


 トゥバンが問うと、ガンザンは黙ってマグを傾けた。


「……僕は行きたくないよ。」


 トゥバンはちょっと驚いたようにガンザンをちらりと見た。


「何で?あの大男を助けた時点で俺達は反逆者で、あいつの言い分が本当なら俺達は……行くしかないだろ。」


「分かってる!分かってる、けど……さ。」


 ガンザンは肩を微かに震わせた。


「……怖いんだよ、僕は。」


 沈黙


「いつ見つかるか、いつ追われるか、いつ襲われるか、いつ捕まるか……いつ、死ぬか……何も分からない。そんな旅に、出たくないよ……。」


 声が震える。ガンザンは自分の膝を強く抱き締めた。マグが転がり、湯気があがる。


「……僕には、トゥバンみたいな強さは無いんだ。」


 ……沈黙。


「あれ、見ろよ。」


 やおらトゥバンが天を指差す。ガンザンが見ると、そこには明るく輝く橙色の星があった。




「ガンザンはあの星の加護を受けてるんだろ?俺の見てみなよ。」


 指が天を滑り、暗い緑の星を指す。


「俺のはあれだ。見てみろ、ガンザンの星の方が何倍も明るいじゃないか?」


 ガンザンは微かに笑みを浮かべて仰け反った。二つの星を視界に入れる。


「……ありがと。」


 トゥバンはにやりと笑って目を伏せた。


 ※ ※ ※


 翌朝、揺蕩う朝靄にくすぐられて、トゥバンはクシュンとくしゃみした。ブルっと震えて鼻をこすりながら目を上げる。目線の先では、浮かない顔のガンザンが、ユルクと母親のメリに囲まれている。


「どうしたそんな顔をして。『帰りに笑えるように旅立つ時こそ笑え』と言うだろう。」


「そんなこと言ったって……。」


 力無く首を振る末っ子を、メリはキッと睨んだ。


「せめてしゃんと背筋を伸ばしなさい!『灰狼』の名を受けているんでしょう?」


 ガンザンはほとんど反射的に背筋を伸ばした。顔もちょっと引き締まる。ユルクが柔らかく笑って頷いた。


「うむ。それで良い。……お前は一族の大英雄の名を背負ってる。その名に恥じぬようにな。」


 ガンザンは顔を引き締め、力強く頷いた。トゥバンはちょっと寂しげな笑顔を浮かべて彼らを眺めていた。


「微笑ましいですな。」


 いつの間にか、ワンロンもトゥバンの隣で温かい目を親子に向けている。


「ああ。ガンザンが羨ましいよ。」


 ワンロンが眉をピクリと動かしてトゥバンを見る。と、その横顔に影が映る。


「母は六年前に楽園に行ったんだ。」


 トゥバンがぽつりと呟いた。ワンロンは顔を伏せる。


「……天に幸あれ。」


 ……


「おうい、トゥバンや!」


 沈黙を断ち切るおばばの声。トゥバンが見下ろすと、おばばの白濁した目と目があった。おばばは両手を合わせてぎゅっと握りしめている。


「そなたに良いものをやろう。」


 おばばの手の中から古びた首飾りが姿を現した。楕円に削った木を十個ほど繋げた、なんの変哲もない首飾りだ。祭りに行けばいくらでも手に入る。トゥバンは眉をひそめて首を傾げる。おばばは精一杯背伸びして首飾りを掲げている。


 トゥバンはぬっと身を屈めて首飾りを手に取った。近くでよく見てみると、楕円に削られた木の表面に細かい彫刻が施されている。ただ、線が細すぎて意匠までは読み取れない。


「おばば、こりゃ一体なんだ?」


 トゥバンが首飾りから目を外すと、おばばは不気味ににんまりと笑った。


「いずれ分かるじゃろうて。肌身離さず持っておきや。」


 それだけ言って踵を返し、ガンザンの方に歩いていく。トゥバンは言われるがまま首飾りを首に掛けながら呆気にとられた顔でおばばを目で追った。


「ほれほれ!名残惜しかろうが時は止まることを知らぬ。早う行かねば時の流れに乗り遅れるぞ!」


 親子はおばばの方に振り向いた。ユルクが顔を和らげ、手を解く。


「そういやそうだな。じゃあみんな、こっちに――」


 ユルクの眉がピクリと動いた。一瞬にして顔が険しくなる。


「伏せろ!」


 瞬間、風を切る音。そして轟音、熱波。馬達が激しくいななき、前足を上げて立ち上がる。トゥバンは必死に馬をなだめ、前を向いた。見えたのは、大炎に包まれる営地、その向こうを埋め尽くす大量の黒、黒、黒。頭が真っ白になった。舞う黒焦げの布、空を舐める赤い舌、鼻につく甘ったるい匂い。世界が崩れていく――


「逃げろ!!」


 大音声にハッと我に返った。倒れたユルクが顔を上げ、トゥバンをひしと見つめている。トゥバンの手綱を持つ手がピクリと動いた。


「俺達に構うな!行け!」


 凄まじい気迫だった。トゥバンの心臓がドクンと鳴る。彼は一瞬にしてを理解した。どこか遠くからガンザンの声が聞こえる。いつ移動したのか、それに混じってワンロンの声。


「――行かねば……」


 トゥバンは唇を噛み、ぎゅっとユルクを見つめると、馬を返して駆け出した。少し遅れて、二つの馬蹄音が続く。


「行け!風のように疾く!大地のようにしっかりと進め!狼達よ!」


 ユルクの声が三つの背中を押す。三人は、速度を上げて先へ先へ、地平線の先へと駆け去っていった。


 ※ ※ ※


「……行ったか。」


 ユルクはゆらりと立ち上がった。喉からクツクツと笑い声が漏れる。炎の向こう、人形達に向き直り、冷ややかな笑み。


「愚かだなあ……」


 素早く首を捻り、正面からの矢を避ける。


「ユル!」


 ユルクの背後、何もないはずの空間から突如弓を引く音が響く。人形達がざわりと動いた。機を逃さずユルクは手を振り上げる。


「ハーイェイ!」


 瞬間、数多の矢が宙に現れた。風を切り、炎を貫き、炎の雨となって降り注ぐ。黒は瞬く間に紅蓮に包まれ、声なき叫びをあげてユルクの方へ駆け出した。空間が捩れ、歪み、散り散りに溶け去ってトンクルの戦士たちが姿を現す。ユルクは一人の戦士が連れてきた愛馬に跨ると、炎の雨を突っ切ってくる黒達に向き直った。その足元でおばばが笑う。


「清々しい気分じゃ。なあ?」


 ユルクも笑って弓を構える。


「この大地を墓場にするなら本望だ。やってやろうじゃないか。」


 スウと息を吸い込んだ。腹の底から声を出す。


「者ども!これが最後の戦いだ!『灰狼』の末裔の力!出し惜しむな!」


 鬨の声があがる。紅蓮と黒の大群に、再び矢が降り注いだ。


 ※ ※ ※


 ガンザンがふっ、と来た道を振り向いた。見えるのは緑と青だけ。


「ガンザン、どうかしたか?」


 トゥバンの声。


「……いや、何でも――」


 その時、地平線の一点がカッ! と眩く光った。爆炎が天を衝き、びょおうと大きな風が吹き抜ける。


「嘘……だ。」


 ガンザンがぼんやりと呟いた。馬がいなないて足を止める。


「ガンザン、どうした?」


 トゥバンが馬を止めて振り向いた。その目が大きく見開かれる。流れる沈黙。彼らは、爆炎が丸く縮こまり、空に溶けて消え去ってもなお、地平線の先を眺め続けた。


「……行こう。」


 トゥバンはようやっとそう言って前を向き、馬を進めようとした。


「……なあ。」


 彼が振り向くと、ガンザンは地平線を見つめたままだった。


「決めたよ。僕はいつか……」


 ガンザンは振り向いてトゥバンと目を合わせる。その目は、深い深い焔に彩られていた。いつかの先は出てこない。既に言葉は要らなかった。トゥバンは深く頷き、前を向く。二人はワンロンを追って馬を駆る。


 遥か上方、虚空の中を舞う黒い鳥が、地を見下ろしてニヤリと笑った。



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